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Embrace~黒き魔性  作者: 笹木道耶
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第九章 縺れる糸(四)─過去の真相─

     ◆ 4


「馬鹿なことを言うな!」

 老人はそう言って門松を睨み付けた。

 そしてそのあと、彼は門松に背を向け、門をくぐり屋敷の入口に向かって歩き出した。門松もそれについていく。


 息子? 『娘』じゃないのですか?──。


 その問いは、間違いなく彼の心を動かしたようだった。

 無言のまま、二人は屋敷の入口である玄関に辿り着いた。

 玄関の扉はこの屋敷に相応しい重厚なもので、屋敷全体が長い間雨ざらしの状態で放っておかれたことを隠せていないのとは対照的な見事なものであった。

 よく見てみると、門の外にはなかった表札が、そこには依然、残されていた。

 門松はそれを見て思わずハッとした。

 まさか──。

「この家は……」

 門松は思わずそう声を出していた。

 老人はそんな門松の様子を見て深いため息をついたあと、苦痛とすがすがしさが同居したような複雑な表情を浮かべながら言った。

「ひょっとすれば万が一、誰か来ると思っていたからこそ、わしはここで待っていたのだが──お前、この名前に心当たりがあるのか?」

 門松は小さく頷いた。

「そうか。……そうだな、それがせめて、わしが死ぬ前にできる、唯一のことだろう」

「死ぬ前?」

 老人は自分の中だけで結論に達したようだったが、門松が問い返すと、そこには先程の剣幕とはまるで違う、弱々しい一人の老人が、いただけだった。

「わしの命はもうあと僅かだ。誰かに──誰かに伝えて、死んでいきたかった」

 そういえばこのじいさん、どうやってここまで?


 彼は遠い目をしたまま、近くにあった大きな石に腰掛け、そして語り始めた。

「今日ここに、誰かが来ると、わしは信じておった。そしてこの話をして、現世に未練を残さず、死んでいきたかった。そこにお前さんが来た。もし一二年前の──いや、もう何も言うまい」

 彼はそこで一度話を切ったが、門松が問いかける前に再び話し出していた。

「二四年前、……日付は明日になる。この辺りで、何があったのか、お前は少しは知っておるのか?」

 門松は小さく頷いたあと、火事で、一七歳の少女が一人亡くなった──と言った。

 老人はそれを聞いて悲痛な表情になったあと、「他には?」と訊いた。

 首を左右に二度振ると、「そうか、お前はその事件しか、知らんのだな。それも無理もないのかもしれんが」と言った。その顔はあまりに無念さに満ちていて、そして思い返したくないことを必死に訴えようとするかのような、しみ出すような声だった。

「『同じ日』、と言っても、その火事の次の晩だ。この屋敷の敷地内にあった離れでな、殺人事件があったんだ」

「殺人事件?」

「そうだ。この屋敷の主がこの辺りでは強大な権力を握っている人間だったせいで公に騒がれることはとうとうなかったんだが──あれは紛れもなく殺人事件だった」


「……ご老体は、何かを見たのですか? ご老体は、いったいこの家の主とはどういう?」

 老人は初めの質問には答えず、自分は当時、この辺りで駐在をやっていたのだと言った。

 老人の素性を聞き出そうと色々と努力をしてみたところ、今はこのA市には住んでおらず、息子夫婦と首都圏のK県Y市の方で隠居生活を送っているのだということが判った。

 老人は見た目は立派に高齢者然としているが、実はまだ六七歳だという。

 実年齢よりもかなり老けて見える。

「わしの親友は高校の教師でな。多くの優秀な人材を世に送り出しておった。

 ヤツは死んだとき、まだ四三歳だった。生きておれば、おそらくは校長とか教育委員とか、そういう地位まで上りつめただろう優秀で、人望も実力も人格も兼ね備えた男だった」

 老人は昔を思い出したのか、少しばかり目を潤ませながら言った。

 そうだ、あの新聞記事──。

「ヤツの教え子の中に、この屋敷の主の息子もいた。そいつもヤツと同じく教師になってな。恩師であり、大先輩でもあるヤツとこの家の息子は、実の親子のように仲が良くなっていた。それがあんな──」

 老人の目が、突然鋭さを増した。

 この老人の『親友の教え子』で『教師』なら、当時で二〇代の前半から三〇代半ばくらいか?

 でも、だとすると、死んだのは誰で、かつ何人死んだということになるのだ?


「ヤツには娘がいた。本当に綺麗な娘さんでな。当時、あの子はまだ高校生だった。若い男たちの憧れの的でな。

 それをあの男が、あろうことか、自分の教え子であり、恩師の娘でもあるあの子に手を出し、子どもを身ごもらせ──」

「……子ども?」

 門松はやや混乱しながらも、ふと、古代希が最後に書いたという、『転落』のストーリーを思い出した。

 吐き気にも似た感覚が門松を襲う。

「あの男は外面は良かったが内実は外道だった。この辺りを仕切っていた名家であるこの屋敷に生まれたことをいいことに、昔から好き放題やっていた。女遊び、イジメ、窃盗教唆、強姦……悪い噂なら、警官であったわしの耳にはいくつも届いていた。

 あの男は当時、既に結婚していた。あの男を真人間の途に引きずり込んだのは、紛れもなくヤツだった。でもそれに対して、あの男は最悪の裏切りで答えたんだ。

 あの子は単なる遊び相手という以上に、おそらく復讐の対象だったんだろう。自らの人生を変えた、ヤツへのな。筋違いにも程があるが、あの男の価値観ではそれが正しかったんだろう。

 さっきも言ったが、綺麗な娘だったから、あの子に夢中になる若い男どもは多かった。わしの息子もそんな一人でな。

 だが、あの子と幼馴染みだった息子も含め、誰も相手にされなかった。今と違って、女は純血を守るべきという建前が強かった時代だ。田舎であるこの辺りならなおのことだった。

 だがな、だからこそそんな女の子を、誰が見ても綺麗で魅力的で、しかも恩師の娘、という非常に難しい立場にあるあの子を、自分に夢中にさせる──ということに、快感を感じるようなヤツがいても不思議はないだろう? そういう意味では、あの男がそういう屈折した感情を抱くのは、実にあの男らしいとも言える。

 あの男には、欲して手に入れられないものはほとんどなかったからな。

 見た目は男前で、頭も悪くないし、悪知恵もかなり働いた。

 あの男にしてみれば、ヤツのように自らの『自由』を踏みにじった奴は、その内容がどういうものであったにせよ、許せない、恨みの対象であったに違いないんだ。例えその結果があの男にとって良いものであったとしてもな。

 あの男は、自分の思い通りにならないものの存在を、極端に嫌うような男だった。欲しい物は、何をおいてもすべて手に入れる」

 なおも淡々とした言葉の連続が、冬を思わせるほどひんやりとした空気を伝って耳に届く。

「……あの子は高校を辞め、そして子どもを産んだ。男の子だった。

 父親であるヤツが何を言っても頑として聞かなかった。よく言えば、それほどあの子があの男をひたすらに愛していたとでも言えるのかもしれん。

 だが──」

 老人は前を真っ直ぐに見つめたまま、誰にともなくこう言った。

 もう、門松の顔など、見てはいなかった。

「あの子はあの男に殺されたんだ。あの男の復讐は、あの子の体を奪うことで──子どもを孕ませることで終わっていたのだから」


 しかし状況は変わった。

 読み違えたのだ。

 子どもが、産まれてしまった──。

 そしてそれは、おそらく男から、多くのものを奪う──少なくとも脅かす存在であったに違いない。


 地位、名誉、財産、嫁。

 そして、自由──。

 自分から自由を奪っていく、少女と、子ども──。


「そしてあの男は──あの男は、あの子に、殺された。

 あの子の、幽霊に!

 そうとしか、思えない。

 そうとしか、思えなかった。

 そうとしか、……そうとしか!」

 老人の声は次第に大きくなり、どこをというわけでもなく一点を見つめていた彼の目はカッと見開かれ、そしてその体は後ろへと倒れそうになった。

 門松は、そんな老人の体を両手で支え、赤ん坊を抱きかかえるような体勢で彼と向き合うことになった。

 老人の体は小刻みに、はっきり判るくらい震えていた。

 その目は、何か恐ろしいものを目の当たりにした瞬間のように、恐怖におののいているように見えた。

 門松は、そんな老人の論理飛躍には目を瞑り、努めて冷静な口調で彼に訊ねた。

「何か、見たんですね?」


 老人の震えは頭までも蝕んでいたが、はっきりそれとは区別がつくくらい頷いて見せた。

「見た。わしは──見た。

 今まで誰にも言えなかった。言えるはずがなかった。

 でも、わしは──」

 彼の視線は相変わらず定まっていないようだったが、体の震えは次第に退いていった。済まん──そう言ったあと、彼の口から語られた言葉は、しかし今度は、門松の方を震え上がらせるものだった。

「……忘れもしない二四年前の一一月六日の夜。

 もう日付は七日に変わるくらいの頃だった。わしはあの子が、この家の裏口から入っていくのを、確かに見たんだ。

 あの日わしは、前日から行方不明になっていると聞いていたあの子を探して一日中、そこら中を自転車と足で走り回っていた。遭難じゃないからな、署は人を出してくれん。でも、それももうそろそろうち切ろうかと思っていた矢先、わしはあの子を見つけた。間違いなくあの子だった。

 やや遠くからだったが、確信できた。

 わしは嬉しかった。そして憤りを覚えた。

 あの子が無事だったことを喜び、子どもがいようがどうしようが、『それでもオレはあの子のことが好きだ。『和司君』諸とも、オレが幸せにしてみせる』とまで言った我が息子のことを思い、憤った。

 それが真実だったのだ。

 それだけが、真実だった、はずなのだ──」

 再び興奮してきた老人は、まるで最期の力を振り絞るかのような気迫に満ちていた。

 その姿は、嘘を吐いているようにも、狂った老人の戯言のようにも、とても見えるものではなかった。

「その三日後、ヤツは自殺した。わしもヤツの亡骸を見た。遺書はなかったが、あの苦悶の表情を、わしは一生忘れることができん」

 彼はゴホゴホゴホッと咳き込んだあと、ガラガラ声で、しかし確かにこう言った。

「……わしは──わしの今住んどるY市で、息子と一緒にあの子を見た。

 三年ぐらい、前、だ。

 あの子は、当時と全く変わらぬ、美しい少女だった。

 髪型こそ違ったが、仕草、背格好、雰囲気、泣き黒子──どれをとっても、間違いなくあの子、『和子ちゃん』だった。

 あの子に心底恋をしていた息子も呆然としておった。思わず声をかけそうになっていたくらいだった。だから間違いない。

 あの子は、あの時も、そして今でも、生きているのだ。 

 生き返ったのだ。

 生き返って、あの男を殺したんだ。

 当時と全く変わらぬ、あの姿で──」


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