永久と主
我=一人称
汝=二人称
彼女は自分が疲れていることに気が付いた。
天地を繕い、人を創り ―― ずいぶん刻が過ぎたのではなかったか。
霧が縁取る水鏡の向こうには、世のあちこちが僅かずつ時をおきながら映し出され続けている。
それを見守り続けてもうどれくらい経ったものか。
ぐっと腰に力を入れて、軽く肩を開き背を反らす。
顎を上げて小さく息を吐くと、それはふんわりと纏まって雲になった。
その雲を手に取り、両の掌で包んで軽く捏ねる。
掌を解くと、そこには小さな仔猫が居た。
まだ開かない目を彼女の方へと向けると、それは小さく「みい」と鳴いた。
「佳い仔じゃの。汝は我の膝を温めよ」
その声に可憐を感じた彼女は、目を細めながら玉座に腰掛け、膝の上に仔猫を乗せた。
ごく小さな温もりを認めてから、彼女はその目をゆっくりと瞑った。
身動ぎすると、膝の上の温もりもそれに合わせて揺れる。
何を置いたか ―― 思い出す前に目を開けると、紅く丸い瞳が見上げていた。
「おお。大きゅうなったの」
雲を捏ねたのが夜明け前だったせいか、瞳の持ち主 ―― まどろみに身を委ねる前には仔猫だったはずのそれ ―― の体は、紫がかった艶を帯びた漆黒に見えた。
しなやかな四肢を揃えて座ると、興味深げに彼女を見上げた瞳が光る。
―― この瞳の色は何に似ているのだろう……どこで見た色だろうか。
視線を真正面に受けながら、彼女は考えた。
「にあ」
仔猫の頃の声を幾分残した声で、今はもう成猫となったそれが一声鳴いた。
「うむ。まだ眠くての。今しばらく眠らぬか」
丸い背の艶に手を滑らすと、喉を鳴らす音がした。
それ以上、背を撫でてはくれないことがわかると、猫は彼女の膝の上で丸まった。
くたくたと体を丸めて、最後に長い尻尾を体の外周に沿わせる。
おやすみと言うかのように尻尾の先がぱたりと揺れて、それに応えて彼女もまた目を瞑った。
―― 永久という名はどうだろう。永く、永く……傍に……居るように……。
次はそう呼びかけようと思いながら、彼女はまた深い眠りについた。
再び玉座の上で彼女が目を覚ました時。
膝の上を占める温もりは、一回り大きくなっていた。
彼女の目覚めに合わせてゆっくりと首を巡らすと、微かに微笑みを浮かべて、言う。
「お目覚めか?」
それでもどこか仔猫の頃の声が残っているように思えて、彼女もまた微笑む。
「うむ。よく眠った。汝がそこに居てくれたからじゃな」
「お膝を温めるのが我のお役目なれば」
言葉のわりに、くい、と顎を上げて得意気なのがまた彼女の苦笑をも誘う。
滑らかな丸い背を撫でてやると、2本の尾がゆらゆらと揺れた。
「すっかり大人になったの」
「女媧様のお話相手にもなりますればと、急いで大きゅうなりました」
「……そうか。それは有難いことだの」
努力でどうこうできるはずもなく、刻の流れのせいであろうとは、思っても言わずにおいた。
自身が喋れるようになってから彼女が目覚めるまでの間、誰と話す機会もないままに、拙くも彼女と言葉を交わそうと努める姿勢がまた愛らしく思えて、彼女は猫の背をしばらく撫で続けた。
ごろごろと機嫌良く喉を鳴らしながら、猫は満足そうに目を瞑っていた。
「永久、と……」
「……トワ?」
「うむ。汝を今より永久と呼ぼう。その名のままに、永久に我の傍に居れ」
「トワ? トワ!」
嬉しげに何度も自分の名を繰り返し口にする永久を、彼女もまた嬉しく見つめていた。
以来、彼女 ―― 女媧の足元には、いつでもどこにでも永久が付き従うようになっていた。
神妙な表情で、1本ではない数の尾を立て、女媧の歩みに合わせて前になり後ろになりして主を見上げながら。
その随身ぶりは女媧の身の回りの世話をする宮女たちが、感心を通り越して呆れるほどであった。
「永久がそんなに頑張ることもないのよ」
「何かあったら女媧様が何とかなさるわ」
宮女たちがそう声をかけても、言い聞かせても、永久は女媧の足元から離れることはなかった。
創造神の中でも唯一の女神である女媧の宮殿 ―― 金鎖宮 ―― には、宮女しか仕えていない。
普通、どこの宮殿にも散見する衛士と呼ぶべく武装した警護兵は、この宮殿の主の意向で置かないことになっている。
曰く、
「大事が起これば、汝等はまず逃げよ。我の宮に何事もあるはずが無い。あってしまえば誰の手にも余ろうよ。なれば、そんなことに相対しようとするだけ無駄じゃ。よいな? まずその身を守るがよい。逃げよ」
とのことで、参内したての宮女は大抵驚くが、金鎖宮で日々を過ごすうちに ―― つまり、主である女媧に対する理解が深まると、その意向にも納得がいくようになるのであった。
重ねて訊ねたことのある宮女が居て、その折の女媧の表情は、極めて不思議そうだったとのことである。
「無粋な形を日々目にしておると、どういうわけか殺伐とした気分にもなるものではないか? 我には無用の感情であるしな。我が宮の者等にも要らぬであろう。置かぬよ」
永久とその主である女媧が暮らす宮殿は、そういった場所であった。