終章 〝意味〟
◆
正門から出る前、私はもう一度校舎を見上げた。
周りには誰もいない。
といっても、本当に誰もいないわけではない。
そこかしこから、ハイテンションな会話、あるいはここぞとばかり泣いている声、偉そうな訓辞、第二ボタン云々。
一年と少し前、この校舎と、そしてその周囲で起こった、いくつもの凄惨な事件。
しかし、そのことが今この瞬間、この場所に影を落としているとは、少なくとも私には思えなかった。
そのくらいみんな、素直に笑い、そして門を出ることなく、高校生活最後の日を、思い出深いものにするべく語り合っている。
私はそんな同級生たちを横目に見ながら、静かに門をくぐった。
誰も私に声をかけて来たりはしない。
私はしかし、ひどくその事実にホッとした。
卒業式の会場を出て自分の教室に向かう途中、男子生徒に呼び止められた。
受験の時には、横に座った同じ受験生の男性に声をかけられた。
受験会場から帰る途中、駅で大学生くらいの男性に、突然映画に誘われた。
以前の私なら、彼らのアプローチを簡単に退けることができた。
大好きな彼氏がいる女子高生を演じればよかったし、あるいは哲学的な謎かけばかりを次々と並べ立てて、相手をウンザリさせても良かった。隙のないエリートを演じたこともある──あれはちょっと疲れるので、あまり使わなかったが。
彼女なら、どうするのかな?
あの事件のあと、私は一切の演技をやめ、学校でも素のままで通すことにした。
私の振る舞いの突然の変化とその落差に、みんな驚いていたようだったが、私は別のところで驚いていたので、彼らの反応はそれほど気にならなかった。元々本性を現しただけだったし、心の通った友人など一人もいなかった私にとって、彼らとの関係がこじれようがどうしようが、別段問題のあることではなかった。
驚いたのは、みんなが本当に、彼女のことを急激に忘れていったことである。
『仲良しグループ』だったはずの桜井三奈も柳麗も、そして皆川栄も前島純一も、二、三日後にはほとんどキレイに彼女のことを忘れてしまったようだった。わかっていた通りだったとは言え、さすがにこれほど急で激しいものだとは思わなかった。
私は最近、よく親友であった彼女のことを考える。そして彼女のことを私だけがいつまでも記憶に留めている事実について、一つの仮説を立ててみた。証明することはおそらくこれからもできないだろうが、しかし私はこれが真実であると確信している。
彼女はあの時点で──『カレ』を殺したあの時点で、『本当の彼女』に『戻った』。
しかし私はその前後、彼女のことで頭をいっぱいにしていた。つまり自己の「思念」の中に、彼女のための大きな部屋を用意していた。そして『本当の彼女』に『戻った』彼女が、記憶が薄らぐことのないまま私の前に、連続して同じ人物として存在し、そして同じ人物として私の「思念」に記録された──。
本当の私に戻ってみて改めて思い知ったのは、本当の自分がひどく人付き合いが苦手だということだった。
男性にナンパされたり告白されたりしても、ただただおどおどと逃げ出すことしかできない。
女性が相手でも、まともに目を見て話をすることができない。
胸を張って、他人に何かを言うことができない──。
そんな私を支えてくれたのは、やはり『本』だった。
彼らは決して嘘をつかない。それが社会一般的には真実でないことであっても、その本の中では真実であり、著者が嘘をつくことはあっても、彼ら自身が能動的に嘘をつくことはない。彼らはすべてをありのまま私にぶつけてくれ、そして私がそれをどのように解釈しても、決して不平不満を口にすることはない。
そう、あの『Embrace』も含めて──。
私にとって、最高の『友人』たちだ。
元々他人と関わることを好まない私だったが、事件に関わった何人かの人物のことについては、多少なりとも意識して、情報を拾ってみた。
まとめてみるとこんな感じになる。
柳麗は、あの事件のあと皆川栄と付き合い出した。それほどオープンではなかったが、決して隠しているというふうでもなく、三年生になるまで二人の関係は続いていたようだった。
だが三年生になり、彼が彼女に完全に夢中になった頃、彼女はあっさりと彼を捨てたらしい。理由についてはよく知らないが、どうも「飽きた」というニュアンスのものではあったようだ。
その後、彼女はすぐに大学生と付き合い始めたらしいが、今どういう状況なのかは私は知らない。
前島純一と桜井三奈は、あの事件のあとプライベートな会話を一切しなくなった。
完全に二人の関係は壊れてしまったようで、今でも互いに目を合わせることすらしていないようだ。あの事件の影響は、生き残った彼らにも、確実に影を落としている。
その真相を、全く知ることもなく。
郡湊都については、学年が違うので詳しくはわからないが、どうもあの事件のあと、不登校状態になったらしい。
それでも何とか卒業はできたようだが、大学の推薦入学は取りやめになったと聞いた。少しばかり理由を知りたい気持ちにはなったが、そのことを詳しく知っている者は三年生にもいないようで、結局突き止めることができなかった。
何となく薄幸そうで、無理して気丈に振る舞っているようで、そしてそれがある程度上手く行っているようで──私は好感を持っていたのだが。
守井楓は、状況は変わらず入院し続けているらしい。回復の見込みも全くないのだと風の噂で聞いた。そして彼女には、当然、小此木尋の殺害容疑がかかっている。
罪深い彼女には、それも仕方のないことなのかもしれない。
だって彼女がそう、言っていたではないか──。
交通事故で死亡した門松の葬式は『盛大』だった。
県内外各地の有力な暴走族の集団が次々と訪れ、轟音の空ぶかしを辺りに散々響かせたあと去っていく──の繰り返し。
何でも、彼は県内どころか隣県すべてを巻き込んだ地域において、歴代でナンバーワンと言われるほどのいわゆるゾクの頭領──だったらしい。校長の実子という立場でなければ、とても教員にはなれなかったであろう、そんな経歴の持ち主だったようだ。
学問を教えるという意味での教師としての彼は、とても有能な人間だったのだが。
そして私は──。
私はこの四月から、東京の国立大学であるT大学の医学部に通うことになった。
いわゆる偏差値というヤツでは国内最高の値を持つ超エリート校の中でも最難関の、医者になるための学部だ。薬学部と二者択一で悩んだのだが、いろいろな症例に直接立ち会う機会は医者の方があるので、結局医学部にした。
学費の心配はない。
私はそこで最低六年間、学問に励むことになる。
しかし私は、成り行きで医者になることはあっても、純然たる医者になるつもりは全くなかった。
私が医学部に入るのには大きな理由があった。そしてそれは、薬学部と医学部とで散々迷ったことと無関係ではない。
校門を出て帰路についた私は、真っ直ぐ家へ帰ることはせず、H校を見下ろせるジャングルジムのある公園へと足を向けた。
あの、『宇佐美静香』改め『蓮見和司』と初めて出会った、あの公園だ。
私は『カレ』に、惹かれるものを感じていた。
おそらくそれは、『カレ』の持つ悲壮感と、そして始まりからして希有なものだった『カレ』の人生が、同じく希有な人生を送ってきたこの私の肌に、訴えかけるものがあったからなのだと思う。
これは単なる思い過ごしなのかもしれない。
しかし、『カレ』以外に、今まで私が出会った中で、そうした印象を私に与えた人は男女を問わず誰もいない。
ひょっとしたら──ひょっとして、あの人が、あの事件で犠牲になってなかったとしたなら。
彼女が「願い」をかなえ、そして、消滅していたなら──。
結局事件は、古代希と白井友香が『自殺』。
そして小此木尋が、守井楓による『殺人』ということでケリがついた。
だが、それに反して、警察に通報したにもかかわらず、『カレ』の死については、大々的な報道が一切為されなかった。
警察の上の方が握り潰した。
私も口止めされた。
私の家が現場だったのに──だ。
でも、そんなことは私には些末な問題だった。
私は誰にも何も言わない。言うつもりもない。
『カレ』が死んでしまったことは真実で、そしてそれ以上の真実など、どこにも存在しないのだから。
ふと、涙が浮かぶ。
本当の私の涙。
哀しみの、涙──。
『U・S・A・M・I・S・H・I・Z・U・K・A』
私は、『カレ』が死ぬことを、決して望んではいなかった。
ただ、子どもを溺愛する母親に対し、著しい反発抱いた──ただそれだけだった。
そんなのは嘘だ、
あり得ない、
ポーズに決まってる──。
しかしそれは、私の心の奥底にある、母親への愛情の渇望──願望なのかもしれなかった。
今更ながらそう思う。
そして──、
そして彼女への、嫉妬──。
『H・A・S・U・M・I・K・A・Z・U・S・I』
ジャングルジムに到着した。
スカートなのでさすがに上ることまではしない。だが、今でも鮮明に覚えている、彼が立っていたこの場所。
彼が私を見上げていた、この場所──。
私は上着のポケットから、一枚の封筒を取り出した。
そしてそこから便せんを一枚取り出す。
一一月五日の消印。速達だった。
消印にある地名にはあえて触れないでおこう。どうせ彼女は、一つの地に長くとどまることができないのだ。おそらくは、この手紙を出したあとで、また何処かへと消えてしまったに違いない。
私は一年半弱前にカレが立っていたこの場所で、彼女からの手紙を読んだ。
もう何度目になるだろう。
私にとってはかけがえのない手紙──。
私は何のために生きているのか──。
そのことばかり考えるようになっていたあの日から、一年後に届いた手紙。
私への唯一のバースデーカード。
私への唯一のバースデープレゼント。
本当の私への、心からのメッセージ──。
私は生きる。そして戦う。
今の私にはそれができる。
今の私には目標がある。
生きるための目標が。
そして、全人類の求めるであろう、究極の欲望が。
そしてそれは、私に生きる目標を与えてくれた彼女を、救い出すことにもなる──。
一度は退いたかと思った涙が、また不意に頬を伝った。
でもそれを拭うことはしない。
本当の私が心から流した涙。それはきっと誇っていいはずのものだ。
いや──。
そんなことは、本当はどうでもいいことなのかもしれない。
私は彼女の挑戦を受け、そして、ただ単に、彼女をもう一度心から嘲笑ってやりたい──ただ、それだけなのかもしれない。
おそらく、きっとそうだ。
でも──、
でも私は──、
私はそれでいい。
生きる目標がある。
それがどんなに心強いか、私は初めて身をもって知った。
彼女が二四年間、目標を持っていたおかげでどんな苦しいことにも耐えて来られたという事実が、今なら少しだけ、解るような気がする。
私は、彼女からの手紙を再び小さく折り畳み、封筒の中に戻した。
私に生きる目標を与えてくれた手紙。
そして、彼女の生きる意味をも同時に記した、手紙──。
来年から私の通る道は、決して平坦ではないだろう。
平坦であるならば、私はその時こそ本当にダメになってしまうに違いない。
それほどに難しく、そして可能性の極端に低い、ゼロに等しい挑戦──。
これまで歴史上の、多くの天才たちが挑戦し、そして成し遂げることができなかった夢。
私はそれを成し遂げなければならない。
そうしなければ、私は結局、『彼女に勝てない』のだ。
そう。
私を今、動かしているのは、ただそれだけ。
でもそれでいいじゃないか。
それは私に課せられた使命。
私はそれを、きっと作り上げてみせる。
そして私は、今度こそ彼女に勝つ。
彼女を──親友である彼女を、呪縛から解放してやる。
きっと彼女はそれを望んでいない。
だからこそ──そのときこそが私の完全勝利の時なのだ。
勝算は低い。極めて低い。勝ち目がない、と言っていい。
でも私はやってみせる。やらなければならない。そう思う。
今、私は未来へ向けての一歩を確実に踏み出した。
後戻りはできないし、するつもりもない。
これでいいのだ。
なぜなら、
なぜなら──。
拭うことのなかった涙も、今はきっと、私の頬の熱気によってすっかり乾いているだろう。
私は目標に向かって歩く。
そしてそれは、私一人のための目標ではない。
だからこそ私は──。
私は、
私は──、
生きている、価値がある──。
そして、
生きている、意味がある──。
『不老不死の秘薬』の開発──。
これが私の、
生きる、意味──。
※
『Happy Birthday! Dear Masumi
拝啓
お元気ですか?
病気などしていませんか?
ご飯、ちゃんと食べてる?
言うまでもないことかもしれませんが、私はとても元気です。生活は多少苦しいですが、それでも何とか頑張っています。
お誕生日おめでとう。
これであなたの方が一つ、年上になってしまいましたね。
そう言えばもう11月、あれから1年が経ちました。月日の経つのは早いものですね。私にとってはあっという間でした。マスミちゃんはどうでしたか?
そうそう、進路は決まりましたか?
私は個人的に、あなたには女優さんになってほしいと思っています。
あなたには、あふれるばかりの才能があります。器量があります。魅力があります。ルックスがあります。そして血筋もあります。悲劇のバックグランド・ストーリーもあります。そして何より、実力があります。
マスミちゃんが女優になってくれたら、私はいつでもあなたに会うことができる。そして私は、それを励みに生きていくことができる。親友のがんばる姿を見て生きていける──これって、私はすごく大切なことだと思う。だから絶対、女優になってほしい。
いつかまた、会いたいね。
本気でそう思っています。
だからあなたにはいつまでも、元気でいてほしい。
女優になってほしい、と言うのは、あなたが元気かどうか、こっちがワリと簡単に知ることができるから、というのもあるんだよ、実は。
長くなってしまいましたね。そろそろ終わりにしなければなりません。
きっといつか、私の方から会いに行きます。何としてでも会いに行きます。
そのときは温かく迎えて下さいね。
30年後か、それとも40年後かになるかもしれないけど──それでも必ず会いに行きます。
ひょっとしたら、私はあなたのことが判らなくなっているかもしれない。でもきっと、あなたは私のことが判るでしょう?
では、お体に気をつけて。
元気にがんばって下さい。さようなら。
また、逢う日まで。
敬 具
P.S 手作りのバースデーカードを同封します。
××○★年(今年)11月4日
from Kazuko Hasumi』
何のために生きているの?
あなたはこの問いに、答えることができて?
─FIN─




