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Embrace~黒き魔性  作者: 笹木道耶
13/71

第三章 転落(一)

     ◇


 少女は動けなかった。

 動こうとする意志すらも挫けさせるほどの衝撃が、彼女の意識を覆っていた。

 怖い──。

 今、この場所……。

 今、自分が体中を触られ、口づけをされ、舐めまわされているこの場所が、ひどく特殊な場所である、という現実──。

 それは少女にとって、何よりも残酷だった。

 人通りのない、空白の場所。

 住宅、商店、公園などの、町の繁栄から取り残されたような、そんな見捨てられた場所──。


『この場所を知っているのは、この辺りでも、たぶん僕だけだと思う』

『ここは僕の秘密基地なんだ。ほら、ウチって、兄弟多いだろう? なかなか一人になれるチャンスがないんだ。でも、ここに来ると、必ず一人になれるんだ。僕の秘密基地、気に入ってくれた?』

『この場所のこと、誰にも言っちゃ、ダメだからね?』


 彼の言葉が甦る。

 少女に兄弟はいなかったが、隣の家は五人兄弟だった。

 二三歳の長男を筆頭に四男一女。

 二二歳の長女、二〇歳の次男、一七歳の三男、そして一四歳の四男。

 彼はその四男だった。

 家族ぐるみのつき合いのおかげで、少女はその四男一女の更に末の妹のような存在として、幼少期を過ごしていた。特に年齢が三つしか違わない四男と、唯一の女性である長女とは仲が良かった。

 長女が短大を卒業し就職のため実家を離れると、少女にとっての四男の彼の地位は、相対的に大幅に高まった。

 何かというと彼を頼りにした。

 彼はそんな少女の想いに答えるように、当然のように「秘密基地」を教えてくれた。

 そして何度かそこで、二人きりで遊んだ。

 少女の好きだった、彼女の一一歳という年齢からすればやや幼い趣味とも言えるおままごとや、お人形遊びをして。

 思えばそこからおかしかったのだ。

 普通の中学二年生の男子が、小学五年生の女児と、しかもその女児の方の希望の遊び──おままごとをする、というのが、果たして普通と言えるだろうか?

 初めてこの覆面の男にこの場所に連れ込まれたとき、彼女は地元の人しか知らないような裏道を歩いていた。

 単純にただ、近道だから。

 その通り自体は決して人が通らない道ではなくて、むしろ地元の人はそれなりに通る、そこそこ知られた通りですらあった。

 ところが、少女がピアノのレッスンに行ったちょうど帰りの時間帯に関しては、例外的に人通りがぷっつりと切れることを、少女は何度かの経験から学んでいた。

 そして少女は、そのことを彼にだけ相談していたのだ。

 両親に相談しなかったのは、少女の両親が共働きで忙しいことを気遣った結果だった。

 それを聞いて、彼は少女にこう言った。

『そんなの大丈夫だ。考えすぎだよ。あの通りは、地元の人なら誰でも知ってるけど、外から来た人はきっとわからないよ。それに、──ちゃんは、この近所に危ないコトするおじさんがいるなんて、思ってるわけ?』

 と。

(い、いや……)

 少女は、彼の言葉をほぼ全面的に受け入れた。


『どうだ? ちゃんと無事に帰れてるか?』

 そのときのやりとりの数日後、彼は冗談めかして少女にそう訊ねた。

 少女は素直に、ありのままを答えた。

『そんなの、もう心配ないって。あたしももう大人なんだから。全く「ちいにいちゃん」はいつまでたっても心配性なんだからぁ』

 自分から相談をしておいて、心配する彼に「大人だから」という理由で苦笑して見せるのは、いささか矛盾する行動だったが、この年代の子どもには、むしろよくあることだった。

 そしてこの日も、それまで通り、その道をいつもの時間に通って、帰宅しようとした。

(やめて……)

 そして、この男が現れた。

 怖かった。

 何がなんだか解らなかった。

 どうしていいかわからなかった。

 両親には絶対言えないと思った。

 そして彼にも強がった手前、相談することは──。

(やめて……、やめてっ!……)


     ◆ 1


《一〇月二八日 金曜日》

「ん……、はあっ」

 艶のある彼女の吐息を聞きながら、小此木尋はゆっくりと体を離した。

 早朝のまばゆい光が極僅か、クラブハウスの一階隅のこの部屋の中に注ぎ込んでくる。

 もう部活は始まっていた。

 私立H高は、野球部やソフトボール部、陸上部などはそこそこ強いが、テニス部ははっきり言って弱かった。その原因は、練習が既に始まっているというのに、なおも部室で抱き合っているこのような輩がいる、ということが間接的に証明していた。

 強くなろうなんて思わない。

 試合に勝つ必要なんて全くない。

 ただ、今後のため、硬式テニスが多少なりともできるようになれば、それでいいのだ。下手に練習して、両腕の太さが違うようになってしまったらシャレにもならない──これが、男女両テニス部に所属する生徒たちの、大多数の意見だった。

「ねえ……もっと、刺激的なこと、ないかなぁ」

 彼女が相変わらずの色っぽい声で言う。

 彼女の手に掛かれば、純情な男子高校生なら誰でも、堕落への道を突っ走らざるを得なくなるだろうと思う。それを証明する事例も、尋はもちろん知っていた。

「昨日の騒ぎだけじゃ、まだ満足できないって言うのか?」

 尋はそう言うと、改めて彼女の唇を吸った。

 僅かに漏れてくる朝陽を手がかりに、彼女の顔に意識を集中すると、瞳が妖しく潤んでいるのが判る。

 彼女は悩ましげに身をよじって尋の唇からほんの数センチだけ逃れると、妖しげな笑みを浮かべながらこう言った。

「だってぇ、昨日私たちがやった以外にも誰かが何かやってたら、もっと面白かったはずじゃない? それに、さばけたのも一匹だけだったし」

 尋は、薬品の瓶の中身が池に溶け出してそう経たずに、その近くにいた鯉たちが痙攣してプカプカと腹を突き出し水面に浮かんで来た光景を思い出し、少しばかりぞっとした。

 しかし同時に、なんだか得体の知れない感覚が体を貫いていた。

 昨日、いや一昨日の晩、と言った方が良いだろうか。

 彼女が浮かんできた一匹を捕虫網で手繰り寄せ、その体にナイフを突き刺し、二つに開いていくその異様な光景を見たときに感じた畏怖のような、それとも快感のような──そんな感覚と同じ感覚だった。そのとき、彼女の体は確かに震えていたが、彼女の目は「恍惚」という表現がピッタリ当てはまるようなウットリしたものだったのだ。

 やはりあれは、『快感』だったのか?

 尋はあのとき、「二匹目はオレにやらせろ」と言うつもりだった。

 なぜか、そうすれば、震えるような、焦がれるようなあの感覚に、自分も浸れるような気がしたのだ。

 だがあのとき、何者かがこっちへやって来ようとしているのに気がついた。

 「ヤツ」は、普通ここの生徒しか知らないはずの抜け穴をくぐろうとして、足を滑らせたらしい。

 さすがに二人にも、自分たちが違法行為をしているのだ、という認識くらいはあったから、その場をすぐに逃げ出した。現実的な結果としてはそれで良かったのだろうが、心情的にはあのままあそこに留まり鯉の体にナイフを入れ、自分も彼女のようにゾクゾクっとする感覚に浸りたい、という思いがあった。

 そして、それを取り返したい、という思いがあった──。


「ヤツ、オレたちのこと、『見た』かな?」

 表向きは平然としていたが、尋は昨日一日、正直気が気でなかった。

 しかし彼女は、そんなことは気にもしていないふうで、こう言ってのけた。

「『見て』たとしても、絶対はっきりは見てないよ。見てたら、私たちもう、捕まってるって。

 ……意外とこういうことに弱いんだからあ尋は。それにあれが、『ホントの』犯人だったのかもしれないよ? だとしたら、絶対黙ってるって」

 確かにそうかもしれない。

 彼らが正確には昨日の晩、あのような行動に及んだのは、二つの猟奇事件の共通点に基づいたからだった。それが偶然の産物でなければ、本当の犯人による猟奇事件が別に起きていても、何ら不思議はなかったのだ。

「それよりも~、なんかいいコト、考えてよぅ」

 尋は、『女』という生き物の恐ろしさを、高校に入ってからまざまざと見せつけられた。

 一人はもちろん、この女から。

「でも、もう学校には、生き物はいないぜ」

 尋は、自分でも判るくらい、残念そうな声を出していた。

 もはや彼は、完全に彼女の虜だった。

「ふふっ、いっぱいいるじゃん。何百『人』も」

「……正気か?」

「うふふっ」

 彼女は、なおも言い返そうとする尋の唇を強引にふさぐと、すぐに舌を絡ませてきた。

 そして、数分間に及ぶディープなコトのあと、イタズラっぽく笑いながら、こう言った。

「また、他の誰か食べちゃおうよ。今度は一年生がいいかな?

 うふふっ、またウブな少年少女をオトナにしてあげるの。もうそろそろ飽きちゃったでしょ? あのコにも」

 確かに彼女が言うように、尋は「あのコ」に少しばかり「飽き」を感じていた。

 しかし──。

「恐ろしい女だな、お前は」

 尋は正直に自分の気持ちを述べた。

 しかし彼女は、相変わらずの艶っぽい声でこう返す。

「あなただって十分恐ろしい男よ。私を飽きさせない。翔にはもう、飽きてきたって言うのに」

「お前ほどじゃねえよ、楓」

 尋は、あの野球バカ、と言えるほどの熱血野球少年だった早坂翔の変わりように、正直驚いていた。

 野球を辞め、どんなに冷たくされても、使いっ走りをやらされても、彼女──守井楓についていく彼の姿に。

 『元親友』の、堕ちた姿に──。

「あら? 何度も言うけど、あなただって。あのお堅かった純情女を、立派な淫乱に育て上げちゃったじゃない」

 そう言うと、彼女は捲れていた練習用ユニホームの上を、丁寧に元に戻した。

 彼は何も言えなかった。

 確かに「あのお堅かった純情女」──生駒愛の変わり様は、変わる前の彼女をそれなりによく知っていた彼からすれば、信じられないものだった。

 彼女は、そんな彼に妖しく微笑みかけながら、当たり前のように言った。

「さあ、ウォーミングアップも終わったし、そろそろ!」

 彼女は、自分の対外的な「カワイイ女のコ」というイメージの仮面を、いとも簡単に装着していた。


【登場人物】

守井もりい かえで:2年E組。早坂翔とは「恋人」。女子テニス部員で、頭が良く成績は優秀。容姿が良く本人も自信を持っており、纏っている雰囲気はかなり軽め。自分から男子に対してぐいぐい行くタイプ。人生楽しんでナンボだと思っているが、分の悪いケンカはしない。ギリギリでも勝てるラインでスリルを味わうタイプ。

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