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Embrace~黒き魔性  作者: 笹木道耶
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第八章 偽善(三)─第三の犠牲者─

     ◆ 3


「お前たち──。

 …………。

 何だ? この声は」

 落合が、トイレの前に佇む二人に声をかけた。

 トイレの中から『ただならぬ声』らしいものが聞こえてくる。

「中にいるのは守井と小此木か?」

 門松がやや小声になって二人に訊ねた。

 二人は既に自分たちが逃げることは諦めているようで、コクリと頷いた。

 その表情は、複雑な印象を三人に与えた。

 失望、諦め、意地、憎悪、忍耐──様々な感情の入り交じった表情だった。

「中に踏み込みましょう」

 蓮見が言った。

 視線を彼に移して初めて、彼が非常に険しい表情をしているのに気がついた。彼のように非常に整った顔立ちの男がこんな顔をすると、かなりの迫力がある。

 落合は、彼がどうしてこれほどの表情をしているのかを正直言って計りかねた。

 このトイレの中で行われていることは容易に想像できるからだ。

 ロクでもないことではあるが。

 しかし──。


 バキッ、ボキッ、ねちょ──。


「……? 何です? この音は」

 蓮見と門松は既にこの音に気がついていたのか、落合の言葉に特に反応しなかった。

「行きます。どちらか一人で構いません。ついてきて下さいますか?」

 門松と顔を見合わせる。

 落合は初め、この言葉を、トイレの外にいる早坂と生駒を見張るために彼が「どちらか一人」と言ったのだと解釈した。しかし彼は、続いて思いもかけない言葉を口にした。

「できれば、何を見ても驚かない神経をしている方が──神経の図太い方の方が来てくれるとありがたいのですが。

 それに、外に待機する方。そちらの方も決して気を抜かずに入口を見張っていてくれるとありがたいです」


 彼が何を言っているのかわからなかった。

 確かに他人のセックスシーンを生で見せつけられのは、ウブな中高生連中には毒かもしれない。

 自分だって嫌だ。

 しかし、自分らのような大人なら、ある程度ショックは受けても、それが身内であったりなんかしなければ、大概は大丈夫だろう。

 まあ、そうは言っても確かに、何も感じないという自信があるとは言い難いが。


 ガキッ、ねちょ、ぐちょ、ペキッ──。

 (ズゴゴゴッー)


 よく聞くと、水洗トイレの水流の音が絶え間なく鳴り続けているのがわかった。

 それに。


『あははははっ、あはっ、あ、あ、あ、い、い、……あはははははははは』


 おかしい──。

 落合は、その状況が単なるセックスとは違うものであることをようやく認識しつつあった。

 一瞬、マニアックなプレイでもしているのかと思い浮かべたが、そんなものが問題にもならないようなことが起こっているのではないか? そんな確信めいた直感が、彼の背筋を凍り付かせようとしていた。


 「バキッ」、「ボキッ」、「ペキッ」という音。

 「ねちょ」という音──。


「いったい何が──」

 落合が蓮見に言いかけると、早坂と生駒の二人も、真剣な眼差しで蓮見を見つめていた。

「見てみればわかるでしょう──と言いたいところですが、どちらが来られますか?」

「オレがいきますよ」

 門松が躊躇なく言った。

 だがその表情は、まるで何かに追いつめられて行き場を失った、哀れなジャンキーのようにやつれて見えた。


「そこの二人も──無理のない範囲で、できればでいいですから、『中から飛び出してくる人物』を取り押さえるのに協力してくださいね」

「中から飛び出してくる?」

 落合と生駒と早坂が同時に、同じ言葉を発した。

 しかし、応えはなかった。

「ちょっ、ちょっと待った! あ、あの『バキッ』っていう妙な音は──」

「では、行きますか」

 門松が、落合たちの疑問を無視して蓮見についていく。その横顔からは、先程の倦み疲れたような苦悶の表情からは想像できないような、微かな笑みが覗いていた。



 そこには、一人の少女がいた。

 服装は乱れていたが、スカートは履いていた。

 彼女は、足踏みをしながら、恍惚の表情で、奇声を発し続けていた。

 彼女の足下には、少年のものと思われる体が、うつぶせに、ややくの字に、背中を背後に反らせるような形で横たわっていた。

 彼の足は、和式の便器に水を流すためのレバーを、『スイッチオン』の方向に動かしたままにする役割を負っていた。

 彼の頭は、便器の中にあった。あるはずだった。

 機械的に足踏みを続ける彼女の足が片方ずつ定期的にそこから取り除かれるのを見ていてわかったのだが、不思議なことに、斜め上方から見ているというのに、なぜか左右両方ともの耳が、「仰向け」になっているのが見えた。

 トイレの白い便器には、うっすらと赤黒い液体の名残があった。おそらく、タンクの水が尽きてしまったため、流れる水量が足りてないのだろう。

 更によく見ると、トイレの汚物を吸引する箇所に、黄土色ともクリーム色ともつかないゲル状の物質が貯まっていた。

 彼女が足を降ろす度、不愉快な音が聞こえた。

 彼女が足を降ろす度、彼の頭のあった箇所──髪の毛の向こう側から、ゲル状の物体が、僅かだが絶え間のない水流によって流されていった。

 彼女が足を上げる度、現在の彼の頭の、いや、頭だったところの状況が、半分ずつ把握できた。

 彼女は依然、歓喜の声を上げ続けていた。


「いったい、いったい何をやっているんだ!?」

 そう叫ぶと、彼女は緩慢な動作でとこちらを振り向いた。

 言い知れぬ恐怖を感じた。

 蛇に睨まれた蛙のごとく、全く動くことができなかった。

 すべての思考が中断し、次に何が起こるかをただじっと、待つことしかできなかった。


 恍惚の表情。

 ヒステリックで皮肉に満ちた表情。

 いや、愛に溢れた瞳?


 彼女の表情は、そのいずれにも見えた。

「うふふふっ……」

 彼女はこちらに微笑みかけると、ようやく足踏みをやめ、ゆっくりと便器の中から両足を抜いた。その動きは極めて優雅で、その背中には、翼があるようにさえ思えた。

「……サキュバス──」

「あははははははははっ」

 奇声とともに、彼女はものすごい勢いで走り出した。

 門松と蓮見の体がはじき飛ばされ、彼女は入口に向かって、猛烈なスピードで走っていく。

「くそっ! 追うんだ!」

 冷静になったときにはおそらく屈辱にすら感じるであろう瞬間が、連続して次々と、精神的にも肉体的にも襲っていた。


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