俺待ち日和
透明な壁の向こうを行き交う人々をぼんやりと眺めながら、志穂は小さく息をついた。
休日の昼下がり、待ち合わせに指定されたカフェは、秘密基地のように分かりづらい入口のせいか、外の喧騒を忘れさせる程度に、ゆったりとした時間が流れている。心地よいボサノバに包まれて、志穂は冷めた珈琲に口づけた。
「志穂!ごめん!遅くなった!」
カラン、と軽やかなドアベルの音色を掻き消すような騒がしい声が店内に響く。近づく店員に注文しつつ、志穂のもとへ駆け寄るその姿に、軽く眉を顰めた。
「けいちゃん、声でかいってば」
「やー走ってきたから、つい勢いでなぁ」
これ以上、一分一秒たりとも、志穂を待たせるわけにもいかないだろ?
邪気のない笑顔を浮かべながらネクタイを緩める啓介に、一瞬、口ごもる。
「じゃ、この珈琲は奢ってね」
苦し紛れに吐き出した志穂の言葉に、啓介はまたあの笑顔で頷くのだった。
啓介とは大学のサークルで知り合った。食べ歩き同好会は、その名の通り、あちらこちらへ出かけては、ありとあらゆる美味しいものを食べることが大好きな人間の集まりだ。志穂と啓介は、そのサークルきっての、大食いだった。食べても食べても、まだ美味しそうに食べる二人に周囲が呆れた目をするのもいつものことで。
卒業して、お互い就職してからも、こうやって待ち合わせては、食べ歩きをしている。大学の頃から、二人で連れ立っていたので、それはとても自然な流れだったと思う。
啓介は大ざっぱで、鈍くて、でも、底なしに優しい。いいヤツだと、志穂は思っている。
「ご注文のオムライスです」
向かい合う二人の間に置かれたオムライスは、見るからにふわふわで、トマトソースの香りが鼻腔をくすぐって、たまらない。啓介と志穂は目を合わせて、にやりと笑う。
「「いただきます」」
スプーンを突き刺すと、とろりと半熟の卵がチキンライスに流れて、それをトマトソースと絡めながら、口いっぱいに含む。掬っては、口へ。
「うまいなぁ、ここのオムライスはやっぱ最高だ」
幸せそうにオムライスを平らげていく啓介に、志穂は少し迷って、結局スプーンを皿に置いた。
食事を中断した志穂に、啓介は不思議そうに首を傾ける。
「なんか食ってきたの?」
「確かに肉まんは食べてきたけど、そうでなくて」
「俺も今朝ピザまん食べてから仕事行ったよ」
「啓介ピザまん派だったね昔から…いやあのさ」
「ん?」
オムライスを咀嚼しながら、上目に志穂を見上げる啓介を一瞥し、テーブルの上のオムライスを見つめる。
「職場の先輩にね、プロポーズされた」
言った。言えた~。
ちょっとした達成感とともに、ゆっくりと視線を上げると、ぽかんと口を開けて目を点にしながら志穂を見つめる啓介がいた。
志穂の視線に気づいて、わたわたとスプーンを置く啓介がおかしくて、小さく笑う。だって、あまりにも予想通りだったのだ。
大学の頃から、今までの数年間。お互いに相手がいたりいなかったり。度々、お互いの相手に冷たい目で見られたり。それでも、なんだかんだで、今でもこうやって一緒にいるのは、二人の相性があまりにも良いのだろう。落ち着くのだ。
そして、お互いの相手ができたと知る度に、二人とも呆けた顔をするのである。最初に啓介にこの反応を見せられたときは、わざとらしいと笑ったが、その数週間後には志穂と同じ表情をとることになった。
相手がいてもいなくても、結局一緒にいるのだから、相手の有無に一々反応せずともよいのではないかと、思うのだけど、どうしてもそうなる。もしかしたら、少し怖いのかもしれない。今度こそ、二人の時間がなくなってしまうのではないかと、そんな恐れがあるのかもしれない。
そして、今回の話はそんな危惧が具現化したに等しかった。
「あれ…?志穂今、付き合ってたっけ?」
「ううん。結婚前提にってかんじ」
「あぁ、なるほど…」
啓介のオムライスも、志穂のオムライスも、先ほどからちっともその姿を変えない。どこかぼんやりとした表情の啓介を、志穂はじっと見つめていた。
「で、返事はもうしたのか?」
「うん」
そうか、と啓介が呟いた。
「おめでとう、志穂」
笑顔を浮かべて、志穂を見やるその視線は、気のせいでなければ少し寂しげで。今生の別れでもないのに、こんな顔を見せるのは、啓介も自分と同じような気持ちでいたのかもしれないと、志穂は口元を歪めた。
啓介は再びオムライスを口に運びはじめている。つられて、志穂もスプーンを手に取ると、啓介の手もとが止まっているた。
「志穂」
啓介の呼びかけに、志穂も顔を上げて啓介を見つめる。
「幸せに、してやれよ」
頷く志穂に、満足げに啓介は笑う。そしてお前も幸せになれよ。
優しい声だった。
照れくさくて、オムライスをかき込む志穂を啓介はまた笑う。
「嫁さんの手料理、そのうち俺にも食わせろな」
咳き込む親友に、啓介はまた笑うのだった。