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関白叙任の馬揃え

 豊臣方は大阪城に近い伏見城を攻め落とし、堺を手に入れた。向島では鍛冶村が形成されつつある。信濃の地でも、真田信幸、後藤基次が松本城を奪取した。

 また徳川勢力圏の関東で里見義康が豊臣に帰参し、安房上総を治めている。

 伏見城は徳川方武将に取り囲まれているが、両陣営とも決め手がなく膠着状態だった。

 そこに秀頼が関白に任じられたのである。



一六〇五(慶長十)年九月八日 大阪城


 豊臣秀頼は五月に関白・太政大臣(正一位)に任じられ、改めて関白叙任の披露目を行った。


 この関白叙任については、前田利長・直江兼続・大野修理治長らの働きかけが功を奏したのである。

 征夷大将軍の徳川家康は右大臣(正二位)であるので、それよりも官位が上に位置することになった。

 形式上は天皇の執務全般を取り仕切る位置に秀頼が、その中での一部門である武士の棟梁たる位置に徳川家康が、ということであり、明らかに秀頼の下に家康が位置する。


 披露目式の大阪から京都への馬揃えには豊臣秀頼の名で、豊臣方、徳川方の区別なく参列せよとの知らせがもたらされる。


 当日に参列した主な者は以下の通りである。


 豊臣方

 前田利長

 前田利政……前田利長の家臣であるが、大名格とされ参列を許される。

 上杉景勝

 直江兼続……上杉景勝の家臣であるが、大名格とされ参列を許される。

 真田昌幸

 真田信幸

 真田幸村……新たに大名とされる。

 山之内一豊

 島津家久

 加藤清正

 加藤嘉明

 里見義康

 長宗我部盛親


 徳川方

 池田輝政

 結城秀康

 浅野幸長

 蒲生秀行


 周肥同盟方

 毛利輝元


 徳川方にもかかわらず、参列した大名がいたことは家康にとって、大きな衝撃であった。

 参列しないようにと触れを出すことはしなかったのであるが、触れを出さずとも参列するはずがないと思っていた。参列者が少ないことを笑い、意味のないことであるとするつもりであったのであるが……。

 旧豊臣恩顧の大名だけでなく、息子である結城秀康や譜代に準ずる池田まで参列したのは想定外で、参列を理由に処罰もできるはずもなかった。全国約二六〇の大名の内、百あまりの大名が参列したのである。ほとんどが小身の大名とはいえ驚きであった。


 先年、征夷大将軍として出した「豊臣討伐令」は意味をなさないものになってしまった。


 この事は、徳川家康が征夷大将軍になったとはいえ、徳川政権が未だ盤石ではないことを意味していた。




○大阪城・千畳敷き大広間


 馬揃えに参列した大名たちが列している。

 上座に座した秀頼が下座に座している大名たちに発した。


 「皆の者、御苦労であった。家康殿は来なかったが、領内の仕置が忙しかったのであろう。家康殿には将軍として頑張っていただきたい故、先年家康殿が出された余に対する討伐令なる物に対しては咎めなしとする 」


 あくまでも家康が下の位であることを強調したのである。


 その上で秀頼はこう述べた。


 「関白たる余が官位については一任されておるゆえ、家康殿が独自に出された官位については俗名として認め、今日改めて官位を授ける。左大臣に前田利長殿、右大臣は徳川家康殿が引き続き務めていただく、内大臣に上杉景勝殿、大納言に島津家久殿、中納言に徳川秀忠殿…… 」


 次々と新たな官位が告げられていく。その中で一同から驚きの声が上がったのは、島津家久が大納言に命じられた時と……。


 「左近衛大将に結城秀康殿、右近衛大将に里見義康殿」


 と中納言と同格である二人の名前が呼ばれた時であった。

 秀頼は敢えて家康や秀忠の官位をそのまま認め、器の違いを見せつけた。


 その夜、盛大な祝宴が行われたが、さすがに徳川方、周肥同盟の毛利は参加ししなかった。

 周肥同盟とは徳川、豊臣に属さない第三極を形成した毛利家と鍋島家の同盟である。この時、福島正則は毛利輝元に捕えられて毛利家は福島家を従えている。




 「さて、家格的にも家康に後れをとることはなくなったな 」


 宴のあと秀頼の居室で、親しいものを呼び話していた。


 「上杉殿、ほんに、こ度は御苦労でござった。兼続殿をお借りしており、この秀頼礼を申す 」


 と秀頼は上杉景勝に軽く頭を下げた。


 「とんでもない、このめでたき儀に参列できたことは誇りであります。」


 と兼続である。


 景勝は成長した秀頼を見て確信していた。世を纏めるのは秀頼であると。


 「さて家康殿はどうでますかな? 」


 こう言うのは前田利長である。


 「さしたる動きはできますまい。関東には我がいて迂闊には動けませぬからな 」


 とは里見義康だ。


 「そうか、そうであるな。したら、しばらくは領内の仕置を徹底して行おう。商いを保護し、民を保護してくれ。地力をもっとつけるのじゃ 」


 「はい、それがよろしいですな。民意が上がれば税収もあがりますれば。人も流れてくるでしょう。」


 とは真田昌幸である。


 「利政殿、鎧はどうなっておる?」


 「は、故殿下の申された通りに手を加えておりますが、本日試作をお持ちいたしましたのでお見せいたしましょう 」


 前田利政は手の者に何やらを持ってくるように指示した。


 やがて利政の家臣が一つの鎧を持ってきた。


 「ほう、これか。なかなかであるの 」


 その鎧は、対鉄砲対策として秀吉が前田利長に命じて鎧の開発をさせていたのである。

 兜はすっぽりと被る形になっている。南蛮式の兜を模しているが目の部分は横長に開かれ、視界を保てるようにされている。鎧は魚のような鱗状の鉄片がいくつも取り付けられている。

 和式の鎧に南蛮式のよい所を取り入れた鎧である。


 「で、どうであるのじゃ?鉄砲の玉は通るか?」


 「遠間でしたら大丈夫でございまする。近い間ですと通ってしまいまするが 」


 「うむ、どうせ近い間では鉄砲の戦にはなるまい。では量産しようではないか。

  向島に命じてとりあえず一年で五千を造らせよう 」


 こうして新型の鎧の生産が決まった。


 「関白様、上杉ではやはり故殿下のいいつけで大弓の開発を行っているのですが、弦がなかなか上手くゆきませぬ。今の弦では途中で切れてしまいます 」


 「そうであるか。では引き続き開発をお願いしますぞ。弦の材としては、交易の盛んな里見殿と相談されたがよいでしょうな 」


 秀吉は、前田家には鉄砲に対する鎧を、上杉の直江兼続には強力な大弓(弩ともいう)の開発を依頼していたのである。この大弓は明などで用いられている固定式の大型の弩弓ではなく、持ち歩き式の弩で、銃の引き金を引く要領で発射される。一度に10本ほどの弓が発射される物を開発していた。

 従来の弓は弓手の技量が問われるが、この弩はある程度の修練で正確に射ることができる。


 目立った戦のない間にも、豊臣方の武将たちは着々と準備を進めて、地力を高めていた。


 一方の徳川方は、関ヶ原の戦いの際に、豊臣恩顧の大名たちを引き抜いたように、色々な大名や武将を徳川方に引き入れようと画策したのであるが……。


 関ヶ原以後、豊臣家の方が勢いがあり、加藤清正、福島正則などの実力者が豊臣に帰参したため、徳川になびく者はいなかった。報酬を餌にしようとしても、家康が旧豊臣恩顧の大名に与えた報酬が思ったほどでは無かったため、釣られもしなかった。

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