第九章 縺れる糸(五)─崩壊─
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むしゃくしゃした気分を晴らそうと駅前のゲームセンターで遊んでいたら、もう七時を大きく回っていた。
いったい なんだっていうんだ?
栄の心の中は、その言葉ですべて埋め尽くされてしまうくらい、釈然としないというか、とにかく何に憤りをぶつけたらいいかわからない状態が続いていた。
ゲーセンで遊んだくらいでそんな心のモヤモヤが解消されるほど世の中は甘くない。彼はそれに気づいたのかそうでないのか、とにかくゲーセンの椅子から重い腰を上げた。
土曜日ということもあってか、この時刻の駅前は若いカップルで溢れていた。
よく見てみればもちろんカップルばかりでないことが容易にわかるのだが、今の栄の心理状態では、どうしてもそんなカップルの方にばかり目が行ってしまう。
惨めだった。
『先輩、「女しか愛せない」って、本当ですか?』
彼女はそんな栄の質問に、しばらく、全くリアクションしなかった。
だが、どれくらい時が経ったのだろう、正確にはわからないが、とにかく数十秒後、彼女は突然、嫌いよ──と言った。
栄はその彼女の言葉の意味が解らず、というよりはむしろ誰に対してそう言ったのか解らず、気がついたら、せき立てるように彼女に対してその意味を追及していた。
彼女に対するこの時までの想いの大きさと、そして麗から話を聞いたときの衝撃の大きさ、それに両親が付き添ってくる、という大袈裟な現実の展開──栄の心のブレーキは、このとき大量のエアーが入ってしまっていて、効かなくなってしまっていたに違いなかった。
何を言ったのか自分でも覚えていないくらい、栄は彼女に対して色々と言ってしまった。
彼女は泣き崩れ、震えながら体を小さく丸め、両膝をついて、うつぶせに地面に伏してしまった。
栄にしてみれば、そんな彼女の行動さえも気に入らなかった。
何を言ったかまでは覚えていなくとも、どの程度のことを言ったか、どのくらいキツイ言い方をしたか、という漠然としたものは頭に残っていた。
彼のイメージでは、彼女なら、そんなことを言われれば、凛とした態度で果敢に言い返してきて、自分を圧倒するぐらいであるはずだった。
そんな期待が裏切られ、結果的に彼は感情の赴くままに彼女に罵声を浴びてしまった──。
『帰ってくれ! もう娘には、構わないでくれ!』
慌てて栄の前に立ちはだかった彼女の父親の声で、栄は我に返った。
だが、募る想いが生み出した大きすぎる動揺と憤りは、彼の心をひたすらに攻撃的に変えていた。
『こんな不潔な女、頼まれたって、誰が構うモンか!』
彼はそう悪態をついて、あの場を逃げるように立ち去ることになった。
彼自身には、その言葉に、深い意味を込めたつもりはなかった。
後味の悪さは相当なものだったが、よく作詞家の人たちが作品中で言っているような『失恋の辛さ』みたいなものは、少しも感じなかった。
むしろ彼女に対する嫌悪感と、自分の『目』の不確かさに呆れる自嘲の思いとで自棄気味になっているんだ、と思った。
どこへ行くというのでもなく歩いていたので、気がつくと、栄はいつの間にか駅の前に立っていた。
これからすぐに電車に乗って家に帰ろうという気はさらさらないのだが、だからといって高校生の彼に、一人で土曜の夜、繁華街で時間を潰すだけのテクニックなどあるはずもなく、道行くカップルたちに対して静かに怒りの炎を燃やしながら、じっとただ、駅前広場の電灯の下に立ったまま、駅の入口の方をぼーっと眺めていた。
誰かを見つけよう、とか、そういった気持ちは全くなかった。
ないはずだった。
駅の改札口を出てくる人はかなり多かったし、その改札口と自分との間は行き交う人でいっぱいだった。
仮に誰か知っている人が改札口から出てきたとしても、普通なら気づくはずのないような環境だった。
そして、仮にそんな中で奇跡的に誰かを見つけたとして、その人に話しかけにいくだけの必然性は、まるでないに等しかった。
それなのに──。
栄は、彼女の姿を見つけると、一目散に駆け出していた。
無性に彼女と話がしたかった。
本当は誰でも良かったのかもしれない。
いや、彼女だったからこそ、そう思ったのかもしれない。
彼女だったからこそ、このような環境で彼の視野に飛び込んで来て、そして彼の体を動かしたのかもしれない──。
可能な解釈はいくつもあったが、そんなことを考える余裕もなく、彼は彼女を追い、そして追いつき、声をかけた。
彼女は一瞬びっくりしていたが、途端に穏やかで可憐で、はにかんだような表情になった。
心なしか、頬が赤みを帯びているように、栄には思えた。
(そうだよ。これだよ。恋愛っていうヤツは、こうでなくちゃ──)
彼は、今までのモヤモヤをすべて吹っ切ったかのように、爽やかな笑顔を彼女に向けた。
彼女の頬は、間違いなくその前よりも赤みを増していた。
「偶然だね。今、暇? どう? これからさ、ちょっと──時間ある?」
彼女はそんな彼の言葉に少し驚いたようだったが、気持ちいいぐらいはっきりと頷いた。
そして「……もしかして、どっか、連れていって、くれる──とか?」と聞き返してくるほどだった。
(これだよ! こういう展開が欲しかったんだ──)
栄は彼女を、以前、友人から聞いて知っていた駅前にあるおしゃれな喫茶店へ連れていった。
こういう場所には一人や男どうしでは入りにくいので、実際に入るのはこれが初めてだった。
彼女も初めてらしかった。
それが彼にはまた、嬉しいことだった。
彼は、これまで別の女性のために用意していたはずの台詞を、次々と彼女に対して語っていった。
多少アレンジを加えなければならない箇所もあったが、彼女との決して短くないこれまでの友達付き合いは、そんな急なアレンジを可能にした。
そしてそうやってどんどんしゃべっていくと、不思議と、その台詞が彼女のために初めから用意していたような気分にすらなってきて、栄は少し不思議な気分になっていた。
もはや彼は、この新しい恋に夢中になっていた。
彼の言葉。
彼の仕草。
その一つ一つに、彼女は気持ちよく反応した。
彼女の赤らんだ頬は、華奢で色白な彼女の心の純粋さを見せてくれているようで、彼は感動さえさせられた。
彼女のよく見ると整った顔立ちと、その照れに照れた表情は、彼の心をたちまち虜にしていった。
彼女の優雅に揺れる長い髪は、彼に急速な感情の高まりを与えるに十分だった。
一時間が経ち、あんまり遅くなるといけないから──という彼女の言葉で、彼の感情は最高潮近くまで上りつめた。
彼女の言い分がもっともであることは、彼ののぼせきった頭でも十分理解は可能だった。
ただ、彼のそんな心は、「このままでは帰さない」という一つの決意を、確実に固めていた。
「きゃっ……」
店を出た直後、彼女は突如後部上方から抱きしめられて、小さく声を上げた。
その体は小さく震えていた。
多少しなやかさを失いこわばったその体は、しかしやはり柔らかで、彼の行為を拒むことはなく、そんな彼女の震えさえ心地よく、愛おしく感じさせるだけの余裕を、彼に与えた。
彼は、彼女を抱きしめていた腕の力を緩め彼女の体の向きを変えると、身長差がある彼女の顔を少し見下ろした格好で、再びそっと抱きしめた。
彼女は抵抗しなかった。
彼女の顔はやや斜め上方、彼の顔の方を向いており、視線も彼の目をとらえていた。そんな彼女の態度は、彼の高まりきった感情に勇気を与え、そして彼を次の行動に移させた。
「あ……」
彼女は、彼の唇が自分の唇を離れていったあとも、じっと目を開けて、彼の顔を見つめていた。
そんな彼女を見ていられなかったのか、彼はもう一度、彼女の唇を塞いだ。
今度は一回目のそれよりも長く、そして深いものだった。
緩やかに彼女を包み込んでいた彼の体は強ばり、強く、彼女の体を抱きしめていた。
彼女の目は、彼がもう一度唇を離したとき、柔らかく閉じられていた。
そんな彼女を見て、彼は完全に、恋に落ちた──。
「……初めてだったんだからね、わたし」
彼女が、改めて開いた視線を彼の胸の高さに合わせ、言った。
そんな彼女が、彼には愛おしくてたまらなかった。
「……好きだ」
自然と、そんな言葉が彼の口をついた。
そして、いっぺんで高鳴っていただけだった胸が締め付けられるように苦しくなって、顔が熱を帯びて汗ばんできて、次に言うべき、「付き合って欲しい」という言葉を、言えない状態にしてしまった。
言って、もし断られたらどうしよう──そんな思いが頭をよぎった。
その言葉が、初めは誰のために用意されていたのか──そんなことは、もう彼にはどうでもいいことだった。
いや、むしろ、この瞬間にこそ相応しいのだ──という確信さえ生じていた。
そして、この胸のドキドキと圧迫感は、彼女以外の誰も生み出すことができないものだという妙な確信さえ、このときの彼にはあった。
「麗……」
彼は、彼女の下の名前だけ──を、初めて口にした。
普段、彼女のことを呼んでいたあだ名が、このときの彼の口からは出なかった。
彼女にとっては、このことは大きかった。
彼女の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
それを見て、彼は慌てた。
胸が張り裂けるぐらい驚いた。
自分は何か悪いことをしたのだろうか──そんな思いでパニックになるところだった。
「嬉しい──」
そんな彼の心の内を知ってか知らずか、彼女はそう言って、自らの体の緊張を緩め、彼に身を任せていった。
彼は、そんな彼女の行動に戸惑い、改めてパニックに陥りそうになっていた。
「今まで、ずっと、そう呼んで、欲しかったんだよ?
今までずっと、『麗』って、呼んで、ほしかったんだよ?
辛かったんだよ? 『ユーレイ』って、呼ばれるの。
他の人に呼ばれるのはそんなに気にならなかったけど、あなたにだけは、呼ばれたく、なかった──」
彼女の目からは、もう一筋と言わず、止めどなく涙が流れ始めていた。
それを見て、彼はただ一つの言葉を言いながら、彼女の体を抱きしめることしか、できなかった。
「ごめん」
彼女は、彼の腕の中で、数分間、泣き続けた。
そしてそのあと二人は、三度目のキスを交わした。
このとき彼は気づいていなかった。
彼女の左の頬が、醜く歪んでいたことを。
湊都は、両親に支えられてどうにか家に戻ったあと、ベッドの中に潜り込み、震えながら、ただただ泣いていた。
外から見て湊都がいつも凛としていたように見えたのは、少しでも気を抜くと、男性への恐怖心で金縛り状態になり、わっと泣き出してしまうことが怖かったからだった。
共学の私立の進学校に通うことにしたのは、男性に少しでも慣れるためだった。
私立の名門校なら今時のどぎつい男女交際もないだろう──そんな読みもあってのことだった。
H高の演劇部が伝統的に女性部員しかいないのは、入学前から知っていたことだった。
だから入部した。
普段の部内の活動は女性だけでできる。
でも、公演などでは、男女問わず、たくさんの視線の前に立たなければならない。
そうした、いわば彼女にとっての飴と鞭、メリハリを設けることが、彼女のリハビリには効果があるだろう──というのが、医者のアドバイスを受けた上での、両親との家族会議で決めた結論であり、基本方針だった。
すべては、あの時の悪夢を振り払うため。
世の中の半数は男性である。
だが、彼女が怖いのは男性すべてというわけではない。
父親と同年輩以上の男性と、それから小学校低学年以下の男の子は大丈夫だった。
彼らは味方ではないが、敵でもなかった。
しかし彼女は若かった。
自分に近い年齢の男性を怖がってしまうと、普通に女友達と街を歩くことすら困難になってしまう。
それを克服したくて、必死に今まで、頑張ってきたのだ。
そんな彼女の心の支えは、優しい両親と、そして同性である女友達たちだった。
そもそもの発端は、かつて両親以外で最も信頼していた男性からの裏切りだった。
それが、恐怖の殻に彼女を閉じ込めてしまった。
しかしそれでも、世の中の半分を占める味方のおかげで、彼女はなんとか、見かけ上は普通に高校三年間を全うできそうなところまで頑張って来れた。
そして彼女は、大学入学をきっかけに、より『普通の女性』になれるよう、気持ちを切り替えるつもりだった。
自信を持って、乗り越えることができたと思える──そんなときが来るのを心待ちにしていた。
ところが──。
『汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい…………』
(いやああああああっ!! …………)
声にならない叫びが虚しく響きわたる。
彼女が心の拠り所にしていたカテゴリー、『女性』。
すべてはあの、『友香の日記』。
たくさん書き連ねられていた湊都への罵倒。
排泄行為と湊都のことを重ね合わせたような嘲りの一節──。
彼女がずっと味方だと信じていた、『女性』から裏切られたという思いは、彼女が何年もかかって必死に積み上げてきた、微かで儚い『普通の女性』としての自信を、一気にうち砕くのに十分だった。
陵辱され、汚された──汚れた女。
汚らわしい、女──。
(やだ、やだ、やだ、やだ、やだ──)
そんなとき、トラウマを克服させてくれるような心優しい恋人でもいれば、本気で彼女のことを真摯に愛してくれる男性が近くに現れてくれれば、あるいは──。
『こんな不潔な女、頼まれたって、誰が構うモンか!』
(!! …………)
その『女』とは──。
「いやああああああっ!」
行動的で快活で明るくて──そんな開けかかっていたはずの未来が、残酷にも、一瞬にして崩壊してしまう──そんな非情な瞬間が、彼女を襲った。
◆
(……上手くいった──。これでカレは、わたしのもの──)
彼女は、自分の『元親友』のもたらした情報と、自分の書いたシナリオに、心の中で拍手喝采していた。
賭けに、勝った──。
その心は、彼が思ったような、純粋なもので、あるはずがなかった。




