第八章 偽善(四)
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彼女は奇声を発しながら、一度は体格のいい落合や早坂をもはじき飛ばしながら、廊下の窓を開けて飛び降りようとした。
しかし五人の中では一番華奢で軽く、力も弱い生駒が必死に、窓のレールに手をかけたことによって浮いた彼女の足を掴んで、室内側に引っ張ろうとしたため、彼女もバランスを崩した。そしてその一瞬の隙をついて、落合が肩口に竹刀で一撃を食らわせた。
しかし彼女は痛がる素振りもなく、なおも飛び降りようとした。
それを、一度ははじき飛ばされた早坂と門松と蓮見の三人が追いついて、総掛かりでようやく押さえ込むことに成功した。
彼女一人と落合を含めた四人の男たちの戦いは実際には数分間も続き、その間に生駒は窓を閉め鍵をきちんとかけ『逃げ道』をとりあえず封じた。
飛び降りるためには、少なくとも鍵を外して窓を開ける手間をかける必要がある。
もっとも、もはやそんな理性が彼女に残っているとは本能的に思えないような有様だったが。しかし、つい先程までそう動いていたのだから、油断はできない。
窓を破る分には、そんな手間は必要ないが──落合は竹刀を構え、ときに打ち込みながら、そんなことを考えていた。
人──いや、人の形をしたモノに竹刀を打ち込むことに、不思議なほど、抵抗感はなかった。
彼女は「幸せ」と一言口走ると、それきり電池が切れたように暴れ回ることはなくなった。
が、ときおり意味不明な奇声を発したり、緩慢な、それでいて優雅にも見えるような動きで手足を動かしたりして、五人の男女をその都度ドキッとさせた。
とはいえ、とりあえずの静寂が訪れた。
警察官である蓮見が、落合に念のため、ロープかワイヤーといった体を拘束できるようなものを持ってくるよう指示した。
彼は手錠を持っていなかった。
倉庫まで走って行った落合が手にしたのは、コイル状に巻かれたコンセントの延長コードだった。
数十メートルはある業務用の延長コード。これなら長さも十分だし、ある程度細くて、強度もある。彼はそれを二つ抱えて、急ぎ足で戻ろうとした。
ふと背筋が寒くなった──。
このコイル状の延長コードは大型のもので、決して軽いものではない。それを軽々と二つも持ち運んでいる自分。
八〇キロはある自分。
細身だが一八〇センチ以上あると思われる、しかも警察官である蓮見。
それに野球部の元主力打者で、がっしりとした体格の早坂。
体格はそれほどでもないものの、運動神経抜群らしい門松。
そして、女子とは言っても元剣道部の生駒。
平均的な大人の男性よりも体力的に勝るはずの男たちが四人がかりで、しかも平均以上の若い女性も一人加わっていたにも関わらず、一人の女子高生をやっとの思いで止めた、だって?
「そんな……、そんな、バカなっ!」
精神的平衡を辛うじて確保するのがやっとなほどの心理的ダメージ。
悪寒の走る体。
しかしこのとき彼の頭に浮かんできた光景は最前のものではなく、二日前に見た、あの奇妙な笑みを称えた、白井友香の死に顔だった。
守井の体を縛り上げてなお、緊張の面もちで竹刀を構えている落合を守井とともにトイレ内に、真っ青な顔で震えながら寄り添っている早坂と生駒の二人を、落合と守井がギリギリ見える『現場』トイレの外の廊下に残し、門松と蓮見は、警察に連絡するために職員室横の公衆電話に向かった。別の言い方をすれば、これは蓮見が門松に同行を求めたもので、彼が警察官である自分が立ち会っての現場保存よりも、こちらを優先した──ということになる。
蓮見は「携帯電話が通じないみたいなので、すみませんね」と言ったが、これはもう、二人きりになる口実としか言えなかった。このH高内では携帯電話が普段から通じにくいが、誰もいないこの時間帯、自分の携帯電話にもアンテナが立っていた。だから門松は、これ見よがしにそれを彼に見せたのだが、蓮見は苦笑しただけだった。
事態は一応落ち着いていた。緊急中の緊急の事態からは脱している──その手応えは門松にもあったから、蓮見に対する思考はひとまず打ち切った。
二人して黙って、廊下を一歩一歩進む。
下界の音から隔離されたようなその空間は、先程の奇声や異音の記憶が生々しく甦ってくるのを妨げるような働きを一切しなかった。
門松が、続いている沈黙を嫌い、先に口を開いた。
「凶器は、ありましたか?」
「…………」
門松の言った言葉の意味が通じなかったのか、蓮見はその質問にすぐには答えなかった。
門松としては単刀直入に訊いたつもりだったので、まさかこの意味が通じてないとは思わない。
しばらくして、蓮見は言った。
「そんなものは見当たりませんでしたね。たぶん、その──無かったと、思いますよ?」
「……意外な答えだな。あの程度のことで、動じる人間とは思ってなかったんだが」
「『あの程度』?」
蓮見は整った顔を門松に向けたまま、しばらく無言だった。
「アレが、『あの程度』──ですか? さすがですね。
買い被らないで下さいよ。自分は一介の警察官です。あなたとは違う、ただの人間ですよ?」
「ただの人間? アンタがか? ……まあ、オレも見るのは初めてだったからな。さすがに狼狽えたが」
「引っかかる言い回しですね」
「そうかな?」
「……あなたは、どう思うんです? 『凶器』のことについて──」
「一二年前、今回の一連の事件とよく似た事件が、○県のK市とその周辺で起きている」
門松がそう呟くと、蓮見が訝しげな表情で、彼の顔を見た。
「暴走族関係者の間では、全国的に有名な事件だろう?」
「……なるほど。それでですか」
それだけで合点がいったようだ
さすが警察キャリア、侮れない。
「あれから一二年か──結局あの事件は何ら解決されてない。このままいくと、今回もまた──」
「一二年後に?──いや、そこまでは──」
「……一二年後?」
門松は意外なものでも見るかのようなような目つきで、蓮見の横顔を見た。
「そうか! 二四年前かっ!」
門松は蓮見の存在を気にもとめずそう叫んでいた。
そして何かに思いを巡らすように無口になり、焦点の定まらない目で、天井を見つめた。
蓮見は電話のところに辿り着くと、そんな彼を横目に、静かに公衆電話の受話器を上げた。
【登場人物(故人)】
小此木 尋:私立H高校2年E組。生駒愛とは「恋人」ごっこをしていた守井楓の恋人。門松に「インキュバス」と言わしめた人物だが、実際は守井楓のいいなりに近い状態だった。11月4日未明に頭を二つに割られてトイレの中で死亡。その頭は、何度も守井楓によって踏みつけられていた。この件は他殺であることがはっきりしており、守井楓が容疑者であるが、殺害の手段や動機は不明。




