きこりのいずみ
握目さとるは朝早く起きると必ずする日課がある。
洗面所に行き、洗面器にギリギリまで水を溜めると床に敷いたタオルの上にそれを置いた。
そして洗面所にある棚から、水色の小瓶を取ると蓋を開けた。
さとるは屈むと小瓶を傾けて洗面器に垂らした。
「さあ、今日の出来事を教えてくれ」
さとるはそう独り言を呟きながら、洗面器を眺めた。
数秒すると洗面器の中の水に変化が起きた。無色透明だった水は真っ青な海のように色づいていく。
そして水面から綺麗な女性が映し出されていく。
「あなたの望みは何ですか?」
水面に映る女性が喋ることに驚く様子もなくさとるは平然としていた。
「今日の商談を成立させたい」
さとるがそう言うと洗面器の水は激しく揺れて、今度は水面にある風景が映る。
風景はどこかの会社のようで、さとるともう一人中高年の男性がソファーに腰掛けて何やら話している。
「この店のケーキを買いなさい」
先ほどの女性の声がどこからか聞こえてくる。水面はケーキ屋を映し出すと真っ青な海の色だったのが消えて、最初の無色透明な色に変わった。
「へへ、これで今日も仕事は順調だ」
さとるは手に持っている小瓶を見て、1カ月前のことを思い出した。
さとるは大学卒業後、中小企業の証券会社に就職した。営業に配属され、さとるは一年目になるが未だに大きな取引を行っていない上にノルマを達成することも日に日に難しくなっていった。
明るさだけが取り柄といってもいいさとるは、次第に会社に嫌気が指していた。
毎日の上司の説教や大学の友達の恵まれた生活。
自分の望んだ生活ではないことにさとるは生きることにも疲れていた。それは顔にも表れているようで、洗面所の鏡に映る自分の顔は頬がやつれて覇気が感じられないほどだった。
それが1カ月前のこと。仕事帰りに居酒屋で一人で呑み、終電を待っていた時だった。
普段は駅の広告や看板など気にしないさとるは、酔いもあったのか何気なく見ていると一つの看板に目が止まる。
『あなたの不満解決します
摩訶不思議堂』
なんだこれ?
さとるは看板を見た瞬間、怪訝な表情になる。看板にはそれ以外に何も書かれていない。他に書いてあるのは店の場所くらいだった。
「わりと近いな」
自分の最寄り駅に近いことがさとるの興味を引いた。
何より、不満を解決という見出しがさとるを無意識に興味を引き立てた。
「この住所だとあの辺かな?」
さとるは頭の中で自宅周囲の地図を描き、店の場所のおおよその場所に目星をつけた。
「遊び半分で行ってみっか」
酔うまで飲むことはないさとるだったが、この日上司だけでなく同僚からも悪口を聞いて、完全にヤケになっていた。
終電で自宅の最寄り駅に着くと、酔いも少しは冷めてきたようだ。
それでも足はまだふらついており、不安な足取りのまま店の住所まで歩いた。
「お、ここか」
住所を見てアパートだろうと、さとるは思っていたが予想通り二階建てのアパートだった。
「ぼろっちぃな。本当にやってんのか?」
アパートの104号室と書かれており、さとるは階段を降りずに104号室の扉まで真っ直ぐに向かった。
「ここか」
ドア横の号室が書かれた札を確認したさとるは、扉をノックした。
何度かノックしたが、部屋の住人は留守なのか応答がなかった。
「ちっ、なんだよ。いねえのか」
不満を顕にさとるは踵を返して帰ろうとした。
「誰じゃ?こんな夜に」
一瞬、さとるは酒の酔いで幻聴を聞いたのかと思った。
「ほれ、お前さんのことじゃ」
それは聞き間違いではなく、確かに後ろから聞こえてくる生身の人間の声だった。
慌てて振り返ったさとるは、勢いあまって地面につまづいた。
「いてえ!」
思い切り地面に顔をぶつけたさとるは、起き上がると顔を手で押さえた。
「おや、大丈夫かの?」
心配そうにさとるに声をかけるが、さとるはそれよりも鼻の痛みのほうが強いのか暫く返事すらままない状態だった。
「うるせえ!」
ようやく声を出したが、さとるは精一杯の虚勢をはるしかできなかった。
「ずいぶん荒れとるの、まあ中に入りなさい」
いまだ鼻を押さえるさとるを尻目に老人は中に入るよう促した。
「暗え部屋だな」
老人が靴を脱ぐ様子がないのを良いことにさとるは土足で部屋に上がった。
「さあ、ここにお座りなさい」
部屋の灯りは、この狭い部屋に不釣り合いなソファーセット。そのソファーの前に置かれているテーブルにはロウソク立てとロウソクが置かれていた。
「電気点かねえのかよ」
無遠慮に物を言うさとるに文句を言うわけでもなく、老人はソファーに座ったままだ。
聞こえているのかいないのか判別がつかず、さとるはわざと大きな舌打ちをすると音を立ててソファーに座った。
普段の行動でさとるはここまでしない。酒の力だけでなく、目の前の老人の見た目も関係あるのだろう。
小柄なその老人はロウソクの灯りで見る限り、みすぼらしい。クタクタのワイシャツは何年も洗っていないように見える。何よりも老人の顔は暗がりでもわかるほど白い顔をしている。
「さて、用件は何かの」
ようやく老人が声を出したことにさとるは少しホッとする。幽霊ではないかとさとるは少し思っていた。
「ああ、看板を見て来たんだよ。不満を解決してくれんだろ」
「なるほど、さてどんな不満があるのかの」
「全部だよ」
さとるは間髪入れずに老人の言葉に答えた。
「全部とは?」
「全部って言ったら全部なんだよ!会社もプライベートも全部つまんねえ!」
さとるはこれまでの鬱憤が溜まったのを爆発させたかのように、テーブルを叩いて声を荒げた。
「なるほど、なるほど」
老人は特に驚いた様子もなく、さとるの言葉に仕切りに頷いた。
「では、どうしたい?今の生活を変えたい、そういうことかの」
さっきまで老人の目は半分閉じていたが、今は片目だけ完全に開いてさとるを見つめている。それと共に老人の持つ雰囲気が変わったようにさとるは感じた。
「お、おう。そうだよ、女も地位も手に入れてえ」
だが、さとるは気にすることもなく己の欲望をぶちまけた。
「そうか・・そうか」
老人はニヤリと笑った。しかし薄暗いせいで、さとるは気づかなかった。
「では、おまえさんにはこれがいいかの」
老人はゆったりとした動作で、後ろにある箪笥の側まで行った。
箪笥の引き出しの音がさとるの耳に聞こえる。
さとるは老人がしようとしていることがわからず、その背中をずっと見つめていた。
箪笥なんてあったか?さとるは自分が見落としていたのだろうと思うことにした。
「どこにやったかの・・・おお!あったあった」
老人は引き出しを戻すことなく、さとるの方に振り返るとソファーの所へ戻ってきた。
さとるは老人の手に何か持っているのを気付いた。
「あんたにピッタシの品物だろう」
そう言って老人は手に持っていたそれをテーブルに置いた。
さとるは水色の小瓶を手にとって眺めた。
「なんだよ、これ?」
「それは人を導く水が入っている」
「導く?」
さとるが小瓶を傾けると、確かに液体が中に入っており揺れていた。
「そうじゃ。お前さん、昔絵本で読んだことはなかったか?ある男が泉に斧を落としたら、女が現れて金の斧をくれるという話を・・」
老人の言葉にさとるは小さいころにそんな話を聞いたのを微かだが、覚えていた。
「それがこれとなんの関係があるんだよ」
小瓶を乱暴にテーブルに置いて、さとるは怒鳴った。
「同じことが起きるんじゃよ。まあ、正しくは女が現れて予知をしてくれるのだがな」
「予知だと!?」
さとるは老人の言葉に耳を疑う。これまで予知というものを信じたことがなかった。
「おい、じじい!テキトー抜かしてんじゃねぇぞ」
テーブルを叩き、さとるは物凄い顔で老人を睨むが効果はないのか、老人はただ沈黙していた。
「物は試しにやってみなさい」
老人は優しく諭すように喋った。
「なら金は払わねえからな」
小瓶を乱暴にポケットに突っ込むと、さとるは立ち上がった。
「ああそれと・・・」
玄関に向かうさとるを老人は声をかけた。
「一つ・・・忠告しておこかのう。その小瓶、使っても水が無くなることはない・・が、誤れば身を滅ぼすからのぅ」
「どういう意味だよ」
さとるは振り返り、ソファーにもたれかかっている老人を見た。
「ほれ、さっきいった昔話にもあるじゃろ。欲深い男が身を滅ぼすという」
さとるは、頭痛がする頭に手を置きながら洗面所に向かった。
酒など強くもないのに無理して飲んだせいか、二日酔いになってしまった。
「あー、頭いてえ」
二日酔いに効く薬がないか、薬箱を探ってみるもどれも期限切れの薬ばかりで、さとるは布団に倒れた。
「・・・そういえば」
さとるはガバッと起き上がると、目眩をしたものの何とか立ち直り、昨日着ていたスーツのポケットの中を調べた。
「あった」
さとるは昨日、老人から貰った小瓶を見た。昨日の出来事が夢ではないことをさとるは改めて認識した。
「ものは試しか」
老人の言葉を信じたわけではないが、幸いにも今日は会社も休みで、誘うような友人がいるわけでもない。
さとるは気まぐれに洗面所から洗面器を持ってくると、それを布団の上に置いた。
老人から水を垂らせばいいと聞いていたさとるは、言われた通りに小瓶の蓋を開けて洗面器に液体を垂らした。
洗面器一杯に液体が入ると、異変はすぐに起きた。
洗面器の水面が揺れている。揺れは次第に大きく波打つように動いていく。
「・・・あっ!」
さとるは水面に人の顔が映っていることに気がつく。しかもそれは自身の醜い顔ではない、女性の顔をしていた。
「ほ、本当に女性の顔が映った!」
さとるは信じられず、水面ギリギリまで顔を近づけても、自分の顔は映らずに女性の顔だけが浮かんで見えている。
「あなたの望みはなんですか?」
その声ははっきりと洗面器の中から聞こえた。
「え?」
さとるは顔を上げて周りを見渡すが、散らかっている物が見えるだけで人などいない。
「答えなさい。あなたの望みはなんですか?」
さとるは確信した。声は水面に映る女性の声だと。
「の、望みって」
いきなり望みを聞かれてもさとるはなんて答えればいいのかわからずに固まってしまった。
信じられない出来事が起こり続けて、脳の狭量範囲を超えたようでさとるは顔が熱くなっているのを感じた。
するとまたも水面が揺れて大きく波打つと女性の姿は消えた。
「あ、おい・・ちょっと待って!」
慌てて顔を近づけるが、今度はさとるの顔が映っていた。
「制限時間があんのかよ」
さとるはカグッと肩を落とした。咄嗟に判断できない自分を恨めしく思う一方でさとるは、もう一つ重要なことに気づいた。
老人は女性が予知を言うと言っていた。つまり、望んだことを言えばそれを予知してくれる。さとるは小瓶の中を見た。さっき半分ほど入れた液体は、不思議なことに満杯になっていた。
さとるは唇の端を上げて笑った。
さとるの行動は素早かった。
さとるは小瓶を手に取ると、洗面器に今度は全てを注いだ。
水面が大きく揺れ、さっきの女性が現れた。
「あなたの望みはなんですか?」
同じことを女性が言った。さとるは一呼吸すると口を開いた。
「地位が欲しい・・・女も不自由なく、こんなポロアパートではない豪勢な生活をしたい」
さとるは己の願望を全て言った。
「あなたは自分の欲望に正直ですね。あなたに一つの望みを叶えてあげましょう」
水面に映る女性はそう言うと、ある取引先の会社の名前を言い、それを上司に伝えることを話した。
「あなたの地位は以前と変わることでしょう」
そう言うと女性は消えた。
翌日、さとるは言われた通りに上司にその取引先の会社の株をお得意様に進めたいと話してみた。
「しかし、今進めている株は下落する心配がないと言われているところだぞ」
さとるはそれは知っていた。お得意様にその会社を進めたのは、同期だったからだ。しかし、昨日のあの不思議出来事をさとるは信じてみたくなっていた。
どのみちこれで失敗したとしても、転職すればいい。そんな気持ちでいた。
落ちこぼれのさとるだからか、上司は渋りながらもお得意様に提案することを約束してくれた。
しかし、内心はさとるは不安でたまらなかった。
女の言うとおりに上司に進言したとしても、その通りになるとは限らない。
お昼ごろ上司はお得意様のところに向かったのをさとるは見ていた。
「おい、おまえ部長になんて言ったんだよ」
隣の同期入社の男がさとるに声をかけた。
「なにって、部長のお得意様が持ってる株を売って、別の株を買うように伝えたんだけど・・・」
今になって上司が了承してくれたことにさとるは違和感を覚えた。
隣のこの男の言葉なら上司も渋ることはなく、すぐに了承しただろう。
情けないことにさとるは、この男が仕事はできることを知っていた。
顧客に持ちかけた株を大損させたことなどなく、社員の信用もあるできる男。
羨ましい反面、さとるは己の能力のなさを恨んだのは昨日今日だけでない。
「おいおい、おまえ頭大丈夫か?部長がおまえの話になんか聞くわけないだろう」
予想通りというか、男はさとるの話を鼻で笑った。
男は興味が失せたのか自分の仕事を再開した。
不安な心持ちのなか、部長が戻ってきたのは予定より三十分早い時間だった。
「握目、ちょっと来い」
部長はデスクに戻ることなく、さとるを会議室に連れてきた。
さとるは部長の背中を見て、怒られると察した。
「あの・・・部長?」
さとるは恐る恐る口を開いた。
「・・・よくやった」
「へ?」
部長はさとるの方に向き直ると笑顔でそう言った。
「いや、以前からお得意に株を手放した方がいいか聞かれていたんだ。そして今日、株を売っておまえが進めた会社の株を購入させたら大当たりだったんだ」
「というと?」
「わからないのか?その株を買ったおかげで大儲けできたとお客様が満足されておられたんだ」
ガシッとさとるの肩を掴んで部長が喜んでいるのを見たさとるは、女が言った言葉が現実になったのだと気がついた。
「やればできるじゃないか!今日のようにこれからお客様に信頼できる株をお勧めするんだ」
「は、はい!」
初めて部長から褒められ、名前を呼ばれたことにさとるは舞い上がるように喜びを露わにした。
それからさとるは毎朝、小瓶の水を使ってはその日の予知をしていった。
下落する株を知れば、お客様に伝えては自身の信頼をさとるは増やしていった。
他の社員と違うのはさとるは、己の力でしているわけではないこと。
しかし、さとるの勧める株が信頼できると人知れず伝わっていくと、さとるの会社への地位は上へと上がっていった。
最初に上司にアドバイスのように伝えたことが良かったのか、上司からも意見を聞くこともあってか、さとるは小瓶とそれを受け入れる蓋付きの小皿が手放せなくなっていった。
老人から渡された小瓶を使ってからの三ヶ月が経った。
会社に行かずにお得意様のいる家へとさとるは向かっていった。
手には小瓶の妖精(さとるはそう呼ぶことにした)が進言した通りの店のケーキを持っている。
「これで今日も株を勧めていけばいずれ、俺の地位も
安定したものだ」
妖精からの予知を聞いてから生活も安定して、仕事帰りには風俗の女を抱く毎日。
「どうやら生活は潤っているようじゃのう」
さとるは十字路の曲がり角を曲がろうとしたときだった。住宅街のこの地域は、一軒家が大きい家ばかりで金持ちとわかる家ばかりだ。
その高級な家の環境に似つかわしくない、みずほらしい服装をした老人が立ってさとるに声をかけた。
老人はあの水色の小瓶をさとるに渡した者だった。
「ああ、おじいさん。その節はどうも」
あの晩はお酒に酔って乱暴な言葉遣いをしていたさとるだが、本来は小心者だった。
ここ最近の仕事が順調していたからか、気も大きくなったさとるだったが、あの晩を思い出すと気恥ずかしい気分になっていた。
「なに、こちらもあんたが幸せならそれに越したことはないよ・・ただ」
老人は朗らかな表情でそう言っているが、片目を開けた目が鋭く光っていることにさとるは気づいた。
「ただ・・なんでしょう?」
老人のその目がさとるの胸を不安な気持ちにさせる。老人の口から次の言葉を聞いてみたいという思いと聞いてはいけないと頭の隅で警告している思いが交差した。
「忠告はしたはずだと思うんだかの」
「忠告?」
そこでさとるは、ようやく老人が忠告した言葉を思い出した。
「ああ、あれか。別に問題はないけど」
さとるは毎日、小瓶の中の水を使っている。検証したなかで、あらかじめ受け皿に水を張り、小瓶の液体を入れると鮮明な映像が映し出されるということがわかった。
「小瓶を出してみなさい」
老人はさとるの説明など耳に入っていないかのように振る舞い、ただその一言だけ言った。
さとるは不満であったが、小瓶を懐から出した。
「やはりのう・・小瓶の中の泉が汚されとる」
老人はさとるが出した小瓶を見ると悲しい表情になってそう言った。
「なんだよ、汚されてるって」
あらためてさとるは小瓶の中の液体を眺めた。
確かに老人の言う通り、最初は海と同じように透き通った青色の液体だったが、今は濁ったような灰色に近い色をしている。
「言ったはずじゃ、欲望のままにその泉を使ってはならないと・・・本来はその目的は道を示すもの。迷った旅人を正き道へと、女性が示してくれる。だが、お前さんはその力を利用して、己の力で道を示すことをしなければ、泉の水は汚される。現れる女性は間違った予知をするだろう」
老人の話を聞いていたさとるは、最後の間違った予知という言葉に異常に反応を示したじろいだ。
「な、なんだよ。それ、最初にそんな事・・・言ってなかったろう!」
「忠告はしたはずじゃが。なにより、お前さんは自分の力で仕事をしていなかった。ただ、泉の水の力を使っただけじゃ」
「ど、どうすれば綺麗になるんだ!」
さとるは老人の肩を掴んだ。今日の予知が間違いなら大変なことになる。
さとるは藁をも掴む思いで老人にそう尋ねた。
「しばらく使わなければ元には戻る。だが・・・あんたには無理だろうな。努力を諦めてしまった者には哀れな末路しかない」
老人は肩を掴んでいるさとるの手を振り払い、そう言うと背を向けて曲がり角を曲がった。
「ま・・待ってくれ!」
さとるは慌てて追いかけて、老人が曲がった道を曲がった。
「あ、あれ?」
さとるは老人の姿が見えないことに驚いた。道は一方通行。家しかないこの道で、老人がどこかの家に入ることはない。
老人の速さならさとるは余裕で追いつけると思っていた。
「くそっ!今日の得意先への訪問をどうしてくれるんだよ」
壁を蹴って八つ当たりするさとるだが、それで状況が変わることはない。
「と、とにかく言ってみるか。予知が当たっているかもしれないしな」
老人の言葉を聞いてからさとるの胸中は、不安が押し寄せていた。
状況は悪い方へと向かっている、さとるは直感的にそう思っていた。しかし、それを頭の隅に押し寄せて重い足取りで得意先への家へと向かった。
さとるは定時で会社を出た。昨日までと違い、歩く足は重りをつけたかのようにゆっくりと歩いていた。
今朝、小瓶の水を使った予知は結果と違っていた。
予知に出たケーキを得意先に持っていくと、苦笑いしながら苦手だとさとるに告げた。商談も上手くいくことはなく、保留ということになった。
上司からは慰められたが、さとるの心が晴れることはなかった。
気づけば同期入社のあの男は会社を辞めていた。噂では別の業種に転職したと聞いていた。
老人の言う通り、間違った予知をしたということか。さとるはふとあることを思いつき、急ぎ足で駅に向かった。
さとるが向かったのは老人と出会ったあのアパートだった。
「あ、あれ?」
三か月前に来た時にはあったあのボロボロのアパートが姿形もなく消えて、空き地になっていた。
「あ、あのすみません」
さとるは通りすがりの子供連れの女性に声をかけた。
「はい?」
「ここに古いアパートがあったと思うんですが」
「ああ、半年前に取り壊されましたよ」
「は、半年前?!ほ、本当ですか?」
さとるは女性に詰め寄り鬼気迫る勢いで同じことを聞いた。
「え、ええ。入居者もいなかったですし・・・」
女性はさとるの顔が怖いのか、目を逸らしながら答えた。
「あ、す、すみません。ありがとうございました」
さとるは後ずさり、女性にお礼を言った。
「まま、あのおじちゃん変な人だね」
背後で母親に手を握って歩く子供が大きな声で喋っている声がさとるの耳に聞こえる。
「こら、麻耶!静かにしなさい!」
母親に諌められ子供は、大きな声で返事をした。
さとるは親子の後ろ姿をずっと眺めた。
かっての幼い自分と重なって見えたさとるは、このまま時が止まってしまえばいいと現実逃避したくなった。
もう一度アパートが建っていた跡地をさとるは見ても、変わらずそこには何も建っていなく空き地だけだった。
「じゃあ、俺が見たのは幻?」
さとるは懐に入れてある小瓶を出した。
小瓶は確かに存在しているのが幻でないことの証拠だった。
「どういうことだよ」
さとるは訳がわからず、とりあえず来た道を歩いていくことにした。
もう少しで駅に近くとさとるは気づいた時だった。
会社を出た時はまだ夕日が見えていた空は、真っ暗になり星が見える。
さとるが公園の横を通り過ぎようと歩いていた。
公園のベンチには子供と老人が座って、何やら空を眺めていた。
「わー、すごい。星が綺麗に見える」
「そのカメラで写真を撮れば、永遠に色あせることはないよ」
さとるは歩いていた足を止めて公園の中を凝視した。
子供とは別の老人の声に聞き覚えを感じた。
さとるは目を細めて公園の中にあるベンチに座っている二人を見た。
「あ!」
さとるはベンチに座っているのが、さとるが探していた老人だと気づいた。
「おじいさん!」
さとるは大声を出して老人を呼んだ。
「おやおや、あんたかい。運がいいのか悪いのか」
老人はさとるに気づくとそう声を漏らした。
「そんなことはどうでもいいんだ!あんた、他にも不思議な道具があるんだろ!貸してくれよ」
さとるは老人に近くなりそう懇願した。
「ぼうや、そのカメラはあげるからもうお帰り。お母さんが心配してるだろ」
老人はさとるの声を無視さして、隣にいる子供にそう声をかけた。
「うん!ありがとう、おじいちゃん!」
子供は老人にお礼を言うと、駆け出して公園を出て行った。
公園にはさとると老人だけが残った。
「あんた、あんな子供にまでおかしな道具を渡してるのか?」
さとるは子供が持っていたカメラが老人の私物だと気づいた。
「なあに、あれは害のない道具だ。移した写真は色あせることなく、撮影者の心にいつまでも残る。たとえ、呆けてしまったとしても・・あの子はもうじきここを引っ越すんだそうだ。どうしても写真に収めたいものがあると言って、あのカメラを譲った」
「あんた、いったい何者なんだ。おかしな道具をいくつも持っているし、あのアパートだってそうだ。半年前に壊されたアパートをどうやって建てたんだよ」
さとるは捲したてるように老人に質問した。
「その質問に答えられんが、目的は言えるのう」
「目的?」
さとるは、老人に出会う前に見たあの奇妙な看板を思い出した。
「不満を解消するって、俺は何も解消はされてねえ!」
さとるは怒鳴った。
「それはお前さんが自分の力で解決しなかったからじゃろ」
「え?」
「聞くが、お前さんは一度でも本気を出して仕事をしたか?小瓶の力に頼り、自分では何も動いていない」
老人に言われ、さとるは確かにそうだったと気づいた。
便利すぎる力に人形のように動かされていることに今更ながらに妙な感覚を覚えた。
「儂はな、あくまで道具を補助としてしか渡してはいない。女性と付き合いたなら、付き合うための努力をすべきじゃ」
さとるは何も言い返すことはできなかった。
「儂にはもうどうすることもできんのう。あとは自分の力で乗り切るしかないのう」
老人はそう言ってさとるを見上げた。
「無理だよ・・・俺にはできない」
さとるは項垂れるとそう呟いた。
「なら諦めるんじゃな。諦めずに頑張れば未来は変わる可能性があるかもしれんが」
老人は諭すようにさとるに向けてそう言った。
「それが・・・できたらこんなのに頼ってねえよ!」
老人は大きく被りを振ると立ち上がった。
「おい、どこに行くんだよ!」
老人はさとるの言葉など聞こえていないかのように、真っ直ぐに公園の入り口まで歩いていく。その歩き方は杖をついて歩いているとは思えないほど、背筋を真っ直ぐに伸ばして足をうごかしている。
ふと老人は公園の入り口に近づくと、顔だけをさとるの方向へと振り向かせた。
「青年よ、一つだけアドバイスをしよう。苦しくなった時には誰かを頼ってみることをしてみろ」
老人はそれだけ言うと今度は本当に公園から出て行った。
一人残されたさとるは、途方に暮れた。
翌日、上司から昨日の得意先への電話があったようで、担当を変えて欲しいと言われたそうだ。
さとるの後任は、今年入った新人社員。
今朝も試しに小瓶の水をさとるは使ったが、老人の言っていた汚れが影響してるのか洗面器に入れた水は何の反応もしなかった。
「はあ」
上司から暫く休暇を与えると言われた午前中。間もなくお昼休憩に入ろうとする時間のなか、さとるは一人会社の屋上にいた。
空を見上げたさとるは、なぜか無性に腹が立ってきた。自分の心とは反対に空は快晴。
悩んでいる自分にとって空は関係ないと言われているようで、さとるは拳を作って手前に見える雲に向かって殴ってみる。
「なにやって流のかな・・・俺」
空に向けた拳を振りほどくとさとるは、周囲に誰もいないことをいいことに床に寝転んだ。
上司から言われた休暇は、この会社では自主退職するか、会社から首を切られることを意味している。
さとるはこの先の人生を考えると憂鬱でしかなかった。
「昼寝?」
ふいにさとるの視界は暗くなり、代わりに人間の顔が眼前に見える。
「えっと、平野さんだっけ?」
さとるは半身だけ起き上がって、平野という女性社員を見た。
「へー、名前知ってたんだ」
平野は意外といった表情でさとるを見ると、隣に腰掛けた。
「握目くん、会社辞めるの?」
唐突に彼女はそう告げてきて、さとるは目を見開き驚いた顔で彼女を見た。
「な、なんで?」
さとるが驚いた理由は彼女とは部署が違うからだった。
「噂になってるよ」
さとるは噂と聞いて、気まずくなり彼女の視線を反らすように空を見上げた。
「みんな言ってるよ。せっかく仕事ができるようになってきたのにって」
慰めなのか、同情なのかさとるは彼女の真意が掴めなかった。
「ひ、平野さんは用があってきたんじゃないんですか?」
さとるは彼女にそう聞くが、彼女は笑ってはぐらかすだけだった。
ただ、彼女の笑顔を見た瞬間にさとるは心が暖かくなったように感じられた。
会社の女性社員の中では彼女は美人でもなく、不細工というわけでもない平凡なのだろう。ただ、特徴としてあるソバカスがあるだけだ。
「握目くん、私と同期だったこと覚えてる?」
「え?」
さとるはいきなり同期の話になり、心臓がドキリとした。
「ふふ、やっぱり覚えてないよね。でも、あの頃の君ってもっと明るかったよね」
さとるは段々と入社したときのことを思い出した。
まだ学生気分が抜けていなかったが、新人社員全員が受ける研修旅行でさとるは彼女を見た記憶が一瞬だけよぎった。
「あの頃はまだ、希望があったし、頑張れるって思っていたものね・・・それが今は同期はあなたと私だけよ」
そう半年、一年と同期入社した者たちはノルマに耐えられなくなって辞めていった。
ついこの間も仕事ができた神島という男が辞めた。
「ねえ、一緒に辞めちゃわない?」
「え?」
「あたしもさ、今の部署でお局さんに嫌がらせを受けてさ。上司は変に体を触ってくるし、もう最悪」
「でも、俺・・」
「なに、握目くんはここにいたいの?」
彼女は驚いた顔をしていたが、話す言葉には少し怒りを感じたようにさとるは思った。
「いや、辞めたとしても他の会社でも同じだろうし」
「そんなことないよ、最近なんか凄い頑張ってるじゃない」
彼女はさとるが落ちこぼれであることを気にしているのだと思い、そう声をかけた。
「い、いや、あれは俺の力じゃないんだ」
「え、そうなの?」
彼女はさとるの告白に今度は本当に驚いた表情を見せた。
「あ、ああ」
さとるは小瓶のことを彼女に言おうか悩んだ。言っても信じてもらえないだろうと思って黙っていようかと考えた。
しかし、平野という女性と少し会話しただけだか、さとるは何故か彼女なら自分の気持ちをわかってくれるのではとそんな考えが浮かび、話すことに決めた。
「実は・・・」
さとるは小瓶を取り出して彼女に老人のこと、小瓶の力で予知をしていたことを伝えた。
「へえー、凄いおじいさんね」
彼女はあっさりとさとるの話を信じた。
「疑わないのかい?」
流石にあっさりと信じてくれることは嬉しい反面、彼女の言葉に疑いを持ってしまう。
「え、そりゃ信じられないけどさ、ここ最近の君の活躍を見るとまんざら嘘でもないようにみえるし」
彼女は小瓶を手に色んな角度から見ては眺めた。
「だから、ここを辞めたとしても俺にはもう生きていく自信がないよ」
独り言のようにさとるは項垂れて呟く。
「それはどうかな」
彼女はそんなさとるを見ながら口を開いた。
「そのおじいさんは握目くんの不満を取り除くためにこれをあげたんでしょ?そして、自分の力で頑張れとも言った。ということは、君にはこんな道具がなくても仕事をやり遂げる力があるってことじゃないかな?」
彼女は真っ直ぐにさとるの顔を見てそう伝えた。
「でなきゃ、こんな道具をあげたりしないでしょ。この道具は道を開くきっかけを与えてくれるなら、もう一度だけ使ってみようよ」
彼女はさとるに小瓶を差し出した。
「無理だよ。もうその小瓶は使うことができないんだ」
なんど、小瓶の水を落としても妖精は現れなかった。
「そんなのわかんないわよ。あたしの家の掃除機なんか、壊れかかってもまた動くから買い換える時期をいつも逃してるのよ」
彼女は頬を膨らませてそう言う。
掃除機とは別の問題なのでは、とさとるは心の中でだけ思った。
「あ、そろそろ休憩時間川終わる」
彼女は左手首に付けている腕時計を見ると慌てた様子で喋った。
「じゃあ、結果がわかったら教えてね。それと私の名前は平野絢香。今度から覚えてね」
彼女はウインクをして、そのまま立ち去った。
さとるは最後に老人の言葉を思い出した。
「諦めずに・・・か」
さとるの視線の先にはあの小瓶があった。
「もうあとわずかで2017年となります」
街中の大型テレビに映るニュースキャスターはよろこひの声と共にカメラに向かって喋っている。
道行く人はみな、手に持っている小型のものを操作しながら歩いている。
「お待たせしました」
店員が店の外で待っていた男性に鮮やかな色の花束を差し出した。
「ああ、ありがとう」
男性は渋い声で店員にお礼を言った。
「奥様にプレゼントですか?」
「ああ、実は今日が結婚記念日でね」
「へー、大晦日にご結婚されたんですか!」
店員は男性とは随分年が離れた若者だったが、かっての妻を思い出した男性は、照れながら話を続けた。
「いや、式は挙げてないんだ。お互い会社を辞めてね。お金がないまま時が過ぎたことに気づいて・・・私は若い頃、仕事が上手くいかなくてね。その時に妻が励ましてくれたおかげで、こうして別の会社で定年を迎えることができたよ。だから、そのお礼を兼ねてもあるかな」
「きっと奥様もお喜びになられますよ」
店員は微笑み、男性は心から言っているのだろうと思った。
「ふっ、これで妻が喜ぶかどうか。娘も結婚して、お互いの時間をこれから過ごすことができるといいが」
男性は自信がないのか、花束を見て呟いた。
「おっと、こんな顔じゃ妻に怒られてしまうな」
「大丈夫です。その花言葉は、感謝を意味してます。お花が好きな奥様ならきっとわかってくださりますよ」
「君にそう言われると自信が少し湧いたよ。それじゃ、失礼するよ。良いお年を」
男性はそう言うと花束を抱えて歩いていった。
「またのご来店お待ちしております」
店員の言葉を耳に入れながら男性は駅へと歩いた。
ふとポケットに入れていた携帯電話の振動を感じ、男性は取り出した。
絢香。表示された画面を見て男性は電話に出た。
「ああ、どうした?え、ああわかった。これから家に帰るよ」
男性は二言三言話すと電話を切って、またポケットに仕舞った。
電車を待つ間、男性は懐から小瓶を取り出した。
男性の記憶にあった茶色くなった液体は、いまや見る影もなく淡い水色になっていた。
「いま、使ったらこれはどんな予知をしてくれるんだろうかな」
男性はそんなことを思って想像してみた。ふっと笑うと電車が来るアナウンスが聞こえ、男性は近くにあったゴミ箱にその小瓶を放り投げて捨てた。
「ありがとな」
男性はそう呟くと到着した電車に乗り込んだ。
男性が乗った電車が通り過ぎたとき、清掃スタッフがゴミ箱のほうに近寄り、中のゴミを集め始めた。
「ああ、すまんがのう。その小瓶を孫が間違えて捨ててしまったみたいでな、すまんがとってくれないかの」
清掃スタッフが顔を上げると杖をついた老人が立っていた。
「はあ、気をつけてくださいね」
清掃スタッフは気分を悪くしたわけでもなく、ゴミ袋から小瓶を取り出すと老人に渡した。
「すまないのう。これはとても珍しいから捨てられると困るんでなあ」
清掃スタッフは老人のそんな呟きを聞いてなく、黙々と作業を始めている。
「やれやれ、あちらこちらに不満の心が溜まっとる。あの男がいた頃はまだまだこんなものではなかったのにのう」
到着した電車から大勢の乗客が降り始め、人混みができた。
清掃スタッフはふと老人が気になり、その人混みを見たが老人の姿はなかった。
「あれ?」
老人の体ではとてもこの人混みの中を歩くことは難しいと思っていた清掃スタッフは、顔だけを左右に動かした。現に清掃スタッフはいろんな乗客と肩がぶつかったり、鞄があたっていたりする。
都内の特に乗客の乗り降りが激しい駅だけにゴミ箱の周りも狭くなっている。
それでも老人の姿は見えなかった。
清掃スタッフは訝しげながらも集めたゴミ袋を踏まれないように台座に乗せた。






