噂のピアノを訪ねて
放課後、ある女性があるピアノの前に立っていた。
そのあるピアノにはある噂があった。
そのある噂というのは…
『第二音楽室のピアノで願いを込めながら弾くとその願いが叶う。』
ある女性は、その噂を信じ、この場に足を踏み入れたのである。
ーーー……. . .
ーポロン…
鍵盤においた左手の人差し指を真っ直ぐしたにおろすと、優しげな音が音楽室内に響く。
首にかけた"来客者"と書かれたカードが、今のあたしの肩書きを現していた。
約一年前、ここを卒業したあたしの肩書きを。
「一年間…か。」
ピアノから離れ、窓にゆっくりと近づく。
グランドでは野球部やサッカー部が汗を流しながら真剣な目をしている男子生徒たちが大きな声を出していた。
窓の横の壁によりかかると、ぼーっと考え事をする。
この一年…色々なことがあった。
そして、あることを境に周囲は驚くほど優しくなった。
そうまるで…腫れ物に触れるかのように。
自分の包帯がなくなった右手に視線を移すと、左手より明らかに白い肌が見える。
以前と変わらぬように見える右手は、決して以前と同じようには動かない。
…女子高生シンガーソングライターとしてYuMeNo【ゆめの】としてデビューしたあの頃と同じようには。
「はは…」
乾いた笑いが誰もいない音楽室に響いた。
あの噂を信じてきた…なんて馬鹿みたい。
壁に背中を擦り付けるように床までさがって、体育座りをし、顔を足にうずめた。
あの噂には続きがあると知りながら、捨てることのできない夢を追いかけているのだ、私は。
『ただし、自作の曲の中で最も得意な曲を弾き語りしながら、一曲フルで歌うこと。』
…この条件を満たすことはできない。
私にとっては、酷なものでしかない。
事故にあったこの右手が、以前と同じようには動かないということをただただ実感させられるだけの行為だからである。
そして、あの頃のように弾くことがてきない曲を歌うのが怖いのだ。
ギュッと唇を噛みしめる。
あのとき、あの場所にいなければ…と何度考えればいいのだろう?
何度後悔すれば前を向けるようになるのだろうか?
ピアノを以前のようには弾けなくないと言われた時も、事故にあった時も涙なんて一滴も流れなかった。
…あぁ、そうか。
以前のようには弾けない、と言われてからピアノを弾いていないからだ。
言われた言葉を鵜呑みにして、自分で確かめていないからだ。
ふらりと立ち上がり、ピアノの前に座る。
ふわり、と触れた鍵盤は柔らかく感じた。
この感触が好きだ。
ピアノを触ることだけでも、好きだ。
ーポロロロン…
ドレミ、と流れて弾くのを合図に、初めて自分で作った"YumeHappiness"を弾き始めた。
《ありがとう、と
流した涙を覚えてますか?
貴方はいつも笑顔ばかりなのに
私はずっと泣いてたね
だいすき、と
笑いあった頃を覚えてますか?
貴方の隣、私の特等席だったのに
今はどこに消えたのでしょう?
私よりも大人な貴方は
私よりも早くに天国に行ってしまった
優しい笑顔をもっともっと
見ていたかったのに》
ゆったりとしたバラード曲。
おばあちゃんを想って書いた曲。
それを歌いながら、弾く。
このことがどれだけ楽しいのか、私に再び教えてくれた。
手は予想とは全く別に軽々と動いてくれていた。
これなら、いける…!!
サビは他のところに比べ、手がたくさん動かなければならないけれど、本当に軽かったから、動くと…思った、のに…。
音が…止まってしまった。
激しく動かそうとした瞬間、右手が動かなくなったのだ。
「ッッ…!!」
あぁ、やっぱり…
動かないんだ。
勢い良く自らの手を鍵盤に叩きつけた。
不協和音が大音量で鳴り響く。
すると突然視界がゆがんだ。
ーぽたっ…
ピアノの鍵盤に、雫が落ちた。
「…っ、」
実感、させられたんだ。
以前と同じようには弾けないのだと。
分かってしまったんだ。
心も、体も、理解してしまったんだ。
だから…
涙がこぼれ落ちてるのでしょう?
零れ落ちる涙を堪えることはせず、曲の続きを歌った。
伴奏はいらない。
ただ…一番だけでもいいから最後まで歌いたかった。
《優しい貴方に
もう一度会えたなら
笑顔で話をしたい
貴方と離れていた間の話
たくさんしようか
寂しい想いも悲しい想いも
たくさんしたけれど
今私は…幸せ、です》
涙声で歌声になってないところがあっても、それでもサビを歌い切りたかった。
幸せだと、嘘でも言いたかった。
歌い終われば…噂も有効なんじゃないかな?なんて思ったけど…ありえない、よね。
グスッと鼻を勢い良くすすってピアノの椅子から立ち上がった。
ゴシッと服の袖で涙を拭って、第二音楽室を後にしたー…
《ありがとう、と
流した涙を覚えてますか?
貴方はいつも笑顔ばかりなのに
私はずっと泣いてたね
だいすき、と
笑いあった頃を覚えてますか?
貴方の隣、私の特等席だったのに
今はどこに消えたのでしょう?
私よりも大人な貴方は
私よりも早くに天国に行ってしまった
優しい笑顔をもっともっと
見ていたかったのに
優しい貴方に
もう一度会えたなら
笑顔で話をしたい
貴方と離れていた間の話
たくさんしようか
寂しい想いも悲しい想いも
たくさんしたけれど
今私は…幸せ、です》
これは、YuMeNoの初めての作詞作曲した曲として話の中で出てきた歌詞です。
"貴方"をあえて祖母設定にしたのは、恋愛にもっていきたくなかったからだったりします。
"貴方"が忘れられない恋人という設定だと、恋愛物語な気がしてならないんです。
今回は終わり方をあえて曖昧にして見ました。
YuMeNoがこのあとどうなるのか…
読んでくださった方が想像していただければ光栄に思います。