第二章 狂える瞳(一)
◇
「頑張ってくれたまえ。私がお前をここに置いている理由は、その一点あってのことなのだからな」
アームチェアに深々と座った紳士は、目の前に立つ若者にそう言って立ち上がり、くるりと若者に対して背を向けた。「話は終わりだ」という合図だ。
「本当にいいんですか? あなたらしくない」
若者は自分自身をわざと軽薄に見せるような口調でそう言い、眼前の紳士に対した。
「校内暴力のようなものだろう。君の仕事だ」
「ちょっと違うような気がしますがね? ま、善処しますよ、宇佐見校長」
「ふん、相変わらず──ん、うん。……きちんと己が役目を果たすことだな」
「そういう言い方は気に入らないな」
「では、これならいいのかね。『よろしく頼みますよ』」
紳士は最後に丁寧な口調でそう言うと、若者に退室を促した。さすがに若者も、二度もそれに逆らうことはなかった。
「……こっちはこっちのやり方でやらせてもらうさ」
若者は言い捨てるようにそう言うと、部屋を出た。
◆ 1
《一〇月二七日 木曜日》
絶対に正体を突き止めてやる──。
前島純一は、先々週の火曜日と先週の水曜日に発見された猫の斬殺体を作り出した犯人を自分の手で突き止め、そしてあわよくば捕まえるため、日付が変わる時間になってしまってからも、ここ一週間で日課となってしまった『学校の外周のそのまた外周』のランニングを続けていた。
本当は、二度の事件の現場となった川岸の川を挟んだ反対側だけを重点的に見張りたかったのだが、同じ直線を何度も繰り返し行ったり来たりしたり、あるいは走る足音をひっきりなしに立てたりしては、犯人が出て来なくなるかもしれないどころか、逆に自分が警察に通報され身動きがとれなくなるという結果を招きかねない、という懸念から捻り出した「苦肉の策」でもあった。
『外周の外周』というと、正確には『実際の外周』の『川や車道を挟んださらに外周』ということになるが、彼は走るコースを正門前に限っては『実際の外周』にしていた。理由は、他の三辺については時々警察官が巡回に来るのだが、大通りに面した正門前だけは、いつも警察官の姿がなかったからだ。
とはいっても『実際の外周』でさえ距離的には一キロある。それを更に三辺について大回りするのだから、彼としても体力的にせいぜい六、七周するのがやっとだった。それに所詮「移動式警備」に過ぎない。「万全の体制」とはとても言えないものだ。
それでも彼をこうした行動に駆り立てたのは、あの二度目の事件の日、その第一発見者となった、恋人の桜井三奈の、あの狂気にふれた姿だった。
三奈は事件の翌日、つまり二〇日、何事もなかったように登校してきた。
そして彼女は、紛れもなく『いつもの三奈』だった。
ただ一つ、『前日』、つまり『事件の日』の記憶が、ほぼすっぽりと抜けていたのを除いては。
前日の狂気を見ていない栄生や永井、柳ら三奈の親友たちは、そんな三奈について特別関心を持っていないようだった。
しかしアレを見てしまった彼は、どこか釈然としない思いでいっぱいになってしまっている。
『人間には、強烈に「思い出したくない」と脳が指令を出した「負の情報」については、その情報に関することに限って記憶を封じ込めてしまう、という機能がある』
門松から聞いた言葉だ。
『だとすると、「昨日の記憶」がないってことは、彼女の脳が「封印した結果」ということになる。つまりは放っておくのが一番、ということだ』
彼の言い分が最も穏当で、かつ正論なのだと純一も思う。
しかし──。
純一も、三奈の失われた記憶を無理に呼び戻そうとはさすがに思っていない。
だが、あの狂気の姿を実際に見てしまったがために、門松のような突き放したドライな見方はできなくなってしまっていた。どうしても頭から離れない。これを解消するためには、犯人を突き止めるしかない──そんな想いが、彼をこのような行動に駆り立てたのである。
純一は、過去の事件の「現場」が見える川の対岸を走るときだけは、ゆっくりと足を運ぶことにしていた。
視力や脚力、それにスタミナには自信があった。
だが、格闘の技術はない。
猫を『斬殺』できる、ということは、犯人は当然刃物を持ち歩いているということである。これが彼にとっては最大のネックだった。
その不安を解消するため純一が用意したのは、なんと六つの硬式野球ボールだった。これらを、以前三奈が手作りで作ってプレゼントしてくれた巾着袋に入れ、いざというときに備えた。
本当はエアガンなどの方がよかったのだろうが、熱血野球少年の彼はそんなものは持っていなかった。
彼は県内屈指のサウスポーエースである。
球速はマックスでも一二五キロ程度だが、そのコントロールの良さと大きなカーブは、県内では超高校級と言われていた。
今回に限ってはカーブは不要だが、コントロールと一二〇キロ前後の速球を相手に投げつけ、ぶつけるだけの自信はあった。硬球六つというのは、巾着袋の大きさとの兼ね合いもあるし、ランニングの邪魔にならないギリギリの数、ということもあるが、ファールさえなければ三球ストライクを外しても三振をとれる、という縁起を担いだ数だった。
体力的にもう限界かな──そう思い始めた七周目。
彼の目は川の対岸から一つの『異常』を認めた。
(一人──いや、二人だ!)
彼は駆け出していた。
対岸である学校の『外周』へ。
そしてそこから更に、学校の中へ──。
彼の認めた『異常』とは、おそらく二人であろう複数の人物が、学校のグラウンドを歩いている影であった。
数分後、学校を取り囲むフェンスのところまで来たとき、その人影が二人であることがはっきりとわかった。
そして更には、少なくともそのうちの一方が女性らしい、ということも。
しかし彼は致命的なミスを犯した。
もう七周目ということもあり、足がふらついていた。
フェンスの抜け穴からグラウンドの中に躍り込もうとしたとき、派手にフェンスを揺らしながら大きな音を立てて倒れ込んでしまったのだ。
彼が体勢を立て直して再び人影のあった辺り──そこには鯉が一〇数匹泳ぐ池がある──を見たとき、そこには一つの人影もなかった。
クソッ──。
再び池に向かって、重たい足で駆け出す。
そんなことをしても無意味だと思いつつも、やはり動かないわけにいかなかった。
彼は一〇数秒後、池に到着した。
そこには、胴体を半分に、頭からしっぽまでを縦に切断された、無惨な鯉の死骸が──血の滴った、内蔵のはみ出たグロテスクな死骸が──一体、転がっていた。
そしてその他にも何匹か、鯉たちが腹を天に向けてプカプカと水面を漂っているのが、視界の中に入ってきたのだった。
(! こいつは──)
純一はそのグロテスクな光景に、しばし、絶句した。
【登場人物】
郡 湊都:私立H高校3年A組。県内で高い実力を持つ演劇部の前部長。益美を勧誘し続ける張本人で、ストイックな実力主義者。読書家。髪型はボーイッシュなベリーショートのかわいい系。インドア派だが行動的。既に都内の有名私大へ推薦入学が内定している。2年生の古代希を脚本・演出に抜擢した。