11.目覚めて見る夢
いよいよ祝言という日。マナは鏡台の前へ座り、鏡に映る自分と向かい合った。女らしく髪を結い上げ、化粧を施した顔は少し他人のようだ。これまでに経験したことのない緊張と不安がある。塔からの迎えはすでに到着しており、あとは角隠しをして表へ出れば良いだけなのだが、それさえ大仕事のように感じた。
「マナ、用意はできたか」
紋付袴姿の柴門が、そわそわとしながら襖を開けた。マナの顔が向くと、柴門の表情は喜びと寂しさに歪んだ。
「……三国一の花嫁だ。鼻が高い」
「父上」
マナは微笑みながら、目尻に涙を浮かべた。
「そろそろ参ります」
マナが頭を下げると、柴門は何度もうなずいて涙を堪えた。
それは大層な花嫁行列だった。先頭から最後尾までは半里にもおよび、牛車を加えた牛の数は五十、馬の数は百という前代未聞のものである。親族はもちろんのこと、塔の関係者や道場の門弟らが列をなす様子は見る者を圧倒した。
誰もが、マナの選んだ人生は正解だと思った。マナも柴門も決して疑うことはなかった。女なら一度は夢見る玉の輿である。この夢を叶えたマナは町娘らの羨望の的だった。
その夜。
盛大な挙式が終わるとマナは禊をすませ、塔主の寝室に白い着物一枚で正座し、羅山が来るのを待っていた。正直なところ、式より緊張するのが初夜である。マナは粗相があってはならないと、何度も髪に手櫛を通しては結び直したりした。どうせ乱されるのであるが、そこは最初が肝心なのだ。
やがてマナと同じように白い着流しを着た羅山が寝室へ入った。羅山はマナと向かい合うように正座し、その手を取った。何も言わぬまま引き寄せ、布団の上に押し倒す。
何かひと言ないのだろうかとマナが訝ったのも束の間、唇が寄せられ、着物は脱がされた。そうして幾度か繰り返される口づけと愛撫に身体が熱くなった頃、羅山はマナの耳元で囁いた。
「よく来たな。正直、諦めていた」
「……え?」
「町で見かけたそなたは、純粋な目でまっすぐに一人の男を見ていた。余はそれを美しいと感じた。あの一途な眼差しを自分のものにできればと、欲なことを考えた。愚かなことだ」
事の最中に突然そんなことを言い出した羅山を、マナは驚いて見つめた。羅山は皮肉な笑みを浮かべながら、マナを見つめ返した。
「そなたを妻として迎えることに異存はない。だが最初に目にした時の熱は消えてしまった。いっそ断られたほうが、なお熱くなっただろうに、惜しいことだ。余は己の言葉に責任を持っている。そなたの幸福を願っているというのは本心だった。決してそなたの心を掴もうとして申したのではない。もしそなたが純愛を貫いたなら、そなたの幸福のためにいかなることもしてやろうと思っていた。余が惚れたのは、そういう女だからだ」
思わぬ言葉にマナは動揺した。一見やさしい羅山の目に、どこか冷めたような感情が混じっていると、はっきり感じた。
「身分と金に釣られたのか? それともこの顔か。……マナ殿、これに寄って来る女は星の数だ。そなたも星の中のひとつだったとは残念でならぬ。だが大事にしてやろう。純血だけは守っていたようだから」
そう告白してから、羅山はマナの純血を奪った。マナは泣いた。身体を貫く痛みのせいか、羅山を失望させたせいなのか。
否。これから続く薄暗い道を思って、泣いたのだ。
純血だけを守っていた女。
そんなことを言われて愛していけるわけがない。まるで自分の価値はそれのみにあるような発言をされて憤らずにいられようか、と。
羅山はマナを大事にするだろう。しかしそれは、金に不自由のない生活を保証し、塔主の妻として世間様に恥じぬよう身辺を綺麗にしておくというだけのことだ。
思い描いていたような甘い生活はない。明日からはきっと、無味な人生が始まる。
マナは確かな予感に絶望した。
翌朝。マナは一人で目覚めた。枕元にある着物をたぐり寄せて肩にかけ、薄日の射す障子を見つめる。その瞳は虚ろだ。
「どうして私をもらったのですか」
昨夜、部屋を出ようとする羅山にマナが問いただすと、羅山は言った。
「誰を娶っても同じなら、せめて一度は惚れた女を迎えたほうが救われる」
マナは慎太郎と同じだけの愛を期待し、羅山のもとへ来た。甲乙つけ難い容姿で想いの丈が同じであるなら、条件がいいほうを選ぶのは当たり前。そう割り切っていた。しかしそれも所詮、目先の欲にとらわれた者の言い訳だ。三年育てた愛を捨て、ひと目会っただけの男に心変わりした報いだった。
マナは慎太郎を思い出し、また泣いた。あんな裏切り方をしてもマナを見る目は変わらず、最後まで誰も責めることなく黙って去った男——彼こそ、マナのすべてを愛することができる男だったのだ。醜い部分まで好いてくれる相手などそういない。同じ愛など存在しない。
マナはやっと気づいたが、失った時は戻らなかった。
***
一方、剣に生きると決めた慎太郎の心は晴れ晴れとしていた。いつまでも過去を振り返っていた日々に別れを告げ、光が見え出した未来へと向く。その眼差しには、まるでこの世のすべてを味方につけたような空が映っていた。「世界は広い」という佐兵の言葉が、実感として湧いてくる想いである。
実之のおかげだと、慎太郎は心から感謝した。だが実之は困ったように頭をかいた。
「いやなに。よい人材に恵まれず四苦八苦していたところで、むしろ助かるのはこちらのほうだ。恩に着ることはない」
そう言ったのもまんざら嘘ではなかったようで、旅の途中に寄った実之の道場は寂れていた。遠目に、都の塔とよく似た黒い塔が建っているのも気になったが、道場の寂れようはそれ以上に気になった。庭の手入れも満足にせず、瓦は何年もふきかえておらぬといった様子。塀の漆喰も剥がれれば剥がれたままに放置している。
「門弟は?」
「ああ、それだけは結構いる。だいたい五〜六十名だ」
慎太郎は目を丸めた。保倉の道場は少ない時でも二百名の門弟を抱えていたからだ。師範として迎えてくれるのは嬉しいが前途は多難そうだと、慎太郎は改めて道場の中を見渡した。そして軽く床を踏みしめてみた。
古いが頑丈に作られている。普通の稽古を積むには充分だろう。だが慎太郎の本領を発揮するには心もとない土台だ。超人的な跳躍を実現する足である。その踏み込みにかかる力は時に岩をも削ぐ。耐えるには厚くてしなる床でなければならなかった。
慎太郎は申し訳なさそうに実之を振り返った。
「普通の稽古はここで問題ないとしても、手合わせとなると苦しいな。どこか屋外に場所を取れないだろうか」
実之は変な顔をした。当然である。彼はいたって常識人なのだ。まさか踏み込み程度で床が抜けるなどと思うわけはなかった。
「場所がないこともないが……ここで充分だろう?」
「損を承知ならここで勝負してみるか?」
やめておけと言いたげに言う慎太郎に、実之は対抗心を燃やした。
「よかろう。損を承知で受けて立つ」
数分後、実之はやめておけば良かったと後悔した。
慎太郎の最初のひと踏みで床が悲鳴を上げたからだ。実之は嫌な音を聞いたと思った。だが今は試合中。そんな音に構ってもいられない。慎太郎が天井近くまで飛び上がっていて、木刀を振りかざし、鷹のように滑空しながら迫っている。
実之は慌てて避けた。すると空を斬った慎太郎のひと振りが疾風を生み、壁にぶつかった。その瞬間、建物全体がミシッと揺れる。対峙する実之はもちろんのこと、静観を決め込んでいた佐兵も脂汗を流しながら、思わず柱にしがみついた。
次いで、床に足をつけた慎太郎は間髪をいれず身を返して空気を薙いだ。木刀は本物の剣のように景色を切り裂き、奥の壁にかかっている掛け軸を真二つにした。木刀が振られた位置から掛け軸までは約二十尺(およそ六メートル)もあったが、距離など無意味であるようだ。
ど、道場が壊れる!
心で叫んだ実之は、このように情けない降参はないと思いながらも、なりふり構っていられるかとばかりに土下座した。
「参った参った! もうやめてくれ!」
慎太郎は木刀を構えてもう一度踏み込もうとした足を、かろうじて止めた。そして腕を下ろし、謝った。
「すまん。脅すつもりはなかったのだが……型を気にせず振るとこういう具合になる。本当は道場の師範に向いていないのだ」
にもかかわらず、それになろうとしていたのだから滑稽だろうと言わんばかりの慎太郎は、実之から見ても哀れだった。そして、一人の女のために己の剣を封印し続けてきた男の末路がこんな道場でもいかんだろう、とも思った。
「金はかけられないが、人手なら多少はある。見てくれだけでもちゃんとした道場にする。屋外の稽古場も設けよう。それでひとつ手を打たないか」
むろんその先には宮廷が控えているのだが、ここでは言わない。変に警戒されても困るからだ。帝も明言は避けていた。だが確かに見えるものを、実之は信じるしかなかった。
何も知らない慎太郎は断る理由も思い当たらず、うなずいた。見放された未来が紛いなりにも手に入るのだ。互いの益になるというなら、ためらう必要もない。
西に慎太郎あり、と言われるくらいの剣士にはなろう。
自分には大それた夢だと思いながらも、慎太郎はそう決意した。




