秀頼と千姫
秀頼は一六〇三年に家康の娘・千姫を娶っている。
秀頼は家康と表立って敵対するようになってから、千姫と離縁し家康の元に送り返そうとしたのであるが、千姫はそれを拒んだ。
幼くして大阪に来た千姫にとって自分の家は秀頼の元であり、家康の元では無かったのである。
この頃の女性としては珍しく生まれた家を捨てる決意を幼いながらも秘めていたのだ。
「千よ、これからその方の父上と命のやり取りをすることになる。そうなれば、その方の心痛を慮るに余も心が重くなる。どうじゃ、父上の元に帰った方が、その方のためと思うぞ 」
もう同じ説得を幾年も幾度となく続けている。
「いいえ、私はもはや秀頼様の妻でございまする。例え父上と秀頼様が刃を交え、それで父上が亡くなったとて致し方ございませぬ。どうかお傍においてくだされ」
千の答えも幾度となく同じ返答であった。
その上で秀頼は、今日に至ってはこう述べたのである。
「そうか、ならば良い。ならば余の傍におるがよい。もう何も言わぬ。そなたは余の妻じゃ」
そう言ってにっこりとほほ笑み千をぎゅっと抱きしめたのだ。
時は一六〇七年正月の事であった。
それから千は徳川家から付いてきた侍女たちを、家康に宛てた一通の書状と共に徳川に送り返した。
その書状には千はもはや豊臣の人間であり、戦がどの様に進もうと豊臣の行く末に身を委ねる旨が記されてあった。
家康はなんとかして千を大阪より連れ帰るようにしたかったのであるが、書状を読み致し方ないと千との離別を決めたのであった。
それからの千は生き生きとしてほがらかになり、周りには笑い声が絶えなかった。豊臣の家に生きる女として高台寺にも僅かな共を連れて幾度も足を運び、淀や高台院と親交を深めた。淀や高台院も慕ってくる千を可愛がり、色々な事を教えたのである。
特に淀は自分の反省から、女性が政ごとに口を出すものでないと諭した。その上で諸事に対して良く学び、夫から助言を求められた時にはすぐに答えられるように心づもりをしておくのだと言った。
この言葉を千は良く理解し、大阪城に誰が来たか、何の話であったか、秀頼は何を考えて何をしようとしているのか、良く見て良く考えていた。
千の前を向く明るい姿勢に秀頼も心を許し、大阪城は常に明るい雰囲気であった。大阪城に出仕する武将達も千と会うことを一つの楽しみにして登城しているほどである。
千は高台院の勧めで武将達の妻たちを纏め、高台寺で茶会を催すなど女性の教養を高めることにも務めるようになった。それにより武将達の間はより親密に強固なものになっていく。
「上様、千にも武芸を教えて下され」
「な、なんと申した?武芸を教えろと聞こえたが?」
「はい、そのように申しました。是非に!」
「なぜじゃ? なぜ急にそのようなことを申す?」
「はい、女と言えども戦の折、ただの足手まといにはなりとうはありませぬ。私どもおなごを守るため男衆は身を呈してくれましょう。その負担を少なくしたいのです 」
「ふむ、そうか、その様に考えておるのか。ならば誰ぞ良い者を選ぶ故待っておれ 」
秀頼も千の言うことを聞いてやりたかった。というより思う通りに行動させてやりたかったのである。
秀頼はすぐに慶次郎に相談した。
「なるほど。ならば昌幸殿の手の者の忍びの者、女忍びの者の手を借りてはいかがかな 」
「そうか、ならば昌幸に頼んでみよう」
そう言って昌幸に頼みこんだ。昌幸ははじめは奥方様がそのようなことをする必要のないことを説き、難色を示したのだが、秀頼の強い希望に根負けし、一人の女忍びを差し向けてくれることになった。
しばらくして、大阪城内から女性の発する威勢の良い掛け声が聞こえるようになる。
こうなると兵達も『女性に負けては男の恥』とばかりに鍛錬に精が出るようになり、強靭な軍勢になっていった。相乗効果である。
この頃には、大阪城には千はなくてはならない存在になっていた。