大艦隊
「さて……どうするよ旦那。俺は一か八かでも逃げた方が利口だと思うがよ」
遠目に見える敵の増援艦隊。まだかなりの距離があるにも関わらず、その迫力はここまで伝わってくる。
「利口に生きれるのであれば今ここでこうしていないさ。それに逃げるといっても速力は向こうの方が上だろう。どうしようというんだ?」
ビスマルクは視線を上にあげると「あれさ」と帆の近くに備えられた装置を指さす。
「うちには大魔法使い様がいるからな。風起こしにお嬢ちゃんの魔力を流せば、しばらくはかなりの速さで動けるだろうよ。とんずらこくには十分だぜ?」
ビスマルクに促されるように視線を上に上げる。
――なるほど。しかし……
現在向かっている先。いまだ戦闘状態にある他の三隻を遠目に眺める。
逃げる。つまり撤退するというのは現状の戦力差を考えると、決して悪い案とは思えない。全滅する事と比べればその差は比べるまでもなく、陸での戦いでは度々そうしてきた。捕虜にされたとしても必ず殺されるというわけでは無いし、上手い事逃げおおせる事もあるだろう。
だが、今のフランベルグを考えるとどうだろう?
かの国のトップにいるのは、人の死をなんとも思っていない。というよりも誰よりも人の死を願ってやまない人物であり、その国家は多数の捕虜を養うだけの余裕があるとは思えない。
――どうする? どうしたらいいんだ?
冷静に考えればさっさと撤退するべきなのだろう。迷う事など何もない。しかし自らの決定が多数の人間の命を左右するとなると、そう簡単に決断できるものでもない。
胃の中の物をぶちまけたくなる衝動を抑えつつ、ゆっくりと周りを伺う。自分以外に誰も答えを出してくれないのは知っているが、それでも何かに頼りたくなる事もある。
「命がありゃあ何度でもやり直せる。俺は今までそうして生き抜いて来たしな。おめえさんは軍の命そのものみてえなもんだろう? だったら迷うこたぁねえよ。ずらかるべきだ」
舵に寄りかかったままビスマルク。体に刻まれたいくつもの傷が、彼のそれまでの壮絶な人生を感じさせる。彼の連れてきた水兵達が、そうだそうだと頷きながらビスマルクの傍へと集まる。
「馬鹿いってんじゃねえよじじい。んな簡単に仲間見捨てて逃げれっかよ。おめぇらがそうしてきたように、こっちもなるだけ仲間は見捨てねえようにってやって来たんだ。アニキは確かにうちらの要だけどよ、アニキがそういうとこ無くしちまったら意味ねえじゃねえか」
若干言葉足らずだが、ウルの言いたい事もよく分かる。仲間の剣闘士達がウルの元に集まり、互いの肩へと手を置いていく。
「ナバール様、ここは再起に賭けるべきですよ」
「隊長、臆病者になったらお終いです。誰も着いて来なくなりますぜ」
「犬死にしたって喜ぶのは敵だけだ。どう考えても引くべきだろう」
「残される者達の事も考えろ。死んでも守らねばならん物だってあるはずだ」
甲板上で対立が始まり、険悪な空気が流れだす。仲間内で争う事の無意味さがわからないような連中では無かったはずだが、次の一言が決定的となる。
「大体、お里が違う俺達にはだな。そもそもが関係のねえ戦なんだよ。残される奴らの事なんて知ったこっちゃないね」
水兵の内の一人が発したその言葉にかっとなった剣闘士が殴り掛かる。そのまま乱戦にでもなるかと思われたが、事態はもっと悪い方向に。水兵達が罵声と共に腰の武器へと手をかけ、それに呼応する形で剣闘士達も身構える。
「やめなさい。さもないと"私が"あなたたちを皆殺しにするわよ」
甲板上にいる人間達の視線が船室への入り口へと集まる。少し青い顔をしたミリアは「私はね」とゆっくりとこちらへ近付いてくる。
「ナバールさえいれば他はどうだっていいのよ。あなた達も彼にとって役に立つなら大事にするし、どちらでもないなら放っておく。でも邪魔をするのであれば排除するわ。わかる?」
先程の敵船への攻撃を思い出したのだろう。誰かが生唾を飲み込む音が聞こえてくる。ミリアは自身へ視線が集まっているのを利用し、すぐ傍へと歩み寄る。結果、周りの注目はこちらに。
――すまんな。助かる
もしかしたらいくらか本音が含まれているのかもしれないが、彼女はそこまで徹底的になれるような女では無い。この場を諌める為にあえてそう演じたのだろう。
「旦那。俺はカダスの信奉者だし、カダスがそう言った以上どうなろうとあんたについて行くつもりだ。だがよ、全員が全員そうと言うわけじゃねぇ。納得の出来る答えじゃねえと誰も動かねえと思うぜ」
しんとした甲板上、ビスマルクがゆったりとした口調で言う。無言でそれに頷き返すと、今もこちらへ近づいてきている敵船へと目を向ける。
「どちらの意見も間違ってはいない。で、あればだ。両方の意見を取り入れるのが手っ取り早い」
視線を戻すと、周りには呆れた顔や訝しげな顔。「どっちつかずが一番良くねえぞ?」というビスマルクに「曖昧な答えを出したわけじゃないよ」と答える。
「この船は他の船より早く動けるのだろう? であればそれを活かそう。仲間を援護する形で戦いながら撤退する。最悪どうしようもないとなればその時点ですぐさま撤退としよう。やるだけやった上であれば我々も納得が出来るし、最終的に逃げ延びる前提であれば君等も文句は無いだろう」
そう答えると、互いに顔を突き合わせて相談し始める水兵達。剣闘士達は左右を見ながら頷き合い、後はじっとこちらを見つめ続ける。
――正しい答えなどどこにも無いのであれば
「俺の故郷の方で有名な大将軍が考えた戦術がある。本当は陸でやるんだが、ここでもやれない事は無いだろう。幸い晴れで信号は良く届く」
――自ら下した判断を、正しいものとするしかない
「機動防御戦術。そして電撃戦だ。やれるだけやってみよう」
「おおい! 旦那、生きてるかぁ!!」
隣を並走するセントフレア号の縁から身を乗り出したビスマルク。彼に手を振ると、敵船へ乗り込んだ仲間と共に垂らされたロープへとしがみ付く。
「引っ張り上げてくれ! 自力では登れそうにない!」
懸命にそう叫ぶと、ロープを自身の体にきつく巻き付けていく。
――これで7つ目……いったい後何度これをやるんだ?
背負った盾に体が隠れるよう身を小さくし、引き上げられるに任せる。握力の無くなってきた手は冷たく痺れ、感覚がほとんどなくなってきている。治療術師に治療してもらえばいくらかはまた動くようになるが、それも暫くの間でしかない。
「あぐ、くそっ! 邪魔だ!!」
ふとももに刺さっていた矢がセントフレア号の手すりに引っかかり、肉がえぐれ激痛を運んでくる。涙目になりながらそれを折ると、転がるようにして甲板へと乗り込む。
「あぁ、そのまま! すぐに下へ運びます!」
立ち上がろうとするがすぐに制止され、盾を構えた剣闘士に守られながら船室へと持ち運ばれる。疲労と痛みから為すがままにされ、荒い呼吸を無理矢理整える。
「ひでぇ怪我だなアニキ。やり手でもいたんか?」
船室には怪我人が所狭しと並べられ、優先度の高い順。つまりすぐに戦線復帰できる状態に近い者から治療を受けていっている。本来であれば重症者を優先する所なのだが、事情が事情ゆえ仕方が無い。
「いや、水兵はどれも似たようなもんだ。さっきのは漕ぎ手の連中がオールを手に反抗してきたんでな。予想外だっただけにえらい目に合った」
足に添え木をしたウルへそう語ると、そっちの怪我はどうだと尋ねる。彼女は悔しげに顔を歪めると、「さすがに今は動くなだってさ」と返してくる。
――あの高さから落ちてその怪我なら儲けものだろう
三隻目か四隻目での戦闘の際。見張り台に陣取った敵の魔法使いを見事仕留めたウルだったが、護衛についていた敵兵ともつれ合う形で見張り台より落下してしまった。敵兵の体がクッションとなり大事には至らなかったが、両足の骨を酷く骨折する形に。
「ナバール様、さすがにそろそろ待機組に入って下さい。酷い怪我ですよ」
普段は朗らかな表情の術師が眉間に皺を寄せて言う。それに「冗談はよしてくれ」と断りを入れると、治療の為に服を脱いでいく。打ち身や痣。切り傷等によってぼろぼろになった腕を眺め、いつまで持つだろうかと内心疑問に思う。
戦いを再開し、いったいどれ程の時間が経っただろうか。既に日は落ち始め、二つの太陽が水面に揺れ始めている。数えきれないほど剣を振るい、命を奪い、そして奪われてきた。生き残る為と言ってしまえばそれまでだが、何の為にこんな辛い事をしているのだろうかと思う事さえある。
「なあアニキ。日が沈んだら終わりだよな?」
天井を見つめたままウル。「まあ、そうなるだろうな」とこちらも仰向けになって横たえる。
――夜、か。
我々の取っている戦術は今の所上手く機能し、敵を翻弄し続けている。行動方針自体は簡単で、敵との距離がある内は真っ直ぐに陸へと向かい、追いつかれるか有利な立ち位置になった場合はすぐさま戦闘を行う。戦いの中心になるのはセントフレア号で、ミリアの補助による加速は敵を攪乱するには十分な力を発揮した。
ただし一か所に留まるわけには行かず、射撃による長期戦を行ってしまっては戦力差により潰されてしまう為に、短期決戦。すなわち白兵戦を行う形となる。セントフレア号は敵船に乗りつけるとすぐさま剣闘士を吐き出し、そして去っていく。他三隻は援軍が来ないようけん制し、剣闘士は敵船の指揮系統を破壊する。ガレー船の漕ぎ手が従順なようであれば――彼らのほとんどは奴隷で、フランベルグに対する忠誠心など無い――そのまま元の船へと合流し、だめそうであれば回収にやって来るセントフレア号を待つ。後はそれの繰り返しだ。
この作戦に大事なのは二点。敵より高い機動力と連携。そして戦況を把握する事。
そしてそれらは日が沈めば失われる。ミリアの体力には限界があり、夜になれば全体を把握する事など不可能だからだ。当然光による信号も送れなくなる。闇に紛れて逃げおおせる可能性も出てくるが、その場合は完全に運任せとなる。四隻揃ってというのは無理だろう。
「ナバール様、動けますか? お知らせしたい事が」
甲板から降りてきた水兵が暗い顔でそう尋ねてくる。術師が治療中であるのは誰の目にも明らかなので、それでもという事は緊急事態だろう。
「わかった。すぐ行く……ん、大丈夫だ。また後で頼むよ」
こちらを留めようとする術師に断りをいれ、階段を上っていく。甲板へ出ると誰もが暗い顔をしたまま遠くを見つめている姿が目に入って来る。
「旦那……あれを見てくれ」
こちらに気付いたビスマルクがやつれた顔で向こうを指差す。何が起こったのか予想は付くが、顔には出さずゆっくりと視線を向ける。
「とうとう捕まったか……悔しいが仕方あるまい。戦いである以上無傷というわけにはいかないだろう」
遠目には船を大きく傾けた僚艦の姿。まわりには敵船が群がっており、既に戦闘不能となっているだろうに執拗な攻撃を加え続けている。
「それだけじゃねえさ。後ろを見てみるといいぜ」
まさかという思いで振り返る。手をかざして水面の反射を遮ると、映り込んだ二つの太陽の中にいくつもの黒い斑点。
――あぁ……終わったな
退路を塞ぐ形で展開している今までに無い数の大艦隊。それらは左右正面へと三つに別れて進んでおり、いくらもしないうちに包囲を完成させる事だろう。もはやたった三隻の船がどうこう出来る話では無くなっている。
「やるだけやったんだ。誰もあんたを責めはしねぇよ……そんな奴がいたら俺がぶん殴ってやる」
ビスマルクはこちらへ近づくと、肩へ手を回して来る。有難さや情けなさで一杯になり、熱くなった目頭を軽く押さえる。
――いや、他でもない。俺自身が責めるだろうよ
ビスマルクの腕をやんわりと外すと、ゆっくりと右手を上げる。もはや猶予は無く、約束通りとするしかない。
「ま、待ってください、何か様子がおかしいです!!」
退却指示を出そうと開けた口を止め、声の主がいる見張り台へと目を向ける。
「艦隊は……どれも赤丸の旗を掲げています!!」
言われた言葉の意味が飲み込めず、甲板上にいる全ての者の動きが止まる。
――赤丸……日の丸の事か?
一体何故日の丸を、という考えが浮かぶが、それはすぐさま"何故そんな事が出来るのか"に覆い尽くされる。
そしてその答えは、たった一つしか無い。
「ふふっ……ははは、あっはっはっ!! なるほど! そういう事か!!」
周りの人間が何事かと訝しげな目を向けて来るが、気にもせずに笑い続ける。泣き笑いのような表情を浮かべたままセントフレア号に掲げられた日の丸を仰ぎ見ると、「そんな事が出来るのは一人しかいないだろう?」とビスマルクを見る。
「カダスだ。この状況になるのを知ってやがったんだな……くそ、ずっといけ好かない野郎だとは思っていたが」
眼前に展開していくヤーク連合の大艦隊を見据える。その姿のなんと頼もしい事だろう。
「それでも、今は奴が大好きだな」