23.初夏の頃
去年の春から共に旅をし、西の都に落ち着いてからも互いの生活に関わっている実之らと慎太郎は、この一年、一日とて顔を合わせない日はなかった。紫苑と菊は殊に、欠かさず晩飯の支度をしにやってくるので、必ず会う。
「通い妻がいるとは、さすがですな」などと、冗談とも皮肉ともつかない下世話なことをいう輩もいたが、慎太郎は取り合わなかった。いつも気にかけ合う者がいるという幸福は、周囲の喧噪などかき消してしまうものである。
慎太郎は、この平穏な日々が続くことを疑う余地もないほど、彼らの生活に密着していた。閉ざしていた心をほどき、生来の素直さに抗うこともしなくなった。
ゆえに、みなが紫苑を慕う気持ちに目を背けることもやめていた。つまり、己も正直に好きだと思うことにしたのだ。が……
***
その日は、大きな番傘をさして反物屋の前に立ち止まっていた。紫苑と菊に買い物の伴を頼まれたのだ。「用心棒」兼「荷物持ち」であるが、給料などは発生しない。義理と人情で動けるほど、親しみと信頼を得たからだ。とはいえ——
慎太郎は雨雲を眺めた。
ここのところずっと雨模様である。雨期なので仕方ないのだが、今日のように足下で激しくはねる降りの日は、家でおとなしくしているにかぎる。にもかかわらず買い物に付き合わされている現状に、ひどく釈然としないものを感じているのだ。
否。本当は雨など、どうでもよい。ただ憂鬱に拍車をかけるだけである。慎太郎はたまたま、人に会いたくない気分でいるのだ。特に、紫苑の顔は見ていたくなかった。
いっときして二人が店から出てくると、傘を差し出した慎太郎を見て菊が言った。
「あんたは分かってないんだねえ」
「は?」
「こんな日に買い物に出なくてもいいじゃないかって顔してるよ? 違うかい?」
半分だけ見透かされた慎太郎は、にがい顔をした。そこへ紫苑が庇うように口を挟んだ。
「ごめんなさい。こんな日に出かけるなんて、本当に迷惑だって分かっていたの。でもどうしても待ちきれなくて」
「……なにがそんなに待ちきれないんだ?」
「祝言を挙げるんだよ」
と答えたのは菊だ。
「実之と菜々がね。やっと日取りが決まったっていうんで、あたいらも着物をそろえないといけないだろ?」
「ああ、そうなのか。大変だな」
「なに他人事みたいに言ってるんだい。あんたのも用意しておくからね。ちゃんと出席しなよ?」
「な……」
急な話に、慎太郎は困惑した。
「なぜ俺が」
菊がその腕をひっぱたいたのは言うまでもない。
「馬鹿だねえ! うちの道場で働いてんだから、当たり前だろう!?」
「い、いやしかし、次期塔主のあれだろう。かなり場違いな気が」
「また水臭いこと言ってるねえ。みんな出席するんだよ? 場違いなことなんてないよ。それに、あんたほど有名になりゃ、呼ばれて当然さ」
「有名……なのか?」
「なにさ。自覚ないのかい?」
「さほど騒がれていないようだが」
「ほんっとに馬鹿だねえ! にぶすぎるよ!」
菊は呆れて怒鳴るが、そう馬鹿馬鹿言われても、本当にそんな気がしないのだからしょうがないと開き直りつつ、慎太郎は沈黙した。そして、菊が声を上げる横でオロオロしている紫苑に目がいった。見たくないと思っても、会えばつい見てしまうのだ。
毎日のように眺めている顔だが、飽きることがなかった。ころころと表情を変えるせいもあるが、成長期の終わりが近づいているせいでもある。しかしそれゆえに、慎太郎の精神は不安定になった。
十八になった少女はやや大人びて、薄く紅など引いているが、瞳の輝きはまだ幼さを残している。それがどうしても「この最も良い時のまま、永遠に閉じ込めてしまいたい」という不吉な考えをよぎらせるのだ。
太陽を覆い隠す雨雲の下でも明るく透きとおる清らかな肌は、そんな慎太郎を知らない。慎太郎がじれったく思いながら見つめていると、やわらかそうな唇が何か言いたげに少し開いた。だが言葉はもれなかった。
慎太郎は耳を澄ませてみた。聞こえるはずはないが、いまにも囁きが胸に響いてくるような錯覚におちいった。激しい雨音が彼方へ去り、静寂だけが満ちる一瞬に——
紫苑だけを想う幸福に包まれた慎太郎だったが、菊が自分の傘を広げて軒先から出たことで、我に返った。紫苑を自らの傘に招き入れ、肩を濡らさぬようにと気を遣う。それから三人は塔に向かって歩を進めた。長くもあり、短くも感じるその道のりを、慎太郎は無心で歩いた。
***
いつか、何も感じることなく塔の陰を踏めたらと願ったことがあった。
慎太郎は紫苑と菊を塔に送り届けたあと、背を向けながら思い出した。
今日のように雨が降れば現れないのだが、いつも目にする陰がこの時刻どこに描かれるのか、彼はよく知っている。見まいとするほど執着を覚え、避けて歩こうとするほど寄って来る。ならば見てやろうと、目を凝らしたからだ。自ら寄ろうと一歩踏み出したがゆえだ。
苦痛は、今はもうない。日々の葛藤に勝ち、未練を断ち切れたのである。
だが心は相変わらず乱れていた。また自分のもとから去る者に強く惹かれているからだ。二人をつなぐものは何もないのだと分かっていても、心とはままならぬものである。愛しさとは勝手にわき出るもので、力では捩じ伏せられない。
慎太郎は、やり場のない狂おしさにもがいた。
「梅雨が明けましたら、帰ろうと思います」
紫苑がそう言ったのは八日前だ。いつまでも耳に残る声が、慎太郎の心を支配した。長屋の木戸を開けるといつも出迎えていた笑顔が、夏の訪れとともに消える。それが名残惜しく淋しいだけだと思った彼だが、胸の痛みは日々増すばかりだった。そこでようやく気付いたのだ。
紫苑が去っても、菊や菜々が世話を続けてくれるというのだから、淋しくなることはない。痛いのは、紫苑の姿を見ることがなくなるという、ひとつの事実のためである、と。
当たり前に過ぎる毎日の中で、当たり前のように笑顔を見せていた紫苑がそばにいることは、当たり前ではなかったのだと気付かされた瞬間、穏やかに流れはじめていた慎太郎の時は止まった。忘れていた「いつか訪れる旅の終わり」を無理矢理思い出させるように、叩きつけられたようだった。
慎太郎は突然のことに戸惑い、己の心に何が起きたのか把握することさえ、手間取った。だが現実の時間だけは無情に過ぎた。
今も降りしきる雨が、時とともに道を滑り川へ流れて行く。せき止めるものもなく、行方を最後まで追わせることもなく。
慎太郎は傘を傾け、顔に雨を受けた。水無月の雨はあたたかく、熱は冷ましてくれないが、痛みを少し和らげる薬にはなるようだった。
二人の未来など想像すまいと、慎太郎はかたくなに思っていた。だがいつの間にか考えていたのだ。このまま紫苑も西の都に落ち着き、一緒に暮らしてくれるのではないかと。
都合のいい話ではあるが、ああ甲斐甲斐しく世話を焼かれれば、どんな男でも勘違いする。
慎太郎はそのように自己弁護をしてみた。虚しいことは百も承知だ。それでもせずにはいられなかった。
紫苑の目が見えていれば、視線によって分かることもあっただろう。しかし実際に確かめるすべはなかった。ただ行動のみに、心の在処を探すことしかできなかったのだ。そしてそれは、今も変わらない。家に帰るという事実が、慎太郎にとっては紫苑の心のすべてだった。
無償で用心棒を務める俺への礼のつもりだったのか。
いまさら「違いない」と思える答えに行き当たると、慎太郎は情けなくなった。マナとの未来を勝手に夢見ていた少年の頃と変わらぬ自分が、哀れに思えた。
激しく降る雨はいずれ止む。あと二十日も経てば雲間から陽が差し、梅雨が明けるのだ。慎太郎はその時を想い、いつまでも雨に打たれて重くたれ込める黒い雲を見つめた。




