海の怪物
「よう、旦那。何のようだぶるぁあ!!」
派手に転がるビスマルク。もしかして舌を噛んだだろうかと、椅子から転げ落ちた彼を見下ろす。
「お、おめぇ、いきなり何しやがんだ!! 殴られるようなこたあ、まだしてねえぞ!」
崩れ落ちた姿勢のまま非難の言葉を発するビスマルク。まだという事はこれからする気なのかと、訝しむ目で彼を見る。
「思い出したんだ。お前フレアにろくでもない事を吹き込んだろう」
そう言ってやると、ビスマルクは若干の間考えるそぶりを見せる。やがて思い当たる節があったのか、げっはっはと下品な笑い声を上げる。
「本気にしたのかあのお嬢ちゃんは。初心だねぇ。いいじゃねえか。おめぇさんも良いもん手に入ったんだしよ」
もう一度小突いてやろうかと振り向くと、「おぉ、こわいこわい」と椅子の後ろに隠れるビスマルク。もちろん彼の巨体が椅子の範囲に収まるはずもなく、隠れるというよりは盾にしているかのようだ。
――なんだ?
ふと視線を感じ、目を窓へと向ける。
見えるのは晴れ渡る空と、旋回している海鳥と思われる鳥の影。
「気のせいか…………いや、やはり気になるな」
直感というのは己の命を救う武器として、非常に有効な事を知っている。張り出した船尾楼の窓は水面からかなりの高さにあり、さすがにいたずらの類では無い。
「上へ行ってくる」と声を掛けると、船長室を抜けて船尾楼の上。後部甲板へと階段を登る。放り出されないように縁をしっかり掴むと、乗り出して下を伺う。
「……ふむ。不安が幻を見せたかね」
何も無い黒い水面を覗き込み、ひとりごちる。
踵を返し、近くにいた水夫に異常は無いかを尋ねる。水夫は敬礼と共に「異常ありません!」と元気な声を発し、すぐさま清掃作業へと戻って行く。
「どうしたい旦那。サイレンの声でも聴いたかい」
ビスマルクが巨体を揺らしながら甲板へと昇ってくる。こちらの世界にもサイレン。いわゆるセイレーンがいるのかと驚きながら、「なんでもないさ」とかぶりを振る。
「まあ、こうも陸と離れちゃ不安にもならあよ。気にするこたねえぜ。俺も初めての時はそうだったからな」
ビスマルクの慰めの声に「そうだな」と薄く笑い返すと、水平線の先へと目を向ける。既に陸が見えなくなってから久しく、どこをどう見ても見えるのは海、空、雲、太陽。そして鳥と縦走する三隻の船。これ以外の情報は存在しない。
「しかしおめぇ。本当にいい船だと思わねえか。流れるような体にどでかいケツ。最高にいい女だぜ」
後部甲板から船全体を見下ろしてビスマルク。釣られるようにして視線を向けると、甲板上を動き回る水兵達の姿が目に入って来る。それぞれ各部の清掃や武器の整備。それに帆の向きの調整等、常に船が万全でいられるよう余念が無い。
セントフレア号。それが船団の旗艦たるこの船の名前だ。元々フランベルガウム号という名前だったが、フランベルグの名前を冠している以上そのままでは使えないと、急遽変更する事となる。サンタマリア号をもじって冗談で発した名前をフレアが気に入った為、そのまま採用となった。
「まあ、確かにな。船の事はよく知らないが、美しい船だという事はわかる。クオーネ卿に感謝しなくてはな」
後ろを走る僚艦へと目を向ける。船首に立つ人影は卿本人だろうか。マントをたなびかせ、真っ直ぐ前を見据えている。
フランベルガウム号を筆頭とした計四隻のオストヴィント級と十二隻のヴィルベルヴィント――それぞれ東の風。つむじ風の意――は、クオーネ卿率いる大量の難民と共にベルンへ到着後、何事も無くこちらへ引き渡された。クオーネ卿は勤めを果たした後は引退して息子へ家督を譲るとの事だったので、渡りに船とばかりに艦隊指揮官として水軍へ迎え入れる事に。彼の乗る船が旗艦で無いのは、こちらへ遠慮しての事だろう。
視線を卿からセントフレア号へ移すと、その巨体をまじまじと眺める。
オストヴィント級は三本マストの大きな帆船で、巨大な船尾楼と小さ目の船首楼が特徴的だ。足元の船室は三層構造になっており、目一杯に水や食料。そして財貨が積まれている。もちろん狭苦しい兵員の宿舎にもなっており、暇な兵がサイコロ賭博に興じている。本当はもっと訓練なりなんなりを行わせたい所なのだが、立ち上がると頭をぶつけてしまう程の高さしかない為にどうしようもない。また、船の片方に大量の人員が寄った場合転覆の恐れがあるとの事で、ある程度決まった場所にいる必要がある。
「地球で言う所のガレオン船になるんだろうか。キャラベル? キャラック? うーん、細かい違いが良くわからんな。図鑑でも欲しい所だ」
ぶつぶつと一人そう言うが、実際の所地球の艦種に合わせたカテゴリ分けは難しいだろうなとも感じる。魔法を筆頭に、環境が違い過ぎるからだ。
例えば船体の中央に設けられた六角形の箱型の台座。台座の中には方位を示す文字と青い石ころが宙に浮いており、海を流れる魔力から方位を測定できるらしい。小さな厚いガラス窓から覗き込んで見るもので、質の悪いガラスによってかなり見辛いのが難点との事。間違いなく羅針盤と呼べる代物だろう。かなり高価な品らしく、ビスマルク筆頭に水兵が目を回していた。
他にもフォアマスト、メインマスト、ミズンマストと、それぞれの間に設置された風を起こす装置やら、船室の一部を冷やす。ないしは温める装置等、常識はずれの装備品で一杯だ。
「陸でも使えたらさぞかし快適だろうにな……」
照りつける太陽に汗を拭いながら、貨物室の冷房設備に想いを馳せる。どれも海に流れる魔力を使用している為、残念な事に陸の上や陸に近すぎる近海では使用できない。
「船長、ちょっといいでしょうか」
視線を下げると、階段を登り来る若い水夫の姿。ビスマルクと共になんだろうかと近付くと、彼は手に持った白い板のようなものを見せてくる。
「こんなものが甲板に落ちていたんですが、何でしょうか?」
水夫の持つ十センチ程の小さな板が二枚。手に取ってみると、軽く丈夫な素材である事がわかる。一見陶器の皿に見えなくもないが、皿として使うにはさすがに小さすぎる。
「何でしょうかっておめぇ。俺にわかるわけがねぇだろ。誰かが持ち込んだ売り物なんじゃねえか? ちょっと下に行って声でも……っておい、どこいった?」
視線を板から上げると、あたりを見回す。しかしたった今まで会話をしていたはずの水兵の姿がどこにも見当たらない。
「まさか落ちたってえのか?」
こんな穏やかな海でありえるのだろうかと、ビスマルクと共に後部甲板の縁を覗き込む。見えるのは黒い海と、船が立てる白波のみ。
「まるで狐に化かされたかのようだな」
良くはわからないが、階段を飛び降りるなりして下に行ったのだろうと踵を返す。ビスマルクは「おめぇの故郷の狐は変わってんな」と恐ろしい物を見るような目を向けて来る。確かに、知らない人からすれば不気味かもしれない。
――なんだ? 喧嘩か?
ふと下から聞こえた喧騒に、ビスマルクと共に足を向ける。甲板では女水夫が何やら喚き散らしていた。
「なあ船長、引き返しとくれよ。リインのやつがいないんだ。どっかその辺で落ちたんだよ!」
中央甲板に降り立つと、こちらに気付いた女が走り来て発する。「確かか?」というビスマルクに悲痛な顔で取りすがる女。
――何かがおかしい
振り返ったビスマルクに、無言で頷き返す。
「よぅしおめぇら!! 全員今すぐ整列と点呼だ!!」
ビスマルクの張り上げた声に、すぐさま甲板へ集合する水兵達。こちらも念の為にと船室へ降り、人数を確認するよう呼びかける。寝ぼけ眼のミリアが「なにがあったの?」と目を擦りながら体を起こす。
「それを調べてる所さ。ウルはどうした?」
隣に寝ているはずのウルが見当たらず、あたりを見回す。
「そういえば船長室に忍び込むとか言ってたわね。あっちじゃない?」
よたよたと起き上がりながらミリア。「わかった」と発すると、そばにいたゼクスに点呼をするよう指示をして上へと駆け上がる。
「探せ!! どこかその辺に隠れてるのかもしんねえぞ!!」
甲板へ出ると、そこら中で布やら道具箱やらをひっくり返す水兵たちの姿。
「しっかり探せ!! あぁ、おいナバール!! 一度船を止めるぞ。後ろとやりとりがしてぇ!!」
後ろとは後続の船の事だろう。「任せる!」と大声で叫ぶと、船長室へと足を踏み入れる。
――いたか……まったく、迷惑な奴だ
ソファの上で丸くなっているウルを見つけると、肩を揺すって声を掛ける。
「ウル、ちょっと頼みがある。急ぎだ」
むにゃむにゃと幸せそうな顔で眠りこけるウル。やがて薄らと目を開くと、猫のように伸びをする。
「おはよあにき……なぁ、それなんだ?」
左手で目を擦りながら、右手でこちらを指差すウル。
何を寝ぼけているのかと、無理矢理ウルを引き起こす為に一歩踏み出す。
こちらが動いたにも関わらず、同じ方向を指差し続けるウル。
ウルの顔にかかる細い影。
全身が鳥肌に粟立つ。
――何が
ゆっくりと顔を巡らそうとするが、影が動きを早めた事に気付く。
「がっ!!」
次の瞬間、強い力で体が引かれ、肺から空気が押し出される。
何が起こったのか理解できないまま、凄まじい勢いで窓の方へと体が引き寄せられていく。
――浮いている!?
身体が横に倒れたにも関わらず、地面に接触する感触が無い。
あっという間に迫った窓。外の海がちらりと覗き、考えるより先に身体が動く。
「ぐう!! なんだってんだ!!」
四肢を窓枠へと当て、全力で踏ん張る。
なおも外へと引く力が加わり、窓枠がきしみを上げる。
――こいつか!!
引かれる力の原因。すなわち胴へ絡みついた白い触手のような何か。護身用のダガーを素早く抜き取ると、逆手にもったそれを全力で突き立てる。
手から伝わる柔らかい感触。溢れ出る透明な液体。
「くそっ! 魔物か!?」
引かれていた力が無くなり、無様に地面へと着地する。
窓から延びた白い触手は、液体をまき散らしながら窓の向こうへと消えていく。
「ウル、敵だ! 下に知らせて来てくれ!!」
船長室の壁に掛けてあった剣を掴むと、ウルを追う形ですぐに外へと飛び出す。
「うおおおおおぉぉ、なんじゃこりゃあああ!!」
叫び声と共に急ブレーキをかけたウルに危うく追突しかける。抜身の剣が彼女に刺さりそうになり、盛大に冷や汗をかく。
別にウルが悪いわけではないが、何か文句を言おうと口を開く。
しかし目の前の光景に、ただ口を開けている事しか出来ない。
――でかすぎる!!
中央甲板の横には、巨大な頭を海面に晒した化物の姿。見た目からすると恐らくイカか何かなのだろうが、そのサイズがあまりに規格外過ぎる。
大きさで言えばこの船と同程度はあるだろうか。イカ特有の三角の頭が船尾楼に匹敵する高さまでそびえ上がり、感情の無い巨大な目があたりをぎょろぎょろと見回している。頭の周りからは大量の腕と思われる触手が伸びており、そのいくつかには人間が握られている。既にビスマルク達が戦闘を開始しているようだが、混乱が広がっているだけのようだ。
「ちょ、ちょっと待て!! 冗談じゃないぞ!!」
大きく揺れる船体によろめき、罵声を飛ばす。
船体は巨大イカの方へ大きく傾き、甲板に固定されていなかったあらゆる物がすべり落ちて行く。
――急がないとまずい!! 転覆なんてごめんだぞ!!
船室の入り口へと向かうウルを横目に、中央甲板へ飛び降りるようにして急ぐ。こんな剣一本で何が出来るのかと、己の中の冷静な思考が警笛を鳴らす。
だが、やらないわけにもいかない。
某新発見とは何の関係もありません。たまたま時期が重なっただけですよ。