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塔の陰  作者: 礎衣 織姫
第一部
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02.裏切りと転機

 帰って来たマナが浮かない顔で口も利かずに部屋へこもってしまった、と慎太郎は柴門に告げた。柴門は「どれ。私が様子を見てこよう」と言った。額に汗が滲んでいることからも分かるように、彼も気が気ではないのである。


 マナを訪ねた柴門は、そばに寄り、囁くような小さな声で問いただした。

「塔主はどのようにおっしゃったのだ。ご不興を買うような真似はしなかっただろうな?」

 マナは不審げに父を見やった。

「父上は私よりお家が大事なのですか」

「いやまさか。おまえがどうでも慎太郎がいいと言うのなら腹を切ってもいい。しかし少しでも塔主に気が向いたのなら、よく考えてほしいのだ」

「父上……」

 自分のために切腹の覚悟もあるという父にマナは感動し、まつげを震わせた。

「父上はどのようにお考えなのですか?」

 柴門は息をのんで、いっそう声をひそめた。

「むろん慎太郎は可愛い。手塩にかけて一人前の剣士に育て上げたのだ。だがおまえの将来と天秤にはかけられん。一道場主の妻であるより、塔主の妻であるほうが良いに決まっている。私はおまえが幸せだと思う道に進んでほしい」

 マナは困ったように片手を頬に当てた。

「塔主もそうおっしゃったわ。私の好きにして良いと」

 柴門は目を見開いた。

「それは本当か」

「はい」

「で、どうしたい。正直に答えてくれ」

「簡単には決められません。少し時間をください」

 その言葉に柴門は思わず顔をほころばせた。マナが迷っていることを知ったからだ。性格からして一も二もなく慎太郎への純愛を貫くのではないかと危惧していたのだが、やはり人の子だったと。

 塔主は美男であるうえに金も地位もある。年も若い。普通の娘なら心が揺れないわけはないのだ。

 むろん、柴門が慎太郎を良い婿だと思っていた心に偽りはない。だが塔主との縁談が持ち上がると、すすけて見えた。あれほど輝かしいと思っていた未来が、より輝かしいものによって影に没してしまったのだ。

 だからと言って、すぐ欲に溺れるような愚かなことはしなかった。マナが幸せであることが、真に輝かしい未来だと考える理性は充分に残っていたのだ。そして娘に問えば、塔主もマナの幸福を第一に考えてくれるという。有り難いことではないかと、柴門は胸をなで下ろした。

 とはいえ断るというのは、やはり今後に関わる。できることなら受けたい話だと、柴門は娘に期待した。一方で、慎太郎には悪いと思いつつ、やんごとなき事情だと必死におのれを正当化した。

 父親というのは結局のところ娘が幸せであれば良いのであって、実現してくれる男は慎太郎でも塔主でも構わないのだ。冷静に判断すれば塔主に軍配が上がるのは分かった話で、柴門は慎太郎を可愛いと言いながら、もはや疎んじていた。慎太郎さえいなければ、この縁談をどれほど快く受けられたことか、と。腕が立つとは言っても百姓出。見てくれが良いという以外に魅力的な付属品は何ひとつない。そんな男を選ぼうとしていたことがそら恐ろしい、とすら。

 柴門は膝を打った。

「心が決まったら言ってくれ。慎太郎には私から言って聞かせる」

 嬉しそうな父の顔にも言葉にも「どうか塔主に決めてくれ」と書いてあり、マナは戸惑った。実はマナ自身も大きく塔主に心が傾いているのだ。しかしそれが良心の呵責とともにあるのが問題だった。

「でも父上。そんな不誠実なことが」

 少し時間をくれと言った口から、すでに慎太郎を裏切ると白状したのも同然の台詞がこぼれたことを、柴門は見逃さなかった。その目が、一瞬鋭く光った。

「相手は塔主だ。不誠実なことなどあるものか。慎太郎と比べるほうが間違っているのだ。世間もみな当然と思って受け入れるだろう」

「慎太郎の気持ちは?」

「なに。慎太郎もまだ若い。あの面構えだし剣士としても上等だ。すぐに相手が見つかる」

 マナは口をつぐんだ。柴門の言う通り、慎太郎は自分と別れてもすぐに相手が見つかるような男だ。なにか悔しい気もするが、そうなってくれたほうが罪悪感もないと思った。

 一方、娘が黙り込んだのを妖しい意味に受け取った柴門は、やや焦りながら小声で問いただした。

「まさか、契りを交わしておらぬだろうな?」

 マナは目を見開き、とたんに顔を真っ赤に染めた。

「まさか! 正式に婚姻を結ぶまではと……守っております」

 語尾は小さくなったが、それを聞いて柴門はひと安心した。

「では早速、お返事を」

 先を急かす父を見て、マナは「やはり父は塔主のもとへ嫁ぐことを望んでいるのだ」と確信し、覚悟を決めた。

「先に慎太郎に話をしたほうが」

「それは私からする。おまえは輿入に備えて養生していろ」

「父上の口からだけで納得するでしょうか」

「あの男なら、この家とおまえの将来を考えて潔く身を引いてくれるだろう」


 だが慎太郎は信じていた。マナは御上に逆らっても自分を選んでくれる。三年で培った愛は本物だ。彼女の心が変わるはずはない、と。


***


「なんとおっしゃいましたか?」

 慎太郎は耳を疑った。柴門と正座をして向かい合う奥座敷は薄暗い。高い塔の影の先端が太陽の角度でちょうど差しているのだ。

「師範代として道場に残っても良いが、よそへ行っても構わない、と言ったのだ」

 同じ台詞を繰り返した柴門は冷たかった。

 実の父のように慕った者からの心ない仕打ちに、慎太郎の身体は震えた。

「塔主のご意向ですか?」

「塔主を恨むのは筋違いだ、慎太郎。あのお方はマナの好きにして良いとおっしゃってくださった」

 慎太郎は目を剥いた。

「ではマナが……! マナが選んだというのですか!」

「あれは優しい子だ。父である私の立場や道場の繁栄を思いやってくれたのだ。塔主も良い方であるし文句はないのだろう。慎太郎。おまえも男ならマナの幸せを願って潔く引け」

「——!」

 慎太郎は、背筋に刃が走るような感覚を憶え、わきあがる怒りと悲しみに打ちのめされた。

 先日まで自分に向けられていたマナの笑顔が、記憶から泡のように消えていく。それを止められない歯がゆさと、なんの後ろ盾もない己の無力さに、どうしようもなく腹が立った。

 目の前の男。保倉柴門。

 その男の凍てついた表情がすれ違いに脳裏に焼きつく。

 所詮は他人の子。娘婿として迎えようという気がなくなればそんなものかと、慎太郎は悔しくて畳に拳を叩きつけた。


 この三年はなんだったのか。

 慎太郎は道場へ向かう渡り廊下で茫然と立ち尽くした。昨日までの幸せはどこにもないのだが、振り返れば今にもマナが駆けて来て、腕を絡めてきそうな気がした。そんな勘違いがいっそう悲しみを助長し、純朴な青年は傷ついた。

 やがて追い討ちをかけるように、慎太郎とマナが破談になったと聞きつけた門弟たちの、あからさまな態度が目につきだした。会釈はおろか挨拶さえも交わさず、ときおり仲間内で耳打ちなどしながら、慎太郎を見てせせら笑うのだ。

 慎太郎は居たたまれず、稽古場から飛び出した。

 師範代として、マナの将来の婿として、門弟らを大事にしてきたつもりだった。だから事情が変わったからといって、これまでの日々が覆るわけはないと思っていたのである。だが人は、自分にとって得がないと分かればゴミでも放るようにして捨てるのだ。そんなことを思い知らされた慎太郎は、泣くまいと思っていたその目に、ついに涙をにじませた。

「百姓は百姓で良かったのだ」

 慎太郎は空を仰いだ。懐かしい父と母と、土の匂いを思い出していた。

 そうして物思いに耽っていると、どこから現れたのか、紺色の着物と袴を着て笠を被った男がふらりと寄って来た。

「このあたりの道場で腕の立つ剣士がいると聞いたが、おぬし、知らぬか」

 慎太郎は訝しげにしながらも、短く答えた。

「保倉柴門という男なら知っている」

 すると男は笠の下で笑った。

「そんな名ではなかった。風の噂では確か……慎太郎とか」

 慎太郎は驚き、間合いを取るため一歩引いた。その身のこなしを見て、男はピンと来たようだ。片手で少し笠を持ち上げ素顔をさらした。野性味のある厳つい顔だ。年は三十から四十といったところだろう。

「これは失礼した。あなた様でしたか」

 慎太郎は眉をひそめた。

「そちらは?」

 男は口の端をギュッと上げた。

「佐兵と申します。慎太郎様のお噂は遠く西の都まで聞こえております」

「西の都?」

「おや、これはこれは。東の都から出たことのない慎太郎様はご存知ないようですな。世界は広うございますよ、慎太郎様。あなた様のような方は国の隅々を見て回られるべきですなあ」

「なにが言いたい」

「私はあなた様を引き抜きに来たのです」

「引き抜き?」

「その剣の腕、存分に振るってみたくはありませんかな?」

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