決意
「それで本当に打ち倒して来たというのか? あきれた奴だ」
二重に張り巡らされた木の柵といくつかの石造施設で作られた、完全実用本位であるアンガルの砦。天守の指令室にて、フレアがぽかんとした様子で発する。
谷での戦いの後、さしたる脅威も無く平原へと到達した我々は、最短距離を通って砦を目指した。こちらの動きは高い確率で相手側へと漏れており、迂回するなり陽動するなりしても無駄だろうからだ。
また、相手はかなりの数の弓兵を失っており、こちらにぶつけてくるとしたら騎兵か、足の速い軽装歩兵となる。騎兵が来れば面倒な事にはなるが、まさか剣闘士相手に野戦で歩兵をぶつけてくる事はあるまい。
「君が構わないと言ったんじゃないか」
冗談めかしてそう言うと、軍の高官達の微笑ましい笑い声が漏れる。フレアはお手上げだといった様子の仕草。
「誰も本当にやるとは思わんよ。しかし四百前後の長弓兵が壊滅か……これは面白い事になってきたね。国中にこの結果を喧伝するとしよう。少なくない数の諸侯がネクロと王家の能力に疑問を持つはずだ」
フレアは口元の笑みを隠すように片肘をつくと、しばらく考え込んだ様子を見せる。やがて考えがまとまったのだろう、「よし!」と気合の入った声と共に立ち上がる。
「使者を送れ。停戦交渉を行う」
フレアから発せられた言葉に、驚きの表情を返す。まわりも勇ましい答えを期待していたのだろう。戸惑いのどよめきが起こる。彼女はいつもの下目使いで指を左右に振ると、ゆっくり部屋の中を歩き出す。
「何も本当に停戦を行うわけではないよ。第一向こうが拒否するだろう? 我々はだね。これは半分本心でもあるが、戦争など望んでいないという姿勢を徹底させる」
彼女の言わんとするところを察し、後を続ける。
「正義と悪の図式を作ろうって事だな?」
フレアはくるりとこちらへ振り返ると、とても正義側の代表とは思えない表情をする。
「そういう事だ。この王家の起こした戦争には、大義もなければ名分も無い。さらに言えば、王都の荒廃した彼らには財が無く、実に驚いた事に食糧さえもが無いそうだ」
食糧を買い占めた本人の言葉に、真剣な顔で聞き入る一同。「今のは笑う所だよ」という虚しい自己申告に、誰もが顔を引きつらせる。フレアはふんと鼻を鳴らすと、続ける。
「どうだね諸君。どうやら希望が見えてきそうじゃないかい? 座して死を待つだけでは無く、戦い、勝利を掴む事が出来そうだ。恐らくは、これから忙しく。そしてまた苦しくもなるだろうが――」
部屋をぐるりと見渡すフレア。
「私について来い。君等全員を、伝承に残る英雄の末席に並べてやろう」
「伝承に残る英雄ね……また大きく出たな。それより大丈夫か?」
私室のソファにて。隣に座るフレアへと声をかけると、気の無い返事が返る。
「何がだ? ……あぁ、君に嘘は通じんか。そうだね。正直かなり参っているよ」
先程とは打って変わり、いかにも覇気の無い様子のフレア。強めの酒をぐっとあおると、四肢を投げ出してソファへもたれかかる。
「多数の人間の人生を預かるというのは、それが当り前だと思っていても、やはり疲れるね。ましてや滅亡の瀬戸際ともなればなおさらだ……すまんが少し借りるよ」
フレアはそう言うと「おいおい」と押しとどめるこちらを無視し、寄りかかる先をソファからこちらの膝へと移す。
疲れているのだろうし、仕方がないかと膝の位置を少し調節してやると、彼女が小さく笑い声を漏らす。
「ふふ、君はやはり私の事を非常に良く知っているようだ。私が極端に首を高くしないと落ち着かない事を知ってるのは、死んだ祖父だけだよ」
目を細めながらそう言うフレアに「知らんね」と無愛想に返す。
「嘘は良くないね」というフレアに「嘘ではないさ」と。
「今知ったじゃないか」という彼女に「では忘れよう」と。
「強情だね」という笑った顔に「お互い様さ」と返す。
「君は、私ではない私を見ているね?」
突然の問いかけに、思わず言葉が詰まる。
沈黙を流れるままにしておくと、再びフレアが口を開く。
「私はね。英雄などいくらでも存在すると思っている」
燃える暖炉の火を見つめるフレア。釣られるように炎へ視線を移す。
「子からすれば親が。夫婦であれば伴侶が。職人であれば親方がそうだろうね。命を救われればどんな相手でも英雄だと思うだろう。民にとっての英雄は私だね……」
寝返りを打ち、こちら側へ顔を向けるフレア。伏し目がちな表情で、続ける。
「そして……私にとっての英雄は君だ」
何を返すでも無く、黙ってフレアの言葉を聞き続ける。
「私を愛せとは言わないし、導いてくれと言うつもりもない。君には君の思う所があるだろう……ただ、願わくば……」
フレアの手が、袖を強く掴む。
「どうか私を守ってくれ。ナバール」
膝の上で寝付いてしまったフレアを寝室へと運ぶと、ひとり外へと歩み出る。まだ寒さの残る風が頬を撫で、大きな月が冷たい世界を灰色に染めている。
フレアは、まだ一五かそこらの小娘だ。
非常に聡明であるが、それゆえに抱える苦悩も大きいだろう。
子を持った親は、一人の人間の人生を背負うという事の大きさを実感するらしい。時に国王が国家の父と呼ばれるように、領民にとってはフレアが母となる。
自分は剣闘団の団長として当然ながら責任を負っているが、彼女とは比べるまでも無いだろう。それに背負いきれない責任はフレアへと流れて行く。ここで誰が、どう、何をしても、結局の所行き付く所は、全て彼女だ。
――いったいどれ程のものだろうか?
弱々しく涙を流す彼女の姿を思い返すと、例えようの無い感情が湧き上がる。
「俺は……どうしたいんだ?」
いまだに整理のつかない自らの心が、どうしようもない程にわずらわしく感じる。
フレアであって、
フレアでない。
なぜ世界はもっとシンプルに出来ていないのだろう?
扉があって
フレアがいて
ネクロが現れて
死んで
やり直して
そしてまたフレアがいる
「頭がどうにかなりそうだ」
煮詰まった頭を振りながら大きく息を吐き出すと、上から声がかかる。
「こんな寒空に散歩かしら?」
声に誘われて視線を上げると、月明かりを陰にシルエットが映る。
「ミリアか。ちょっと考え事をね」
かろうじて笑顔と呼べる顔でそう答える。彼女は「ふぅん」と興味無さげな声を発すると、二階から飛び降りる。慌てて駆け寄ると、その小さな体を無事受け止める。
「馬鹿な事をするな!!」
怒りと共に声を上げると、こちらを指さすミリア。
「貴方がいたからよ」
さも当然にそう答えるミリア。溜息を吐きつつ説教をしようとするが、「フレアも同じよ」と続いた言葉に、それをとりやめる。
「そう。フレアも同じ……貴方がいるから無茶な事を出来て、それで道を切り開く事が出来るのよ。貴方がいなかったら彼女、とっくに駄目になってるわ」
ミリアの言葉に「あのフレアが?」と返す。ミリアは小さく息を吐き出すと、こちらの頬に手を添える。
「忘れないで。今の彼女に魔女の強さは無いのよ?」
ミリアから発せられた当り前の事実が、強烈な一撃となってこちらを打ちのめす。
「しかし……いや……あのフレアが……」
からからに乾いた喉が、続く声を発せずに固まる。
彼女が魔女の力を失ったのは、俺をここへ送る為だ。
彼女なら大丈夫。
あの彼女なら、なんでもやれるはずだ。
どこかで、ずっとそう考えていたんじゃないか?
声なきこちらへ目を向けると、そっと手から降りるミリア。なんとか礼の声を絞り出すと、彼女は手をひらひらとさせながら宿舎へと戻っていく。
――さて、まずは自己紹介をしようか――
ひとりぼっちの世界で手を差し伸べてくれたのは、フレアだった。
――君が私の隷属となり、戦う――
生きる強さを与えてくれたのも、
――お前は私の剣闘士だろう!!――
進むべく道を指し示してくれたのも、
――私は君を誰にも渡すつもりはないよ――
こちらの世界で生きていく喜びを教えてくれたのも、彼女だ。
何を迷っていたのだろう?
去来する思い出をゆっくりと噛み締めると、拳を強く握る。
今度はこちらが守る番だ。
かつて彼女が、そうしてくれたように。