お師匠・慶次郎
時は僅かにさかのぼり、秀頼が関白に任じられる少し前の一六〇四年暮れ、直江兼続は米沢から前田慶次郎を大阪城に呼んだ。
「よくおいでくだされた、慶次郎殿」
「なんの、兼続殿のお呼びとあらば、どこへでも参りますぞ」
慶次郎と直江兼続は馬が合う、幾つもの戦を共にし、今や心の通じる友である。
「慶次郎殿、実はお願いがありましてな」
兼続が縋るような目つきで慶次郎に言った。
すると慶次郎は即座に
「兼続殿の御依頼では断れませんな。お引き受けしましょう」
と胸を張って答えた。
「はははっ。慶次郎殿、私はまだ何も言ってはおりませぬぞ 」
「構いませぬ。どんなご依頼でも兼続の御依頼ならばお受けいたす」
頼み事の内容も聞かずに引き受ける慶次郎に苦笑する兼続。
「じつは秀頼様に武芸を教えていただきたい」
「なんと、私は手前勝手な技でござるぞ。諸流派を極めておる御人が他にたくさんおろうに、なぜ私に?」
慶次郎の言う通り、武芸はすべて自己流である。
「なに、戦場で役に立つ武芸を教えて欲しいのでござるよ。確かに槍、剣術、弓術、それぞれ流派を構え、極めておる御人はおりましょう。
したが本当に役立つ武芸を慶次郎殿ほど極めておる方はおりませぬ。それにこれは秀頼様のご希望でもあるのです」
兼続の言うことは本当のことで、槍、剣術、弓、どれをとっても戦場では後れをとったことはない。
「ほう、秀頼様の……」
と言って目を細めて何やら考えている。慶次郎は物事を考える時に目を細める癖がある。やがて考えが纏まったのか慶次郎が口を開く。
「分かり申した。ただし、やり方はすべて私にお任せいただきたい。どなたであろうと口出しは御遠慮いただく。それがお受けする条件でござる」
「分かり申した。皆の者にもよく言っておきましょう」
こうして慶次郎は秀頼に武芸を教えることになった。
○数日後、大阪城
「慶次郎殿、よろしく頼む 」
秀頼は慶次郎に笑顔で言う。
しかし、慶次郎はにこりともせずに、秀頼を見据えてこう言った。
「秀頼様、今日より私は秀頼様の師匠でござる。よって稽古中は私の事を師匠と呼んで下され。そして私は秀頼様の事を秀頼殿と呼ばせていただく。よろしいか?」
秀頼は驚いた。慶次郎の体から発せられる空気感、言葉の重さがずしりと体に纏わりついてきたような感じがした。しかし、ここで雰囲気に負けてはいられない。その空気を振り払うように、精一杯胸を張って答えた。
「うむ、分かった。その通りにしよう。……お師匠!よろしくご指導くだされ!」
といって秀頼は頭を下げた。
それを見て慶次郎はにこっと笑うと
「よろしい、では秀頼殿、稽古の前に一つ聞いておきたい。
秀頼殿はなぜに武芸を学ぼうとされるのか。秀頼殿の立場であれば、戦場にて軍配を振るうことはあっても、槍を振るうことはないであろう。なぜでござるか?」
「お師匠。確かにそうであるやもしれませぬが、いざという時、例えば敵勢に取り囲まれた時に私が槍の一つも使えなかったとする。すると周りの将は、私を守ろうとするであろう。守る時に何もできない者を守るのと、腕がある者を守るのとでは違うと思うのだ。それに己自身の肝が据わるのではないかと思う。鎌倉殿も実際に槍を振るう機会は少なかったようであるが、腕前は大したものであったと聞く。
そして自分の身を守るためでもある。己が自分の身を守れれば、家臣の生き延びる機会が増えよう。
そんなところでござる……」
慶次郎はじっと聞いていた。
やがてかすかに微笑むと
「私は厳しゅうござるぞ。根をあげなるな」
といって笑った。
「望むところ!」
秀頼は再び胸を張って答えた。
こうして慶次郎の稽古が始まったのであるが、それはとても厳しいものであった。
素振りでさえしたことのない秀頼に、槍を持たせ、一日五百の素振りをさせたり、体力が足りないと言っては、堀で水練を何時間もさせたり、尻の皮が剥けるほど馬に乗せたりさせた。
さすがに見かねた大野修理が、
「ちと厳しすぎるのではござらぬか?慶次郎殿の鍛錬では普通の者でも付いて行けませぬぞ。ましてや秀頼様はまだ幼くござる」
と言ってきた。大野修理だけでなく秀頼が厳しい鍛錬を課せられている事は大阪城の者皆が知っていた。そして秀頼の身を案じていた。
慶次郎は修理に笑って答える。
「なに、修理殿、当のご本人が根をあげておらぬではござらぬか。それに口出しは無用との約条でござる」
笑ってはいるが、慶次郎の態度に改める気配は感じられない。
「うむ、そうでござるが……」
修理はそれ以上は何も言えなかった。
慶次郎の厳しい鍛錬がひと月も続くと、秀頼はすべて楽にこなせるようになっていた。
すると慶次郎は素振りの回数を七百回に増やし、鎧を着けての水練をさせたり、裸馬に騎乗させたりと内容をさらに厳しくしていくのである。
秀頼の体はあざだらけであった。武器を使用しての鍛錬は、槍が中心で、つづいて剣術で、弓はほんの少しの鍛錬であった。
半年もたつと秀頼は背丈も伸び、鍛錬の成果も出て、立派な体躯になっていった。どうやら体は秀吉の血より、淀君の織田家の血を継いでいるようである。
秀頼が関白に任じられる数日前の事
直江兼続は慶次郎を訪ねた。
「慶次郎殿、上様の鍛錬はいかがでござるか?」
「いや、たいしたものでござるよ、筋がいい」
「ほう!そうでござるか!? 私は慶次郎殿に上様が壊されてしまうのではないかと内心冷や汗をかいておりましたわ」
「そうですな。私もいつ根を上げるかと楽しみにいじめておったのですが、なんの秀頼様はいじっぱりでござる」
「ははは、いじっぱりですか!? ははっは」
「ははっは、かっかっか!」
二人は笑いだした。二人とも秀頼の成長が嬉しいのだ。
「お師匠~っ!お師匠~っ!稽古の時間でござるぞ~!どこにおいでか~?」
秀頼の慶次郎を呼ぶ声が聞こえる。二人は顔を見合わせ再び笑った。
こうして慶次郎は戦に関するありとあらゆることを秀頼の体に叩き込んでいった。それは武器の扱い方だけでなく、最も効果的な攻撃の仕方や、受け方などの防御法、戦術など時には座学を交えてであった。