第一章 序曲(四)
◆ 4
三奈はひどいショックを受けているらしく、今日は朝のホームルームの前に、既に帰宅したということだった。
猫好きを自称する一美はいつになく憤慨しているし、三奈のことが心配なのか、純一は不機嫌な表情で窓の外を睨むばかりだ。
教室内でいつもと変わらないのは益美と、臨時担任の門松ぐらい。栄は、ライブの準備で視聴覚室に籠もりきりになっているらしい。昨日丸一日準備日が設けられていたが、それだけでは間に合わなかったようだ。
文化祭の初日だというのに、何てことだろう──。
柳麗は、早朝から暗いニュースを聞いたことで、そして栄の顔を見ることができなかったことで、意気消沈していた。
いつも通りあっという間にホームルームが終わると、早速益美が声をかけてきた。
「結局、告白しなかったの?」
麗は、正直に頷くしかなかった。
どうしても勇気が出せなかったのだ。
「しょうがないなあ、もう。誰かにとられちゃっても知らないよ?」
いつも強気で、自分に自信があるあなたならそうすればいいわよ──。
でも、わたしは──。
麗はまた、心の中でそう悪態をついて自己嫌悪に陥った。このところこんなことばかりだ。何かこのストレスを発散する手段が、そのきっかけでもいいから、欲しい。
いつまでも無言でいる麗の態度に焦れたのか、益美は麗を置いて、一美と二人で教室を出て行ってしまった。
三奈も含めた四人組の中でも、彼女たち二人は非常にウマが合うようだった。
正統派の一美と、アイドル系の明るめの顔立ちに長身という、やや派手なイメージの益美。
この二人にわたし一人がくっついていったら、単なる引き立て役になってしまう──そんな考えが浮かんでまた一つ、麗は自分のことが嫌いになった。
文化祭はもうすぐ始まる。
二年C組は喫茶店だ。
麗の担当は今日の午後、明後日の午前。
栄たちバンド部のライブは三日間とも午後のみ。
つまり今日は行けないものの、明日と明後日は行ける。
初ステージを見られないのは悔しいが、三分の二見られるのだから文句は言えない。
麗は文化祭スタートのまさに直前になってから、一人、教室を出た。
向かう先はどこにしよう?
視聴覚室?
いや、そんな勇気はない。
それに、彼も今は忙しいだろう。
なら──。
少し思案したあと、麗は体育館へ行くことにした。
体育館では、中学時代からそれなりにつき合いのある、古代希が脚本全部と演出の一部を手がけたという劇が行われる。
彼女とは去年も同じクラスだったし、今はそうでもないが、かつてはいつも一緒にいるくらい「仲が良い」時期もあった。そういう義理を果たしてもいいだろうし、それに──それに他に行くあてもない。
上演が終わると、会場である体育館は歓声と拍手の渦に包まれた。
それがこの劇に対する偽らざる評価であることは間違いなかった。
オリジナル劇ということだが、その完成度はかなりのものがあった。
さすが県下有数の実力を持つと言われる演劇部だ。
しかしまさか、『ドッペルゲンガー』とは。
H高演劇部はある意味で「超高校級レベル」と伝統的に言われている。それは自由な校風が生み出す、「社会的問題作」と言えるオリジナル作品を次々と発表してきたからだそうだ。
しかしいくら芸術のカテゴリーに属してるとはいえ、高校生が演ずるべきものでないと社会的に思われるであろう内容を扱うことも少なくないため、いつもいつも全国大会などの上位の大会に進めるとは限らなかった。というよりむしろ、実力がある割には、いつも県大会の段階で敗退していた、と言った方がいいくらいだ。
『近親相姦』、『完全犯罪を達成するミステリ』、『真犯人の無罪法廷』といったいつの時代にも起こりうる非道徳的な問題を描いたものから、『逆セクハラ』、『教員間のイジメ』、『汚職政治家秘書の逆襲』、『マネーゲームの勝者成金の傲慢』といった時事的な問題を扱ったもの、更にはいわゆる名作を大幅にアレンジした半オリジナル作品──。
今回のテーマ、題材は、直接タイトルに表記されてはいなかったし、劇中の台詞の中にも出ていなかったものの、明らかに『ドッペルゲンガー』だった。
脚本を担当した古代希は、何を思ってこんなテーマを文化祭にぶつけた?
考える必要もないことだったが、麗には考えてもわからなかった。
ただ、相変わらずのハイレベルな演技と演出で、実に見応えのある劇だった。
そして見応えがあるが故に、何か不吉なものを感じさせる──そんな気がしてならなかった。
【登場人物】
柳 麗:私立H高校2年C組。推理小説好き。性格は大人しく、ややおどおどとしているが、頭の回転は速く、成績も良い。顔立ちは整っており発展途上。やや痩せぎすで、主に男子から「ユーレイ」という不名誉なあだ名も。同級生の皆川栄のことが気になっている。