第七章 奈落へ(一)
◆
(やめてっ! もう、やめて……)
もしこのことがバレたら、両親に何を言われるかわからない。
怒られるかもしれない。
いや、怒られるに決まってる。
だって、いつだって彼らは厳しいから。
きっと、あたしの注意不足が招いた当然の結果だ、って言うに決まってる──。
彼女はそう思った。
彼の場合はこうだ。
きっと彼は、自分が太鼓判を押したにも関わらず、あたしが事件に遭ったと知ったら、傷つくに違いない──彼が精神的に案外脆いのを、少女はよく知っていたから。
彼に心配をかけたくない──そう思った。
(いや、もう、……もう、やめて)
そして少女はピアノ教室から帰る度、この男の待ち伏せに遭うことになった。
もちろん、初めは道を替えて遠回りをした。
しかしある日、『あれ? どうしたの、昨日さあ僕、あの道たまたまあの時間に通ったんだけど、「みいちゃん」いなかったね。道替えたの?』と彼が訊いてきたのだ。少女はとっさに、『ううん、昨日はちょっと、練習が長引いちゃって……』と答えてしまった。そのせいで、少女は、再びあの通りを歩かなければならなくなった。
(『みいちゃん……』)
(や、やめて……そんなふうに呼ばないで)
数回、少女はこの男に襲われた。
恐怖感、嫌悪感で胸がいっぱいになる中、しかし皮肉にもその機会が増えたことから、この男の特徴を、少女はいくつか知ることができた。
そして、そのことが、少女にとっては不幸だった。
(やだ、いやだ、そんな、どうして?)
少女は、この男の体をじっくりと観察してしまった。
痩せているその体には、いくつかの黒子や傷跡があった。
興奮状態から発せられる吐息の中に、この男の声を、認識できる冷静さを得てしまった──。
「──にいちゃん……ちいにいちゃん、でしょう?」
(やめて、どうして? どうして!?)
どうして──。
男はそれを聞き、それまではハッキリと出すことのなかった声を──雄叫びを、上げた。
「おおおおおおおおおおっ…………」
(いやああああっ!……)
少女の頭は、再び真っ白になっていった。
自分から何かをするどころではなかった。
ただただ、その両方の丸い瞳から、涙が溢れ続けるだけだった。
恐怖と絶望と、そして愛の崩壊の中で──。
「はあっ、はあっ、はあっ、…………」
しばらく見ていなかった夢を、久しぶりに見た。
『みいちゃん』と呼ぶ、優しかったあの声が、恐怖と嫌悪と絶望の対象に変わった、あの瞬間──。
何度忘れ去ろうとしただろう?
結局あの事件は公になり、その結果、被害者である自分の方が、両親共々引っ越しをせざるを得なくなった。
環境を変え、今も、何とか自分を取り戻そうと努力はしている。
しかし、根はそんな表面的なものよりも、遙かに深く、深刻だった。
「はあっ、はあ、は……。どうして? ……どうして、今頃──?」
PTSD。
そして。
極度の男性不信──。
◆ 1
《一一月〇三日 木曜日》
祝日であるはずのこの日は、私立H高の生徒たちにとっては、重苦しい特別登校の一日となった。
別に授業があるわけではない。
マスコミを含む外部者をすべてシャットアウトした上で、マスコミに対する応対の仕方を生徒たち一人一人に認識してもらう──という大義名分の下に、生徒たち全員が体育館に集められた。
校長や学年主任の教師たちによる『講義』が次々と行われる。
さすがに優等生が多いH高、真剣に聞き耳を立てている生徒がほとんどのようだった。
そんな中で、約一名、今日これからどうやって時間を潰そうか──ということについて、真剣に考えている女子生徒がいた。
何かをしなければならない──今朝から、漠然とそう思っていたのだ。
言うなれば、なぜか、そんな思いにとらわれてしまっている。
突然、生徒たちが「おお~っ」と歓声を上げた。
女子生徒は、それまでの思考を中断させられたことにはそれほど腹を立てることはなかったらしく、すぐにその歓声の意味を、自分の前に立っている女子生徒に確認しようと口を開いた。
「ねえ愛ちゃん。今、何があったの?」
壇上には三年生の学年主任の教師が上がり、マイクに向かっている。
「今日の代わりに、明日休みにしてくれるって」
少し間をおいて、今度は、愛の方から話しかけてきた。
「ねえ。楓ちゃんが耳寄りな情報を聞き逃すなんて、珍しいね?」
「え?」
「うふふ、さっきの」
「……ああ」
守井楓はそう指摘されて、少々不快だった。
何よりも、この生駒愛という人間に指摘されたことが不愉快だった。
「ちょっと考えごとしてたのよ──そうだ!」
楓は無意識に、多少大声になってしまっていた。周囲の視線が部分的にだが集まってくる。
しかし楓は、そんなことは少しも気にならなかった。
のどの奥につっかえていた魚の小骨が、何かの拍子に綺麗に取れてなくなったのかのような感激だった。
今日の朝からとらわれていた思いに──単純に尋たちと遊ぶ、というのも、なんだか味気ないことのように思っていた。
ナンパして知らない男と遊んでもいいが、そんなありきたりなことをしても面白くない。
もっと何か、刺激的なことをしたい──そんな思いが、彼女の頭を確実に支配していた。
そして遂に、その解答を見つけた。
刺激的で、スリルのある遊びを思いついた。
そのときの彼女は、この全校生徒がいる真ん中で、まさに小躍りしたいと本気で思ってしまうほど、嬉しさと期待でいっぱいになっていた。
「ねえ、どうしたの?」
周囲のざわめきが収まった頃、再び愛が話しかけてきた。
「ちょっとね、いいこと思いついちゃった。愛ちゃんにもあとで話すよ」
楓はフフッと小さく笑って、やや怪訝そうな顔をした愛の首を正面に向かせた。
この遊びは、他の者に知られては都合が悪い。しかも、愛と、それに尋、翔の三人が参加してくれないことには、成り立たないものなのだ。
(スリルとサスペンス、それにラブロマンスにセックスにホラー。すべてを兼ね備えた、究極のアソビね──)
その微笑みは、デフォルメされたイラストに多数表されているような、嘲りと好奇心を含んだような笑みを浮かべた、悪魔の表情と、よく似ていた。




