第十章 ペルソナ(六)
◆ 6
時刻は既に、午前零時を大きく回っていた。
目の前の時計の文字が消えた。
同時に、衝突の際に割れたフロントガラスの間から、とてつもない勢いで熱風が車内に吹き込んでくる。
そう。火を噴いているのはこの車なのだ。
不思議と、こんな状況になっても意識はしっかりとしていた。
しかし、彼の体はシートベルトとエアバッグに阻まれ、動くことができない。
これはもうだめだ──と彼は観念した。
もちろん、シートベルトとエアバッグがあったからこそ、自分は今、この瞬間、生きているのかもしれない──彼は自嘲とも諦めとも、あるいは満足とも判断がつかない曖昧な笑みを浮かべたまま、静かに首の力を抜き、頭を垂れた。
不思議と恐怖は感じなかった。
熱風による熱が、彼の頭を包み込む。
同時に、少しずつ髪の毛が焦げていくのを、彼の五感は、間違いなく彼の脳に情報を送っていた。
嗅覚による、あの卵が焦げたような臭い。
聴覚のもたらす、チリチリという不快な音。
視覚の捉えた、糸くずよりもひどく、目の前を痩せ細って落ちていく髪。
触覚による、熱がもたらす鈍い痛み──。
味覚までが、苦みを感じている。血の味だ。
どうやら、衝突の時の衝撃か、そのあとの無意識に脳が発した命令のせいか、口の中を大きく切ったようだった。
不快な味。
意識がはっきりとしていながら、彼は動くことができなかった。
だが──。
どういうわけか、懐かしささえ、この時彼は感じていた──。
(運命、──か……)
△
残った二人のうち、寮生である栄生一美は、そういう意味では大いに怪しい存在だった。
彼女はもともと県外の出身で、また両親は『海外勤務』ということで日本にいないという。
しかし、詳しい調査をするまでもなく、『栄生』という夫婦が確かに一組、八年前からロスに住んでいることが明らかになった。彼女の英語力はかなりのものだという話だが、そのこととこの事実とは矛盾しない。
そして彼女にはもう一つ、昨年「ミスH高」に選ばれてしまった、という過去がある。
これはある意味、一年生のときから学校内で目立っていた、という事実を表している。決して目立ってはいけないはずの『彼女』が、果たして一年目からそんなに目立つような立場に身を置くようなヘマをするだろうか?
これについては永井益美についても同じことが言える。
だが、彼女の場合は少し様子が違う。
彼女も他の連中同様二年間、正確には一年と七か月もの間同じ学校にいた。目立たないように生活していたとしても、彼女ほどの器量の持ち主だと、自然、目立ってしまうものだ。
益美を簡単に調査してみると、実に不可解なことがいくつかあることが判った。
まずは住んでいる家。
益美の住んでいる家は一戸建てである。
二階建ての5LDK。ファミリータイプとしてはスタンダードなサイズ──よりもやや大きめのものだ。
問題なのは家そのものではない。
彼女がH高に入学してくるまで、ほとんど誰も住んでいない『空き家』だった、という事実の方だ。
登記簿で調べてみると、この家の権利者は家、土地ともに『永井裕美』という人物らしい。
だが、この『永井裕美』の現在の所在が掴めない。
手早く判る範囲で調べてみると、年齢は三七歳、女性。
この家が築一五年以上経っていること、そしてその建てられた当初からこの『永井裕美』の名義である、という事実は、彼にとっても実に意外なことだった。
二一、二歳のときにはこの家を建てることができた、というのだから。
資産家の娘だったのか? それとも宝くじでも当てた?
計算上では、『永井裕美』が『永井益美』の母親である可能性もないではない。
しかし、その場合父親はどうしたのだろう?
いや、親子だとしたら、年頃の娘を放ったらかしにしておいて、母親が行方をくらますということがあるのだろうか?
どうやってその『永井裕美』が家を建てたのかは判らないが、しかし、真っ当な手段で稼いだお金で建てたとはとても思えない。
かなり危ない橋を渡ったか、それとも体を売って稼ぎまくったか──。
そして、そんな若くして家を建てるような離れ業をやってのけておきながら、『永井裕美』がこの家に住んだ形跡がほとんどない。新築当初は近所の人が何人か、家にいる人影を見かけてはいるようだが、ここ最近まで誰も住んでいる様子がなかった、という。
彼女、『永井益美』なる『少女』が住み始めた、一年七か月前までは。
彼女は、『永井裕美』は、本当に今も、生きているのだろうか?
そんな不吉な想像を巡らすことは誰にとっても容易だろう。
『裏の世界』に生きてきた人間だったら、それがいくら若い女性であっても、常に身の危険に晒されていると言っていい。決して表舞台に立つことの許されない女、『阿木名和子』が、そんな『永井裕美』のことを知る可能性はある。
そして彼女の殺人能力。
そして、裏社会の死体処理能力──。
被害者が二名も出ている演劇部には何度となく入部を打診され、その都度断ってきたと言うし、それ以外にも自分からは決して目立つような行動はとっていなかった、と判断できる。
だが、永井益美は、運動神経もよく、美人で、頭もいい。目立とうとしなくても、そのさっぱりとした明るい性格からそれなりに人気者で、ファンも多かった。
もちろんそんな『美少女』なら、狙いを定める男どもは多いはずだ。
だが、彼女が誰かと付き合ったとか、そういう噂は霞ほどもなかった。
そしてそれは、女友達にも言えた。
彼女と放課後まで親しく付き合ったことがある──という人物が極めて少ないのだ。
彼女が高校からこの地に来たアウトサイダーだから、ということに原因を求めることもできなくはないが、彼女の普段の性格──人物評──が、そういう考えが合理的でないことを示していた。
つまり彼女は、意識的に、誰かと必要以上に親しくなることを、避けていた節があるのだ。
そして何より、彼女の右目の右下には、遠目に判るぐらいの、黒子があった──。
▽
「彼女はね、実は、一番最後にターゲットに決まったの。
正直あの時期、私はすごく焦ってた。
刻一刻と『Xデー』が近づいてくるのに、その初めのターゲットが決まらないんですものね。
彼女はそんな私の前に、自分から飛び込んできてくれた──殺されるために──ね」
殺されるために?
「彼女がすごく優れた感性を持っていたのに、あなたなら気づいていたはずよね?」
それにはもちろん気づいていた。
「彼女は人の才能──いいえ、その人の『性質』そのものを見抜く能力にずば抜けて秀でていた。
だから彼女は、『演出家』として、その才能にずば抜けていた」
「『演出家』として?」
『脚本家』としてではなく、『演出家』として?
「そう。彼女はね、まず役者を見てから内容を決めるの。魅力のある──『フィクションとして』のストーリーに堪えうる人を捜し出してね、その人に合わせて脚本を書いていくの。
いかに魅力のある人物を登場させるか──それが彼女の創作における最大のテーマだった。
あなたのところにも来たでしょう?」
古代希が勧誘しに来たのは──なるほどそれでか。
『あの作品』のモデルは、この私──。
「彼女はね、見抜いていたのよ。匂いを嗅ぎ分けた──と言った方がいいのかもね? 彼女の頭の中には、理由も何もなかったのかもしれないから。
『ただ何となくそんな気がした』というだけなのかもしれないからね。
ま、だから、きっとその他の作品、『精神が破壊されるその前に』とか『満足感に浸りたい』とかも、モデルがいるんじゃないかな?」
まさか──いや、でも私も、あの時点で実は、気づいていたのかもしれない。
「あなたなら解るでしょう? 彼女がなぜ死ななければならなかったか」
「『転落』──」
目の前のクールな微笑みが、ほんの少しだけ歪んだ。
その表情が、すべてを語っていると言ってよかった。
「彼女の作品の構想は、登場人物を描くことから始まっている。
そして、願わくば、その人物本人に『その役』を演じさせようとする。
あるいは、その人の眼前で、別の人に『その役』をやらせて見せつける。
極めて屈折していて、極めてサディスティックな『作家』だわ。
きっと自分の普段のひ弱さに対する不平不満が、そういうところに出てしまったんだと思うけど。
ま、ある意味では哀れな人だったのかもね?」
言い訳をするどころか、むしろ希のことを庇うような言い方だった。
「よくそこまでわかったわね」
一瞬の沈黙も嫌い、私は口を開いていた。
「私だって、自分が誘われなかったら、きっと解らなかった。
天才っていうのはいるものね?
でも、だからと言って、その才能で誰かを苦しめていいことにはならない。
もちろん、あなたもその一人よ?
だから、その才能のために、あなたも今日ここで──」
私は、思わず彼女の視線から、自らの視線を逸らしていた。
【登場人物(補足)】
阪野真幸:県警所轄のS警察署刑事課所属の巡査部長。家庭の事情により大学を中退し警察官になったため、コンプレックスを抱えている。巡査時代に地元の暴走族グループと関わったことがあり、門松のことはそのときから知っていた。言葉を交わしたこともある。そのときの門松は尊大な態度で警察に対しており、一巡査である自分も権力を盾に尊大にやり返していたが、弁が立つ彼にはやり込められたり、後に始末書を書かされるような事態に陥るハメになるなど、苦い経験があった。従って、教員となったあとも、門松に対して悪い印象しか持っていない。
※本作の登場人物等のおさらいに関しては、「Interlude 総目次提示・舞台・登場人物一覧等」(第12部分。第二章と第三章の間)をご覧いただければと存じます。




