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MEMENTO MORI

花の名は

作者: 九JACK

 色は匂へど

 散りぬるを

 我が世誰そ

 常ならむ

 有為の奥山

 今日越えて

 浅き夢見じ

 酔ひもせず


 香りよく色美しく咲く花々も、やがては散っていってしまう。

 この世に生きる私たちとて例外なく、とこしえに生き続けられるものではない。

 けれど、この無常の、生きとし生けるもの全てが変わりゆく迷い深き道を、今乗り越えて、悟りの境地に至るなら、もう、儚い夢を見ることもなく、仮染めの世界に惑うこともない。

 安らかな心境に至れることだろう。




 ──いろは歌──


 涅槃経

『諸行無常、是正滅法、生滅滅己、寂滅為楽』を表す。








 まだ夏の色を微かに残す秋の始め。

 橘 悠斗は図書室の隣にある図書準備室の扉をからりと開けた。

 そこに人はいなく、少し埃っぽい、じめっとした空気が漂う。図書室の三島司書が、普段は使わない、古い本ばかりが納められた書庫のようなものだ、と言っていた。おそらく人が入らないためにあまり換気もされていないのだろう。

 戸を閉めて、薄暗い部屋を進み、窓を覆うカーテンを開けた。優しい橙色の陽光が射し込み、目映さに一瞬目を細める。

 外にはまだ緑色の銀杏の木と葉を散らした桜の木が立ち並ぶ。その足元に微かに薄紫が揺らめいていた。気持ちよさそうに風にそよいでいる。

 悠斗は窓を開けた。風がさわりと頬をなぜる。

 凪いだ風は部屋の古びたカレンダーを揺らす。長月──そういえば今日は九月九日だった。──そんなとりとめのないことを考え、悠斗はまた別の窓を開ける。

 夏の気が抜け、ほんのりと冷たい爽やかな風が、少し部屋の埃っぽさをさらってくれた。ふう、と悠斗は深く息を吐く。

 古い本の湿気を吸った匂いも、そう悪くはないが、やはり風通しはいいに越したことはない。

 部屋の窓を全て開ける。部屋の仕様上、窓は片側にしかないが、小さい部屋なため、風通しは充分だ。日差しもちょうどいい。夕方であるが、まだ日は高い。明かりは必要ないだろう。

「しかし、こうして見ると、壮観だな」

 悠斗は呟く。

 彼の前には本棚がずらり。立ち並ぶのはハードカバーばかりで、"古語辞典"だの"漢語辞典"といった辞書類から、"源氏物語"、"里見八犬伝"など有名どころの古典物語の数々である。ちらほらと"シェイクスピア戯曲集"や"グリム童話原文・解説"など洋物もまざっている。どれも正しく"古い本"であるのだろう。ハードカバーの端に少し積もった埃や、隙間から見える黄色く褪せた紙がそれを窺わせる。

 三島先生、こっちも掃除すんのかな、と考えながら、悠斗はふと、今日のこれまでの流れを思い返した。


 橘 悠斗は卓球部に所属している。二年生にして誰もが認めるエースだ。

その腕はたゆまぬ努力によって育まれたものであるが、馬鹿がつきそうなほど熱心すぎるため、今日は休めと部長命令を出された。

 休めと言われてすることがなくなった悠斗はふらふらと親友の柊 友人が所属する文芸部の活動場所である図書室に足を伸ばした。

 全国大会前でここのところ遅くなりがちだった悠斗は、久々に友人と帰ろうと思ったのだ。文芸部には後輩で彼女の桜 ほのかもいることだし、三人で帰るのもいいかな、と軽い気持ちで図書室に入ると──中は、戦場だった。

 いや、それは言い過ぎか。けれど、いつものまったりのんびり、文集作成時以外は駄弁るのが活動、みたいな文芸部の風景はなく、閲覧スペースを封鎖して、サボタージュ甚だしい図書委員の代わりに蔵書点検を行う二人と三島司書の姿があった。

 友人もほのかも、悠斗が入ってきたことに気づき、すぐ歓迎し、蔵書点検が終わり次第、一緒に帰ろう、と約束した。

 二人の負担を減らすべく、手伝いを申し出たのだが、悠斗が今日部長命令で休まされたことを聞き、二人から猛反発を食らった。困り果てた悠斗に三島司書が図書準備室で待っているといいよ、と案内され、今に至る。


 さて、と悠斗は本棚を見つめる。小難しそうな本ばかりだが、古典ものは嫌いではない。何を読もうか。

 悠斗が上からタイトルを確認していくと、ふと目に止まった本が一冊あった。

 その本はハードカバーではないようで、背表紙がなく、タイトルが確認できない。

 気になって取り出してみると、それは分厚い和綴じだった。丈夫そうな麻紐で綴じられたそれだが、ハードカバーに比べると、だいぶ脆そうに見える。しかし取り出してみると、不思議なことに他よりも色褪せておらず、むしろ鮮やかなまでに目映い黄色が瞳に飛び込んできた。

 比較的新しい本なのだろうか。タイトルは筆で"千歳日記"、行書で書かれたそれは古風に見えたが、花のように鮮やかな黄色、中の紙にも劣化した様子は見られない。ただ丁寧に施された和綴じの麻紐を少し持ち上げると、紐の跡が残っている。よくわからない。

 とりあえず悠斗はこのさぞかし綴じるのにてこずったであろう和綴じを読んでみることにした。

 表紙を一枚捲る。


「臈長けたる思ひをここに綴る」


 捲ったページにたった一言だけ書かれたそれに、悠斗はなんとなく、心惹かれた。

 涼風が、ふわりと舞った。


「千歳さま、今年も参りましたよ」


 涼風のようにりん、とした女の声が耳朶を打つ。悠斗は部屋を見回すが、他に人の姿はない。

「誰……?」

「ああ、そこな御仁、驚かせてしまいましたね」

 夏の終わりの幻かとも思えた声が、悠斗に応じる。悠斗はその人の姿を探してきょろきょろするばかりだ。

 すると、女は申し訳なさそうに言う。

「申し訳ありませぬ。私は声のみの存在にありまして。姿形はないのです。声のみで貴方と語らう無礼を、どうかお許しくださいまし」

「はあ」

 悠斗はいまいち理解しかねたが、真偽の確認をしようもない今は、女の言葉を信じるしかなかった。

 現実からぼんやりと離れた不思議な感覚に囚われるが、不気味ではない。むしろ涼風のような女の声を心地よくさえ感じる。悠斗は現実離れしたこの感覚にしばらく身を委ね、その人と会話をしてみることにした。

「俺、橘 悠斗。貴女は?」

「私は……名を持たぬのです。何せ、声のみの存在でございますから、それにこれまで、あの御方としか話したことがありませぬゆえ」

「そう」

 寂しげな色が声に混じる。まずいことを訊いたか、と思いつつ、このまま黙り込むのも気まずいと思ったので、悠斗は問いを連ねた。

「その"あの御方"ってどんな人?」

「あの方は優しい御方にございます。私はこの重陽の日にしか話せぬゆえ、年に一度しか会えませんでしたが、その逢瀬がいつも楽しみになるほどの面白い御方。……けれど、哀しい御方です」

 楽しげに千歳のことを語る声だったが、最後の一言だけ、水面に沈むように埋もれていった。

 彼女は沈んだ声で続ける。

「あの御方は、その御名に体を蝕まれ、千年を生きねばならないのです。人としての命数が尽きても、尚」

 風が揺れる。そこに乗った意志に導かれるように、悠斗は先刻、和綴じを取り出した方を見やる。

 分厚い和綴じが抜き取られ、ぽっかりとできた隙間に、あり得ない光景が広がっていた。

 漆塗りの焦げ茶色の本棚の奥には、絵というにはあまりにも生々しい菊園。その中に一人、えんじ色の着流しを着、黄色い菊たちに絡まれて磔状態で立つ青年がいた。ぐったりとして頭を垂れているため、その表情は窺い知れないが、苦悶を浮かべているに違いない。

 痛ましい光景に悠斗は息を飲むくらいしかできなかった。悠斗の視線に気づいてか、青年の肩がぴくりと跳ねる。それを許さぬように黄色い菊たちがその茎葉を蠢かし、青年に絡み付く。ぐ、と青年のか細い苦鳴が聞こえた気がした。

「あれが、千歳さま?」

 悠斗はその光景から目を引き剥がしながら、女に訊いた。女は静かにはい、と答える。

「あの御方は人の寿命を終えてから、真に千年の生を終えるまで、ああして囚われているのです。私と話なぞしたばかりに」

 女の声は今にも泣きそうだった。

 悠斗は女の言葉に違和感を感じる。

「この人は、貴女のせいでこうなったの?」

「わかりませぬ。けれど、人外の私に話などせねば、あの菊たちに魅入られることもなかったはずなのです」

「ふぅん……」

 素っ気ない声で応じつつ、悠斗はばらばらと"千歳日記"を眺めた。行書でつらつらと綴られたそれは、時折"重陽"、"あの声"、などという文字が滲んでいる。おそらく、これは菊に囚われた"千歳さま"が生前──人であった頃に綴ったものなのだろう。

 そんなことを考えながら読み耽っていると、再び女の声。

「橘さま、でしたね。貴方は様々な花に囲まれた御方。けれどどの花も、哀しいものばかり」

 語られた言葉にぎくりと悠斗は肩を跳ねさせる。

 女は続ける。

「追憶を表す御名の"橘"、君を忘れずを誓う"紫苑"、死者を思う鎮魂の"銀杏"──奥で揺らめく"桜"や"柊"は薄らいで、手を伸ばすにも尚遠く、叶わぬ恋と"黄色の菊"が唱えている……何故これほどまでに貴方の思う花は貴方を苛むのでしょう?」

 悠斗はずきずきと痛む胸を押さえた。

 柊──友人は唯一無二の友だった。けれど、友人は変わってしまって、悠斗が一番好きだった頃の友人はもういない。

 桜──桜 なのはは初恋の人で、けれど彼女は友人のことが好きなのだ、と言っていた。今は亡き彼女の面影を彼女の妹であるほのかに求めてしまう自分が辛い。

 銀杏──宮城 神楽と交わした約束の葉。互いの"長寿"を願ったはずなのに、翌日には"鎮魂"の葉へと変わっていた。

 紫苑は、全てを忘れないという誓いの花。悠斗にとって、かけがえのない花だ。

 全てを言い当てられ、悠斗は一瞬息の止まる思いがした。呼吸を思い出した心臓がばくばくと脈打つ。

 涼風が再び悠斗の頬を凪ぐ。先刻より、ぞわりと寒気がした。変な汗をかいていた。

「橘さま、辛いことを一人抱えるのは良くありませぬ。私がお聞きしますゆえ、話してくださいませぬか?」

「いや、でも」

 悠斗が反論を募る前に、声はこう繋いだ。

「代わり、あの御方をお助けください」


 女は懇願した。

「あの人と、会わせてくださいまし。私はいつも、あの人とお話することだけをよすがに声のみなりても生きているのです。今日の重陽、一時のみでもかまいませぬ。会わせて、ください……」

 声は涙に滲んでいた。

 重陽。そういえば、五節句の一つにあった。今日は九月九日。奇数が重なる今日は重陽の節句だったか。

 年に一度しか会えないなんて、七夕じゃないんだから、と少しずれたことを考えながら、悠斗は頷いた。

 俺が抱える恋や願いはもう二度と叶わないものだけれど、菊園の千歳さまはおそらく生きている。この女声の逢瀬の願いは千歳さまが目を覚ませば、叶うだろう。──叶う願いなら、叶えたい。

 桜、神楽──思いを伝えられずに死んでいく人を見るのは、もう嫌だ。

「多分、これはその人が書いた日記だろうから、ここに何か手掛かりがあるかもしれない」

 悠斗はつらつらと紡がれる行書の文字列をざっと読み解いていく。あまり難しい古文ではない。わからないのは今のところ、最初の"臈長けたる思ひ"くらいだ。

「ありがとうございます。橘さま。──貴方のお話も、お聞かせください」

「うん」

 窓から流れた涼風が、悠斗の頬をなぜた。

 悠斗は語った。これまでのことを。


 かつて、ある噂から、自分はいじめられるようになった。そのいじめは次第にエスカレートし、唯一自分を救おうとしてくれた人を傷つけ、なくしてしまった。

 その後、出会ったのが自分と同じ音の名を持つ友人だった。彼もいじめに遭っていて、出会ってからは互いをよすがに生きてきた。

 少し遠くの街の学校に通うことにした自分と友人は桜 なのはという少女に出会う。友人の方はどうだったか知らないが、自分は次第に彼女に惹かれていった。

 けれど、彼女が思いを寄せたのは、友人の方だった。自分はそれを相談事として彼女の口から聞いた。

 告白も何もする前にその恋は破れた。

 それでも、その子のことを忘れられずにいるのは、彼女が死んでしまったから。

 不器用だった友人は自分が投げた心ない言葉のせいだと嘆き、その辛さを忘れようと、心を壊した。

 友人が心を壊すほどに苦しんでいるのはよくわかった。けれど自分は彼を詰ることしかできなくて……その償いのつもりで、あの子と、心壊れる前の友人を、忘れないと誓った。

 本当にもう二度と叶わない恋だと知っても、自分に彼女を忘れることはできない。きっと、それでは幸せになることはできない。けれど、自分のことはどうでもよかった。

 友人が、幸せなら。

 友人の存在は自分に残されたたった一つのよすがだった。だから、彼女を、桜を忘れようとするあいつを詰りながらも、俺はあいつが解放されることを、元の出会った頃のあいつに戻れることを願っていたかった。

 けれど、あいつは再び心を壊した。桜の妹のほのかが現れたことによって。

 ぎりぎりのか細い糸で繋がれていた友人は消えた。

 俺の知っていた、会いたかった友人は消えた。

 友人は生きているけれど変わってしまって、俺は、もう二度とあの友人には会えない。

 俺の夢は、何一つ叶わない。


「でもさ、誰かのために何かができるなら、俺の生きている意味ってまだあるんじゃない? 桜を忘れずに生きていることは桜を生かすことにならない? そう思いながら、色々なことにすがって、俺は生きているんだ」

 卓球を必死にやることだってそう。桜を忘れないため。それが、部員の人のためになるなら、一石二鳥ってもんだ。

「俺は、いいんだよ」


 女は悠斗の話す間、一言も声を発さず、黙って話を聞いていた。姿形のない不確かな存在なのに、窓から流れる涼風の中に彼女を感じられる気がした。

「何も、言わないの?」

「何か、言うてほしいのでございますか?」

 なんとなく発した問いの答えに悠斗はゆるゆると首を横に振る。

 目を通していた和綴じを一旦閉じ、悠斗は棚から古語辞典を引っ張り出す。

「人を思い続けるのも、叶わぬ恋を秘めているのも、その人を忘れないことも、心を苛む哀しい思い出を抱えながら、死者を弔うのも、全て大事なことなんです。俺にとっては、大切にしたいことなんだ」

 探し求める言葉を目で追いながら、女に言う。

 紫苑の花に捧げた誓いは揺るがない。

 女は何も言わない。涼風だけが場を漂う。

「本当、何も言わないんだね」

「私にできるのは、聞くことだけですから。何を言っても貴方の誓いが変わるわけでも、あの御方が解き放たれるわけでもございませんでしょう?」

「……そうかな」

「他に、何もできないのです」

 女の哀しげな声に悠斗はぱたりと古語辞典を閉じた。

「そうでもないと思うよ」

 悠斗は虚空ににこりと微笑んだ。


「わかりました。どうすれば、彼が目覚めるか」

 悠斗はにこりと虚空に微笑み、言った。姿形を持たない女に果たして見えているかはさておき。

「まことでございますか?」

「はい。これからそれをお話ししましょう」

 悠斗はぱらりと"千歳日記"を開いた。


「私は名に呪詛をかけられた。故に、"千歳"の名を持つ私は千年に生きねばならぬ。人として命尽きたとしても、天に逝くことも地に堕つことも許されぬ」

「千年とは、どれほど永い刻なのか、私にはとんと見当もつかぬ。千年という刻で、時代がどれほど変わったか、学んだことがある。武士という存在が生まれ、栄え、滅ぶまでに千年を費やしたと聞く」

「恐ろしい、恐ろしい。人は百年の半分も生きられぬものだ。私は人の生などでは計り知れないほどの永きを、一人で生きねばならぬのか」

「孤独が、恐ろしい」

「私が私の性を知り、恐ろしさに打ち震えたある長月の夜、その声は聞こえた」

「凛、とするその女性の声は私の身を飲みかけた恐怖を祓ってくれた」

「陽の重なる日のみしか逢瀬は叶わぬし、姿形もない。現か幻か、判断もつかぬような彼女だったが、私は千年を生くことなど、怖くなくなった」


 "千歳日記"の一説を悠斗は読み上げる。聞くだけの女は声を殺して涙しているようだった。

「彼にどんな事情があったかは俺にはわかりかねますがね、貴女は彼の救いだった。重陽にしか叶わない逢瀬でも、彼は呪いから救われていたのです。それだけでも、貴女がここにいることに意味があると思いませんか?」

「ええ、ええ」

 涙まじりの答えに悠斗は再び和綴じに目を落とす。ばらばらとまた頁を捲り、朗読した。


「嗚呼、葉月になると松笠が恋しい。松笠の一声だけで、私の心は冴え渡り、満たされる。あらぬはずの姿さえ見えそうなほど、目が覚める」


「そういえば、あの御方は昔、そのようなことを呟いておりましたね」

 女の声が、朗々と読み上げた悠斗に応じる。

「もしや、その松笠とやらを見つければ、あの御方は」

 女の声に明るみが差す。

 悠斗は苦笑いで自分の推論を述べた。

「松笠、というのは、俺の知識が正しければ、松笠風鈴のことでしょう」

「風鈴、でございますか?」

 涼風のような声が疑問符を浮かべる。小首を傾げる愛らしい姿が幻視できるような心地がして、悠斗は笑みを深めていく。

「私はてっきり、松が風に揺れる音だと思うておりました」

「はい、風鈴です。松笠風鈴は数ある風鈴の中でも名器と謳われたものだと聞きます。ただ、現在は作り手が少なくなり、松笠風鈴自体が失われつつありますね」

「なんと……」

 女の声の語尾が震える。

「そうなのですか。ああ、ではどうしましょう。松笠という名器の音なら、あの御方を起こせるかもしれないとわかったのに。貴方にここまで教えていただいたのに、あの御方には、届かないのですね」

 女の哀しげな声を聞きながら、悠斗はぱたりと日記を閉じ、再び表紙を捲る。

「臈長けたる思ひをここに綴る」

 悠斗はその一文を読み上げ、深く一息、目を閉じ、推測にすぎませんが、と告げる。

「"臈長けたる思ひ"。これは黄色い菊の花言葉です。黄色い菊には他にも"叶わぬ恋"、"僅かな愛"など哀しい言葉ばかりです。それに連なる"臈長けたる思い"とは、果たして同じく哀しい言葉なのでしょうか? 俺には耳慣れない言葉でしたので、調べてみました」

 そこで悠斗は辞書をばらりと開き、該当箇所を示す。

「"臈長ける"──美しく、気品のあるさま。または経験を積み重ね、洗練されていること。元は"臈長く"という動詞に助動詞の"たり"がついたものが"臈長けたり"でしょう。そこに"思ひ"がついて"臈長けたる思ひ"──長年積み重ね、洗練された思い。これはどう考えても悪い意味には捉えられません。そしてここに綴られたのは"思ひ"。思いとは、誰かに向けられるものだと俺は思います。ねぇ、すゞかさん」



 女が息を飲むのがわかった。

 一時の沈黙の後、女が口を開く。

「すゞかとは、私の名ですか?」

「はい」

 答える悠斗の口元には明るい笑み。しかし女は苦いものを滲ませ、言う。

「私に名なぞありませぬ。あっても誰が呼ぶのでしょう」

「それは、彼ですよ」

 悠斗は和綴じのあった隙間に見える菊園に目をやる。そこには相変わらず磔状態の千歳さまの姿があった。

「何故そうと?」

 訝しげに女──すゞかが問う。悠斗はゆったりとした所作で和綴じの頁を捲った。裏表紙の一ページ手前だ。

 そこにはただ一言。


「すゞかへ」


「贈りたかったんですよ。名もなき貴女に貴女だけの名前を」

 すゞかは黙ったままだが、悠斗は続ける。

「この人はなかなか気障な人だ。やたら比喩を使う。俺が松笠風鈴を知らなかったら、貴女に一生届かなかったでしょうに」

 ──なんだか、とても泣きたい気分だ。この気持ちに覚えがある。高校に入ってから、桜はお前のことが好きだったんだよ、と友人に教えたときに感じたものと一緒だ。俺はいつも、誰かに誰かの思いを伝えるためにいる。それがこんなに嬉しくて、苦しい。

 零れそうな嗚咽をこらえ、悠斗はすゞかに言葉を紡ぐ。

「風鈴を、鳴らすのは、何ですか? すゞかさん」

 さわっ、と部屋の風がそよいだ。

「すずか、ぜ……涼風にございます」

「そのとおり」

 もう、先はわかるでしょう? と悠斗は続けた。

「貴女が、貴女のその声で、彼の名を呼べば、彼はきっと目を覚まします。そういうこと、なんですよ」

 そより、と風が動いた。本棚の合間にぽっかり空いた菊園に吹きだまっているように思えた。


「千歳さま、千歳さま。私にございます。お迎えに上がりました」

「ああ……ああ、重陽の君、涼風の君、来てくれたのか、すゞか」


 さて、と悠斗は扉へと足を向ける。好き合うものたちの貴重な逢瀬を邪魔立てする趣味はない。そろそろ友人たちの蔵書点検も終わる頃だろう、などと考えて扉に手をかける。


「橘さま」


 悠斗を呼び止める、涼風のような声がした。悠斗が足を止め、振り向くと。

 ぶわり。

 一面の黄色い菊園。香り高く、美しい、その景色の向こう側に、二人の人影があった。一人はえんじ色の着流しを身に纏った精悍な面差しの青年。その隣に紺地に黄色い菊柄の着物を纏い、艶やかな黒髪に橘をあしらった飾りをつけた美しい女性が立っていた。

「有難うございました。貴方のおかげで私は千歳さまにまた会えた」

「有難う。君のおかげで漸く彼女に思いを贈ることができた」

 二人の男女──すゞかと千歳は口々に礼を述べる。

 すゞかはふと、髪の橘に触れ、黒曜の瞳で悠斗を真っ直ぐ見つめ、言った。

「貴方のことは、忘れません。この花橘にかけて」

 橘の花言葉は"追憶"。その意を察し、悠斗はにこやかに頷いた。

「俺も、忘れない──貴方たちを、忘れません」

 それは紫苑の花言葉。紫苑もまたもう一つ"追憶"の花言葉を持つ。

 だから、俺はその言葉にかけて。


「ありがとう」


 呟くと、二人も菊園も最初からなかったかのように消え去り、窓の開け放たれた図書準備室に一人、悠斗は立っていた。

 この出来事は眩しいほどに重なり合った陽光が見せた幻だったのだろうか。──いや。

 悠斗は机の上に置かれた一冊の和綴じを手に取り、本棚に戻す。本棚の向こう側には漆塗りで焦げ茶色に染められただけの光景。

 そこに悠斗は一つ微笑み、幸せに、と呟いた。






 愛し君

 橘の実に

 消ゆれども

 紫苑の花にぞ

 誓ひたるなり


 この恋が

 黄色菊花と

 言はれども

 臈長けし思い

 消ゆることなし




「君を忘れじ」




 秋の日には、きっと君を想うよ──





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― 新着の感想 ―
[一言]  読みました。執筆お疲れ様です。  不思議な男女の逢瀬が、第三者である主人公の視点から美しく描き出された物語だと思いました。千歳さまを目覚めさせる謎解きや、声だけの彼女の名前が出てくるなど、…
2015/09/09 21:31 退会済み
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