第九章 縺れる糸(一)─不安─
◇
少年は、A市を見下ろせる位置にある寺の境内に独り、佇んでいた。
一一月七日。
事件発生から、既に一日以上が経過していた。
事件は既に報道されており、少年もそのニュースをその目で見た。何とも言えない感情だけが、彼の心の中に渦巻いていた。
少年はA市を一番良く見下ろせる、寺の入口の門の上へと上った。年齢にしては身長も高く、運動神経も抜群である彼にとって、その程度のことは造作もないことだった。
その程度のことなら。
『無力』という言葉を、少年は初めてこのとき、実感した。
勉強、スポーツ、果ては喧嘩といった『勝負』事だけでなく、バレンタインデーのような主観性の強い行事から「学級委員長に」という推薦を受けるような人望の厚さまで、少年は自らの力である程度どうにかできることについては、すべて良い結果を導き出すことに成功していた。
だから、彼にとって、今回のことは人生で最初の、大きな挫折だった。
少年はこれまでの人生の中で、明確不明確を問わず『勝負』と呼べる事柄に関しては、いつも何が何でも絶対に勝ちにいった。
勝たねばならない理由があった。
負けることは許されなかった。
なぜなら、他の人と違って──他の級友たちと違って、負けたとき、誰一人として、慰めてくれる人がいなかったから。
かずし──か……。
自分は一体何者なのか? そんなふうに自分のルーツに疑問を抱いたことが、彼がここに来るきっかけとなった。
収穫はあった。
しかしそれは、彼がこの日感じた敗北感に比べれば、極々些細なことに感じられた。
自分は結局、何もできなかったのだ。
『彼女』の『挑戦』に対して、為す術もなかったのだ。
『彼女』を止めなければならない。
何としてでも、『彼女』を永遠の呪縛から、解き放ってやらなければならない。
そしてそれができるのは、自分だけだ。
彼の目は遠くA市の方向を向いてはいたが、その目は実際には、もっと遠くを見つめていた。
一二年後の未来を。
息子として──。
◆ 1 ◇
《一一月〇五日 土曜日》
門松がA市に入ったのは、四日の夜のことだった。
昨夜はスナックや食堂など、地元に住む中高年の人々が集まりそうなところばかりを数軒回った。
金曜の夜だったこともあって多くの人がいたが、二四年前の事件について得られた情報は何もなかった。
皆が一様に口を噤むということ以外は。
A市は、市の統計によると現在の人口は五万一千人余り。人口はそれなりだが、人口密度的には町、あるいは村といった方がよさそうな雰囲気の寂れた地方のマチである。
二四年前はもっとマシだったらしい。
当時の人口は一〇万人を下らなかった。町の中心はそれなりに栄え、若い人は当時も減少傾向にはあったものの、まだまだ少数派、というほどのことはなかった。
しかし人口は着実に減り続けた。門松にはその理由が何となく解る気がした。
ここは依然、ムラなのだ──。
いくつものローカルでマイナーな情報を具体的なレベルで共有する人々。
中高年の者たちばかりが極度に幅を利かせる高度に同質性の高い地域性。
門松は導かれるようにこの地に来た。
次の犯罪──おそらく今晩から明日の朝にかけて起きるであろう事件を防ぐため、その手がかりを得るため、わざわざA市に出向いたのだ。
そうであるはずなのだ。
だが──。
門松はそこで、ふと自問自答した。
なぜオレはここにいるんだ?──と。
それに対する明確な答えは、彼の頭には浮かんでは来なかった。
一昨日も満足に眠っていないのに、昨夜眠れなかった。
眠らなかったのではない。眠れなかったのだ。
何かしていないと、不安なのだ。
昼過ぎになって、皆川栄は郡湊都の家へと足を向けた。
住所はPTA名簿からわかっていた。
彼女の家は簡単に見つかった。彼女の家がマンションであることが大きかった。
しかしいざ、彼女の家を訪ねるという段階になって、彼は極度の緊張に見まわれた。
足は震え、オートロックの入口の傍にあるインターホンのボタンを押すべく持ち上げた右手は、何度も何度も空中と自分の右足太股の右側面との間を往復した。
栄は日頃、純一と三奈のような幼馴染みどうしのカップルを羨ましく思っていた。
どちらから告白したというわけでもなく、隣にはいつも彼女、あるいは彼がいて──そんな生活が、彼にとっては理想だったが、それはもはやかなわないことだった。
バンドを主催したりする行動派でありながら、栄は女性に対しては消極的で真面目だった。
女子の友人は決して少なくはないが、それはあくまで「友人」であり、恋人候補ですらない。言い寄ってくる女子もいるが、そういう積極的なタイプにはあまり興味を持つことができなかった。
比較的真面目な人間の多いH高の中では派手で、目立ちたがり屋とも言える彼だが、好きな女性のタイプは、やはり明るくて、でも真面目な優等生タイプだった。彼のそうした好みは友人関係にも反映されており、益美や一美、そして麗に三奈にしても、まさにそれに近いタイプの人間と言えた。彼が彼女たちに特別ときめかなかったのは、三奈はいわずもがなだが、益美と一美については必要以上には近寄りがたい独特な(『釣り合わない』と言い換えても良い)雰囲気が感じられ、かつ男子の中では水面下での人気もありすぎたからであり、麗については、他の二人に比べ内気すぎて表情が堅く、大人しすぎると映ったからだった。
そんな中で、先輩である郡湊都は、彼の理想の枠の中にピッタリとはまる女性のように、彼には映った。
部室が近いこともあって顔を見る機会は何度もあった。
男子生徒とあまり(というよりはほとんど)話をしているところを見たことがないという普段の行動。
それでいて、女子生徒や演劇部員(こちらも女子だけ)には人気も人望もある凛とした態度。
ステージ上での確かな演技力と、そして輝き。
張りのある美しい声。
彼女の醸し出すすべての要素が、彼をのめり込ませていった。
彼が湊都と直接話したのは、門松の要請で純一と一緒に聴き込みに行った一一月一日のただ一度だけだった。
そのときの胸の高鳴りは今でも明確に思い出すことができる。
そしてその日の放課後、純一が彼に言った言葉も。
『随分ぶっきらぼうな人だったな』
『オレには少なくとも、知らない人としゃべるのに慣れているようには少しも思えなかったけど。それでなきゃ、オマエが嫌われてるとか?』
オマエが嫌われてるとか──。
その最後のセンテンスが栄の頭に何度も何度も浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
俺は何かやったんだろうか?
彼女の機嫌を損ねることをしたのだろうか?
直接本人に訊くことのできないもどかしさが、彼を焦らせた。
文化祭以降、何人かの女子に告白され、その都度断った。悪いとは思ったが、自分の魅力が証明されたかのようで嬉しくもあり、最近では断ることに快感に近い感情さえ覚えるようになっていた。
もちろん原因は彼女の、湊都の存在である。
彼女のために俺は断っている──こんな魅力のある男が一途に一人の女性を想い続けているのだ。そんな男を振る女が、いったいどこの世界にいるというのだ?
門松に協力するという大義名分で、彼は昨日一昨日と、湊都に会うためにわざわざ中央図書館まで行った。
しかし彼女は来なかった。
原因が自分にあるとは思えないが、そうでないという根拠はどこにもなかった。
彼女が来ない理由を聞いて一昨日のことには納得したが、昨日のことについては釈然としなかった。
「体調が悪い」だって?
そんなの理由になってない──彼にはそう思えて仕方がなかった。
『それでなきゃ、オマエが嫌われているとか──』
そんなはずはない。
彼は震える手で、彼女の家のインターホンを押した。




