撤退
既に短弓の射程圏内に入った敵の歩兵が、こちらの矢を受けてばたばたと倒れていく。もはや相手の顔すら認識できる距離になっており、まわりからは敵が国軍だという事を理解したのだろう動揺の声が漏れ聞こえて来る。
――"BreezeOfDeath"――
魔法の詠唱を終えたミリアが立ち上がり、前へ向かい「ふーっ」と息を吹き出す。
彼女の前方では、草花が尋常でない速度で枯れ落ち始めており、草原に茶色の絵を描くように扇状へと広がって行く。やがて敵部隊へと到達すると、敵が動揺の色を見せる。
「……なんだ? 失敗か?」
何が起こるかと身構えて敵軍を見つめるが、特に何かが起こる様子は無い。既に前方一帯の草花は枯れ果てているが、それだけだ。
――"FireStorm"――
続いて詠唱された聞き覚えのある魔法に、目を見開く。彼女がやろうとしている事を理解し、全力で叫ぶ。
「中止だ!! 突撃は中止!! 戻れ! 戻れぇ!!」
既に飛び出し始めていた仲間達に、大声で中止の声を張り上げる。
指先から放たれる紅蓮の炎。
炎はまるで蛇のように枯草を燃え広がり、あっという間に草原を火の海に変える。
迫り来る火の波に気付いた敵兵が、恐怖の声を上げながら四方に逃げ惑う。背後にいた軽装の部隊はいくらか逃げおおせたようだが、重装歩兵は一人残らず炎に飲み込まれていく。
走り回る者。のた打ち回る者。諦めて身を投げ出す者。
なんとか火の外へ逃げ出した者も、衣服についた炎や熱く熱せられた防具に、どうにかそれを脱ごうと四苦八苦している。
あたりは叫び声と肉の焼ける嫌な臭いが漂い、地獄のような有様だ。
「この前使った時は燃える物が無かったから中途半端だったじゃない? だから思ったのよ。先に可燃物を作っておけば効率的だって」
さらっと発したミリアに、思わず背筋が震える。何か情操教育でもするべきなのかと場違いな感想を浮かべるが、今更が過ぎると考えを破棄する。
「今回は純然たる戦争だからな。やりすぎとは言わんよ。良くやってくれた……恐らくだがこれで決着となりそうだ。いるかはわからんが、敵の大部隊が来る前にゆっくり撤退するとしよう」
弓兵は戦場において非常に強力な兵種だが、単体では野戦陣地に対して決定打を与える事は出来ない。攻略用の歩兵が滅した以上、残った敵も一時的に撤退するはずだ。
「……なんだ? まさかまだやるつもりか?」
白兵戦部隊の大部分を失ったにも関わらず、相変わらずこちらを包囲する動きを見せる弓兵部隊に、思わず声が出る。
「……え? 探知妨害? なんで?」
中空を見たままふと呟くミリア。何の話だと声を掛けようとするが、視界のはずれに映った動きにそれを取りやめる。
「そういう事か……クソ野郎め」
いまだ燃え盛る炎の中から、真っ黒に焼け焦げた死体達が次から次へと歩み出てくる。彼らは死者の咆哮を上げ、各々が武器を振り上げる。大方が全身から炎を上げており、恐怖心をあおる。
やがて彼らは矢による攻撃をものともせずに走り来て、あっという間に乱戦となった。
――だめだ! これはまずい!!
顔を巡らせると、敵の弓兵が斉射の準備に入った姿が見える。同士討ちの心配が無くなったのだから当然と言えば当然だろう。死体は頭でも射抜かれない限り矢など気にしない。比べてこちらは全身が的だ。
「総員撤退!! 撤退だ!! 急げ!!」
目の前に走り来た元国軍兵士の体を振り上げるようにして両断すると、伝令係へ向けて叫ぶ。こちらはまだほとんど兵を失っていないが、この場に留まれば包囲後に殲滅される可能性が高い。目的は治療術師隊の撤退補助であり、敵の撃破では無い。時間稼ぎが出来ないのであれば、この場に残る必要性はゼロだ。
――最初からこれが狙いだったというわけか
あまりにも鮮やかに成された陣地攻略。大量の駒を手に入れていたにも関わらず、王手による詰みを宣言されたかのようだ。
「さあ、急げ!! 早く"中"に入るんだ!!」
矢に射抜かれて倒れた伝令兵から鐘を奪い取ると、狂ったようにそれを振り鳴らす。
「ナバール!! アキラ達はどうする!!」
体からいくつもの矢を生やしたパスリーが、傍に居た敵兵の頭をメイスで砕きながら叫ぶ。
「大丈夫だ! 向こうで合流できる! お前も急げ!!」
叫び返しながら鐘を放り捨てると、ミリアを抱えて走り出す。鎧同士がひしめき合う密集した混乱の中は、体の小さい彼女には非常に危険だ。
「団長!! 粗方収容しましたぜ!!」
指揮所の入り口で声を張り上げるゼクスに、さっとまわりを見渡す。入り口前を固めるパスリー達を除くと、立っている仲間の姿は見当たらない。何人かまだ息のある負傷者がいるかもしれないが、この状況ではどうしようもない。
「パスリー!! 閉めてくれ!!」
飛び込むようにして指揮所内へと入ると、パスリーがすぐさま扉を閉じる。
「さあ、下にって、うおっ!」
木製の扉を突き抜けてきた槍が、パスリーの顔の前を通過する。これはまずいと慌てて机やら棚やらを倒し、建築の際に余った建材をつっかえ棒とする。これで多少の事ではびくともしないはずだ。
「ナバール様!!」
かけられた声に、驚きと共に振り向く。
「キスカ! フレアと一緒に行かなかったのか? 急いで下へ行くんだ!」
少し涙目になっている彼女を押しやると、自らも地下室へ向かって走る。事故を防ぐ為に作られたなだらかなスロープを下っていると、後ろからバリケードが破壊される音が聞こえて来る。
――何故だ? 早すぎる!
前方で足をもつれさせて転んだキスカとミリアを両腕に抱えると、狭い地下室の壁に開けられた横穴の通路へと飛び込む。
「やってくれ!! 後ろに来てる!!」
左右に並ぶ斧を持った土竜族は、こちらの声を聞くなりすぐさま斧を振り下ろす。斧は杭に繋がれたロープを切断し、支えの無くなった支柱が横へ倒れる。そして支柱が無くなった事で壁が。壁が無くなった事で天井がと、連鎖的に地下室が崩壊していく。
凄まじい土埃の中、振り向いて後ろを見やる。既にかなり近くまで駆け寄ってきていた敵兵が、砂に飲まれていく姿が一瞬だけ映る。
「ごほっごほっ、土葬だなんてあいつらには丁度いいわ」
腕の中でだらんとしたままの恰好で、ミリアが発する。「ちげえねえ」と笑うパスリーの高い声色に、彼が獣人化を解いた事がわかる。
「矢傷を負っていただろう。大丈夫か?」
薄暗い松明の明かりの中、伺うように発する。パスリーはかすり傷だと答えるが、血で濡れた服はとてもそうには見えない。
「避難路……ですか?」
きょろきょろとあたりを伺うキスカ。「できれば使いたく無かったがな」と返し、続ける。
「土木作業のスペシャリスト達が仲間に加わったから、念のためにと作っておいたんだ。奇襲を受けた際にフレアを逃がすのが目的だったんだが、結局自分で使うはめになったな。情けない」
避難用品入れから松明を取り出すと、部下の持っていたそれから火を移し、細い通路へと足を踏み入れる。
何の飾り気もない添え木によって補強された剥き出しの土壁。人一人が歩くには十分な。しかしすれ違うには難しい大きさの通路を延々と歩き続ける。ぬかるんだ足元に不安を覚えるが、いびつな形状の枕木が歩行を助けてくれる。
「これは……どこへ通じてるんですか?」
前を歩くキスカが不安そうに発する。彼女が歩くたびに尻尾がゆらゆらと揺れ、壁に巨大な蛇のような影を作り出す。
「出口はいくつか作ってあるが、今進んでるのはアキラ達が潜んでいた林のさらに奥に通じてる。地形の具合で草原の方からは見えないから、森に潜んで逃げられるだろう」
「大丈夫だ」と笑顔で答えると、「はい!」と元気な声が返る。家族を失い沈みがちな事が多い彼女だったが、しばらく見ない内に随分と回復したようだ。
「さあ、さっさと進もう。前が先へ行っているぞ」
不安を与えないよう努めて軽くそう言うと、後はただ足を進め続けた。
暗闇の中ただ歩き続けていると、時間の感覚を失う。
実際には三十分かそこらだったはずだが、何時間にも感じられる歩みを続けていると、ようやく出口へと到達した。
「団長、ご苦労様です」
差し出された手を取って地上へ出ると、団員達は既に再編成と装備の確認を進めていた。何人かの負傷者が手当てをしていたが、重傷を負った者はいなさそうだった。
優秀な軍に育ったものだと満足気にそれらを見ていると、書類の詰まった鞄をいくつも抱えたウォーレンが走り寄って来る。
「団長、先の戦いは残念でした。しかしあんなに素早く死体を起こせるものなんですね……戦術の見直しですか?」
ウォーレンの提案に腕を組んで答える。
「ううむ。難しい所だな。ミリアの話では死体を遠隔操作する事は可能だが、起こすのはある程度近くにいる必要があるそうだ。つまり、あの場に奴がいたんだろう。常に兵隊がゾンビに変わるというのならやり方も変える必要があるだろうが、大方の戦いではそうじゃないだろう」
「運が悪かったという事ですか」というウォーレンに「まあな」と答える。
「敵の軍指揮官もどうやら優秀なようですし、これはなかなかに苦戦しそうですね……って、えぇ!?」
傍に聞こえる風切り音と、いくらか漏れ聞こえる仲間の悲鳴。
――敵襲!? 馬鹿な!!
いくらなんでもこれはおかしいと、散開して応戦するよう大声で叫びながら、ミリアに詰め寄る。
「ミリア! 相手が魔法で探知している可能性は!」
矢を避けようと地面に伏せているミリア。
「それが出来ないよう、私が常に妨害してるわ。さっきは向こうも使ってたわよ? きっと自分の位置を……きゃっ!」
二人のすぐ傍に矢が刺さり、ミリアが悲鳴を上げる。ここは危ないと、大木の射線からみて逆側へと避難する。木から窺うように顔を出すと、少し離れた場所に素早く動く敵兵の姿が見える。
――囲まれてるわけでは無いのか? 何故だ?
不可解な敵の行動に、首をひねる。
こちらは行動を開始する前にいくらか準備時間が必要だし、相手側には全く気付いていなかった。包囲するのであれば十分可能だったろうし、何より相手が長弓兵だというのが解せない。
視界と取り回しの悪い森で自身の身長ほどもある長弓を使うなど、素人もいいところだ。 草むらから時折見える弓の先は「自分はここにいますよ」と宣言しているようなもので、現に今も仲間の剣闘士がそろりと近づき、あっという間にその命を刈り取っている。
「偶発戦はありえないな。こんな森のはずれ、戦術的にも戦略的にも何の価値もない……それにしても拍子抜けだな」
脱出先を抑えられたと知って部隊の壊滅を意識したが、どうやら結果は逆になりそうな流れだ。敵の攻撃はだんだんと散発的なものになっている。長弓兵を使うどころか、戦力の集中運用も知らないらしい。
「偶然で無いとすると、やはり我々を狙っての事ですよね? 相手はなかなかの名将と踏んでいたのですが、どうやら素人みたいですね……先程の猛攻はやはり偶然でしょうか」
這うようにしてこちらへ来たウォーレンが、ひびの入ったメガネを指で押し上げながら発する。
「まともな戦闘方法も知らない素人が、我々の行動を読み切った上に追撃までして来たというのか? そんな馬鹿な……アンバランスもいい所だぞ。だったら――」
続きを言い掛けて、思い浮かんだそれにショックを受ける。
「いや……それはさすがに…………」
顔をぐるりと回し、戦闘行動を続ける仲間達を見やる。誰もが必死で戦い、目が合えば尊敬と信頼の眼差しを返して来る。
――この中に?
今までに感じた事の無い、不快な感情がこみ上げる。だがこの不自然な状況を考えると、馬鹿らしい考えとも思えない。
「どうにか間違いであって欲しい事だが……」
誰へともなく、呟くように発する。
「内通者がいるという事か?」