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理想はヨンキューキュー

作者: 藤宮彩貴

 登校前の、慌しい時間なのに。

「減らない」

 遠山(とおやま)藍里(あいり)は、今朝も体重計と睨み合っていた。

 来週末までには絶対に落としたい、あと約二キロ。そうすれば、念願の四十キロ台突入なのだ。

 息を止めてみる? もう一度、量り直す。デジタル表示は、無情にも変わらない。

あ、しまった。失敗。息を思いっ切り吐いてから止める、に訂正してみよう。いやいや、それでも変わらないって? 

「いかん。これ以上、数字と格闘していたら完全遅刻しちゃう」

 藍里は自転車を飛ばして学校に急いだ。



 百六十三センチ、五十キロちょい。

 藍里は決して太ってはいないけれど、うら若き乙女としては四十キロという響きに憧れる。五十の大台を一度するすると突破してしまってからは高い高い壁になってしまった、四十キロ台の目標。

まずは、五十を切る。目指せ、四十九.九キロ。略して、ヨンキューキュー。

㊙ヨンキューキュー大作戦。

「五十って、四捨五入したら百だよ百」

 自分でも莫迦げたことを考えている、そう呆れながらも藍里は自転車のペダルに力を込めた。ぎゅっぎゅっと、前へ前へ強く押し出すように漕ぎ進める。

 我ながら、なかなかの推進力に感心しきり。うーん。だけどこれ、カロリー消費どころか、かえって筋力がついちゃったらどうしよう。笑って済まされないものがある。この年で自転車競技かスピードスケート選手のような見事な太腿なんて、いやん。

でも、ただの電車通学じゃ、たいした運動にならない。おなかの出ている中年サラリーマンたちを見れば、痛いほどよく分かる。かといって、藍里は運動系の部活もしていない。

 藍里の通う高校は、自宅から丘をひとつ越えた向こう側にある。このきつい上り坂さえ越えれば、あとは目の前に広がってくる川沿いに進むのみ。最後は、下り坂の惰性だけで到着できる。

 雨の日以外は自転車通学に切り替えて、はや一週間。体重計のお告げによると、現在のところ藍里の体重は『微減』。

 どうしてこんなに、藍里がダイエットを頑張っているかというと。来週末に高校の友人たちとちょっと遠出して、温泉のテーマパークに遊びに行くことになっているから。

水着着用の温泉だから、プールに行くような感覚の延長でいたけれど、参加者を募っていたら隣のクラスにまで話が大きく展開して、プチ遠足状態になってしまった。しかも、追加参加希望者の中に、藍里がひそかに片思いしている彼、市原(いちはら)(さとし)までもが含まれていた。

 藍里は飛び跳ねて喜び、友人の響子(きょうこ)とたまたま出かけた新宿で、ついうっかり確信犯的に新しい水着を買ってしまった。強くは意識していなかったけれど、気合が入っている自分がそこにはいた。

しかも、藍里が手にしていたのは、やや露出が高いセパレート水着。布地の部分が少ないのに、そのかわいさに惚れた。大きな花柄がプリントされていて、背中も大胆に開いている。売り場でも一応試着したから、今の体重でもどうにか着られるものの、もっと痩せないと体のお肉がみっともない。

 だから、来週末までに、なのだ。

あと二キロ、四十キロ台に落とせれば、いい感じに着られると固く信じている。だが、確証はない。

 普段はクラスも違うから、接点の薄い市原に気がついてほしい。あの水着が似合う自分になれば、積極的に話しかけられる、そんな気もする。あの水着は、あえて自分に与えたプレッシャーのようなものだ。

 市原は目立つ男子ではない。けれど、いつも姿勢よく颯爽と歩いている姿が藍里の心を捉えた。顔も成績もごくごく普通。背丈だってそれほど高くない、どちらかというと文化系男子。だけど、市原の歩いた後には心地よい風が吹く。

聞けば、市原は茶道の家に生まれたらしい。確かに、そんな雰囲気をまとっている。分かる。正座とか、得意そう。

藍里には、前かがみでのそのそとゆっくり歩く若者が許せない。まるで虫みたい。それに比べ、市原の真っ直ぐで正しい背中は魅力三割増しだった。自分は背骨フェチ、なのかもしれない。

 今日もおやつ、間食は我慢。

っていうか、とりあえず来週末までは、なにもかも我慢の子。



 今まで、まじめにダイエットに取り組んだことがない藍里は、すぐに行き詰まった。時間もないのに。

なので、体重を減らすために髪の毛を切りに行った。 肩下まで伸ばしていた髪を、久々にボブまで切ったら、驚くほど、頭がすっきり軽くなった。手っ取り早く体重が小数点以下の世界で少し動いたから、小躍りして喜んだが、体型にはなんの効果もないことに切り終わってから、はたと気がついた。

莫迦莫迦。

数字も目標だけど、体そのものが変わらなきゃ、意味がない。無駄な努力よ、嗚呼。

「育ち盛りの高校生なんだから、体重を減らすなんて無理よ。体を壊したらどうするの」

 母親にも注意される。いえ、二週間だけでいいから、育ちたくないんです。ごめんなさいお母さん、こんな不肖な娘で。

 人間の体の多くは水分でできているというから、水を飲み過ぎないようにすればいいのかなあ。でも、素人考えは危険。ごはんを抜き過ぎるのも怖い。おなか空くし。第一、倒れでもしたら温泉に行けない。それは、本末転倒。ここで転ぶな、倒れるな。

 いっそのこと新調セパレート水着はやめて、手持ちのワンピース水着で行こうかと何度も考えた。見られたくないけど、彼だけには気がついてほしい。話がしたい。私を知ってほしい。目立ちたい。藍里は焦った。



「おなかだよ、おなか。引っ込んでほしいのはおなか」

 日々の努力も空しく、効果的な作戦も特になく、プチ遠足はもう明日。

 最後の手段、ほんとうは使いたくなかった邪道だけれど、ええい仕方がない、藍里は家の薬箱を大々的に捜索した。

「確か見たはずなのになあ、この前カゼひいたときは。ここの中にあったのに。さては、誰か飲んだか?」

 目当ての薬は発見できなかったので、藍里はふて腐れて荒々しい手つきで箱をしまった。

けれど、今日だけはここで簡単に諦めなるわけにはいかない。家の隣には藍里のおばあちゃんが住んでいる。そちらの薬箱を拝見させてもらおう。一刻の猶予もない。とにかく明日の朝までに、このお腹の肉をどうにかしないと間に合わない。藍里は藍里なりに真剣だった。

 自分の家の庭を突っ切って、藍里は隣の家に入った。

「おばーちゃん、薬箱見せてー!」

居間にいるだろうおばあちゃんに声をかけて、勝手知ったる靴箱の隣の棚から引き寄せたるは薬箱。

「薬? どこか痛いのかい」

 普段は元気そのものの藍里。いつになく必死感漂う藍里を察して、足が悪いおばあちゃんが居間から出てきて様子を見に来ようとするから、それをどうにか押し留める。

「い、いいのいいの! 無事! なんともないの。明日、出かけるとき電車やバスに長く乗るから、酔い止め薬でもないかなって。おばあちゃんは座ってて、ね」

「そうかい。だけどね、酔うことを気にするあまり、暗示にかかって酔ってしまうものだよ。心配し過ぎもどうか思うがね」

「うん、だいじょうぶ。酔い止め薬は、いざというときの保険っていうか、お守りみたいなもの! 持っているだけで安心、備えあれば憂いなしってやつだよ」

 木箱の中には、見たこともない薬がたくさん。ヨシ子おばあちゃんは、父方の祖母。八十をいくつか越えている。当然、物持ちもいい。薬箱の整理なんて、軽くこの二十年はしていないと思われる。思わず、藍里は苦笑した。

「これは……期限が切れてる。一回も開けたことなさそうだけど、やだ、一九九九年七月? 二十世紀の遺物じゃん。しかも、大予言の月、だっけ? ちょっと、何年前なの」

 不気味な薬を押しのけて進んでゆくと、一番下の段に『そうしん丸』と書かれた紙袋があった。

「そうしん? やっだ。まさか、痩身? やだ。まさか、おばーちゃん、これ飲んでダイエットしていたこと、あるのかな」

 おばあちゃんとダイエット。結びつかない。

 でも、今の私には秘薬かもしれない。

 藍里は目を輝かせて、その薬に喰らいついた。もともとは真っ白だったと思われる外袋はやや黄ばんでいて、いかにも古そう。またしても期限切れかも。藍里は心配したが、使用期限について、袋にはなにも書かれていない。

 薬そのものは、ころんとした小さな球状で、黒い粒。オシロイバナの種を思い出させる。名前からして、漢方薬に近いのかなと推測したが、これといった匂いもない。

「薬、だよね。ちゃんと薬箱に入っているし。見たことも聞いたこともない、けど」

 おばあちゃんに薬の出所をいちいち訊ねるのも億劫。っていうか、たぶん、こんな薬のこと、忘れていると思う。

 袋の注意書きも、難しい漢字とカタカナだらけでよく解読できなかった。読んでいるうちにつっかえてしまう。そんな無為な作業にいらついた藍里は、とりあえず二錠、頂戴することにした。それを自分の部屋に持ち帰って机の上に並べ、飲むかどうかさんざん悩んだ挙句、覚悟を決めて、寝る前に一錠、ごくりと飲み込むことにした。

 どうせ、あともう少しおなかの肉がどうにかならないと、明日は遊びに行けない。これを飲んでなにも起こらなかったり、むしろお腹が痛くなってどうしようもなくなって、出かけられなくて後悔しても、それは結果論。

 だったら最後の頼みの綱、この痩身丸に賭けるしかない。

潔く行け、女勝負師・遠山藍里!

「に、苦っ……! なにこれ。み、水」

 薬が通り抜けた舌と喉が異様に熱い。ぴりぴりする。藍里はそのままベッドに倒れ込んだ。机の上のコップの水が遠い。ちょっと、まだ、歯磨きもしていないのに。目覚まし時計もかけていないよ。明日、起きられなかったら、この薬を恨む。

 ばたり。藍里は意識を手放した。



 翌朝。

 早くに目覚めてしまったものの、寝起きは意外にすっきり清々しかった。気分も悪くない、っていうより、むしろ普段より格段に、いい。素敵。

「爽やかな朝だなあ」

 大きく優雅に伸びをして、さっと身を起こした藍里は、異変に気がついた。

 体が……いやに、軽い?

 自分の部屋を飛び出た藍里は、脱衣所に置かれている体重計に向かって、どどどと階段を駆け下り、走った。

「うわ、五十切ってる。すごい」

 デジタル表示は、ヨンキューキュー。四十九.九キロ。

 ほんとうは昨日、薬箱で探していたのは下剤なのだ。そんな姑息な手に乗らないで、素晴らしい薬に出会えたことを心から感謝した。ってか、痩身丸もかなり覇道もの? ううん。細かいことはこの際、考えない。自分は運がいい。ありがとう自分。よくやった自分。努力した甲斐があった。

 浮かれ気分で藍里は早速水着になり、着脱が簡単で、しかも女の子っぽいワッフルみたいなふわふわワンピースを上に着る。全身鏡で確認。いい感じ。気分はもう温泉リゾート(笑)。

 とどめに痩身丸をもう一錠飲み、足取り軽やかにスキップで待ち合わせの駅に向かった。



 電車を何度か乗り継いで、山々の麓へ。バスで山を上る。天気はあいにく曇り空だったか、雨はないようだ。まずまずの温泉日和。

「一度、来てみたかったんだよなあ」

「真夏のプールとはまた違った感じだから、楽しみ」

「長湯して、のぼせるなよ」

 一同、テーマパークまで続く坂を、だらだら上がってゆく。休日だけあって駐車場も混んでいる。それなりに賑わい、混んでいるようだった。

 どれだけ人が多くでも、藍里の目には前を歩いている市原聡の凛とした姿が映っている。今日もしゃんと背筋が延びていていい感じ。白い無地の長袖シャツにジーンズ、なんていういかにも定番でラフな私服だけど、よく似合っている。

 何を話しかけようか。今ならなんでもいける気がする。痩身丸でいい感じに均整の取れた体を手に入れた藍里に、怖いものはなかった。神さま、今日のチャンスをありがとう。できれば、自然に話しかけられるチャンスもください、なんてね。強欲?

 こういうときは思い切りが大事。藍里は温泉の館内着を脱ぎ捨て、胸を張って堂々と歩いた。

 高校生にしては派手な色合い、けっこう際どい水着に振り返る人が多い。

 どうだ、私だってやればできる。見よ、この若さ。この肌、そしてこの体型。えへん。

 プチ遠足の我が高校軍団は、それなりいくつかのグループに分かれて温泉を楽しんでいる。藍里は響子に付き合ってもらって、市原聡がいる風呂を探した。堂々と乗り込んで行ければいいのだけれど、向こうが引くかもしれない。まずはお友だちから楽しく、ってことで。

 事前の調査では、市原聡に彼女はいないということになっている。

 市原聡は数人のクラスメイトと一緒に、屋外のコーヒー風呂につかっていた。なんだって、コーヒー。コーヒーじゃ、せっかくの水着がよく見えないんだけど。藍里は内心恨めしく感じたが、そこは話術で! そうそうプラス思考。

 湯は茶褐色。透明度は低い。なんでも、飲めるコーヒーをほんとうに投入しているらしい。ふわっとあたりに漂う、コーヒー豆の香り。

「カフェインで目が冴えるかも」

「体も冴えるといいんだけど」

 ちゃぷん。

 藍里は響子と一緒に、笑いながらコーヒーの風呂に入った。

 ……むにっ。

 む、むにっ? 藍里は嫌な予感がした。肉がふやけるような、膨張するような感触。よっぽど変な顔をしていたらしい、響子に心配されてしまった。

「だいじょうぶ? こういうの、苦手?」

「う、ううん。入ったら、意外に普通のお風呂だった」

「薄いコーヒーね」

「そうだね、薄いコーヒー」

「飲まないでね」

「まさか、飲まないよ」

 響子との会話を続けながら、藍里は自分の体の変化をじわじわと悟っていた。

 ……ムダ肉が水分を吸って、風船みたいに膨れてゆく。体が、元に戻っている。水面の下で、無情にも、おなかの肉がゆらゆらと揺れている。まさか、痩身丸の効き目、切れた? おばちゃんの薬箱から、袋ごとごっそり持ってくればよかった。

お目当ての市原とはもう背中合わせ。絶好の会話チャンスなのに、どうしよう。湯は茶褐色とはいえ、このままじゃ、体型の崩れを見られてしまうのも時間の問題。

「あれー、B組の市原くんだよね。こっち、A組の藍里と、私は響子」

 この期に及んで急にだんまりの藍里を見かねたのか、唐突な会話に突入させる響子、相当強引。

 幸い市原は話に乗ってくれて、笑顔を見せてくれた。

「知ってる知ってる。合同体育のとき、遠巻きに見てる」

 ここの温泉は初めて? とか、他愛ない話題で場をつなぐ響子。嬉しいけど、全然ありがたくない。自分の体がどうなっているのか、ここは一刻も早くお風呂を出て確認したいところなのに。藍里は焦った。湯のせいで、余計に汗が吹き出る。

 全然会話に乗らない藍里は、湯の中で響子にどつかれた拍子に、肉がぷるんと揺れた。どうなっているの。せっかくの市原の前なのに、もう泣きそう。

 呆れたのか、見切りをつけたのか、気を利かせたのか、響子は適当に理由をつけて、さっさとコーヒー風呂を出て行った。異変に気がつこうとしないなんて、友だち甲斐のないヤツなの。

 ……私は出られない。

 市原が先にどこかへ行ってくれれば、藍里も風呂から出られるが、市原にその気配はない。むしろ、話しかけてくる! 嬉しいのに、こんな悲劇ってない。

「温泉、好きなの?」

「ええ、まあ。けっこう」

「俺も。今日は、A組の部活仲間に誘われて来たけど」

「ほかの風呂にも行ってみた? 種類、たくさんあるよ。さっき、子どもに混じってスライダーしてきた」

「うん。楽しそうだね」

「遠山さんも滑ってみるといいよ。けっこうなスピードが出てさ、水着が破けるかと思って冷や冷やしたけど、おもしろかったな」

「うん。あ、あとでね」

 目の前を、子どもたちや多くの家族連れが無邪気に通り過ぎる。休日の開放感が生み出す、その絶対な明るさと悩みのなさに嫉妬。ああ、どうしよう。今、ここから絶対に出られない。頼みの綱の、我が痩身丸よ、どうしたの。

 市原聡は動こうとしない。さっきまで一緒にいた響子は遠くの風呂でクラスメイトと、きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうな声を挙げて遊んでいる。その様子が恨めしい。

 まずい。のぼせそう。息苦しい。目の前がちかちかしてきた。

 露天風呂だからそれほど湯温は熱くないはずだけど、限界がある。

 藍里は市原を横目で見た。半身浴状態で、気持ちよさそうに手を伸ばして風呂を満喫している。この人、長湯体質なんだろうか。根負けしそうだ。でも、このお肉ぷにぷにの体は、決して見られたくない。藍里は必死に首まで湯に浸かり直す。

できたら、コーヒーをもっと追加して。お湯を濁らせてくれ。いや、是非ともお願い。

 ……ん?

目が回る。あれ、視界が暗い? 黒のカーテンが下りた? 違う、これ、コーヒーの黒。いいえ、お湯はそんなに黒くなかった。



 目が覚めると、そこは無機質な部屋だった。クリーム色の天井、クリーム色の壁、クリーム色のカーテン。コーヒー色ではない。

 それに、静かだ。

「はっ!」

 慌てて身を起こした藍里は今日の記憶を辿る。確か、温泉に来て、風呂に入って、そこで。

「気がついた?」

 水着の上に、青い館内着を羽織った市原聡。藍里自身も同じものに袖を通している。

あれ、れえれれれ? いつの間に?

「のぼせちゃったんだよ。さっきまで、きみの友人さんもついていてくれたけど、それほど心配なさそうだから、俺がここに残ることにして、せっかく来たんだし、遊びに戻ってもらった」

「こ、ここ?」

「救護室」

「きゅうごしつっ?」

 なんとなく状況が掴めてきた。コーヒー風呂で我慢比べ状態になってしまって、意識が朦朧として……ああ、情けない! 温泉でいちばんやってはいけないことをしてしまったの、自分? この状況。もしかしなくても、救護されたのか?

「ごめん、市原くん。楽しい休日がこんなことに」

「仕方ないよ。体調が悪くなることぐらい、誰にだってあるし。それに遠山さんは体が軽かったから、ここまで運ぶのも大変じゃなかったよ」

「は、は、運んだ?」

「うん。いわゆるお姫さま抱っこでね。事後承諾になっちゃうけど」

 倒れた自分を想像してみた。

たぶん、だらしなく気を失ったと思う。緊張を失った体はさらに重みを増し、水の中から抱きかかえるなんて、健康な高校生男子でも相当な負担だったはず。

 それに、このおなか。この太腿の肉。明るい空の下ですっかり見られてしまったわけ? 全然知らない係の人に丸投げしてくれたほうが、後腐れなくてよかったよ。藍里は市原の親切を恨みそうになった。『ありがとう』を述べる藍里の口調も、かなりぎこちない。

「似合うね、その水着」

 けれど、市原はこう言ってくれた。私の耳、ずいぶんご都合主義になったものね、と藍里は己の聴力を疑った。

「や、やだ、太ってて、恥ずかしいっ。ほんとはもっと痩せて来るはずだったのに、こんな見苦しいものを見せちゃって。目に毒だったよね」

「なに言ってんだよ、そんなことない。痩せなくていいよ。遠山さんは、そのままで充分かわいいから! 短く切った髪も似合うし。長いままでも、よかったけどさ。ここ最近、遠山さんは自転車通学なんだね? 朝、同じ時間の電車で会えなくて、内心悲しかった。 気がつかなかっただろうけど、遠山さんがいる隣の車両に、毎朝合わせて乗ってたんだよ、俺」

 市原聡は、藍里を見ていた。

 ねえ。神さまの存在を、信じてもいいですか?



 すっかり元気を回復した藍里は、市原と温泉に戻った。けれど、温泉に入る気力はさすがにもうなく、響子たちの姿を探しに行っただけ。倒れた藍里のことをまだ心配しているだろうから。それなのに、プチ遠足集団の一行は影すらなくて、間もなくふたりは取り残されたことを知った。

 とりあえずここから引き上げようか、市原とそんな話になって、困った藍里は更衣室から響子に電話をかけてみた。

驚いたことに、『帰りの電車の中』だというではないか。『温泉はほとんど入っちゃったし、じゃあ地元で打ち上げしようってことになったの』、と。しかも、プチ遠足集団はいくつかの仲良しグループに分かれて、とっくの昔に解散したらしい。

「元気ならよかった。みんなにも言っておくよ。でも、藍里は来なくていいから。今、市原くんと一緒なんでしょ。じゃ、電車の中だから。報告は、月曜日にでも聞かせてね」

 こっちの返事も待たずに、早々と電話はあっさり切れた。

 そんな会話を市原に報告したら、市原のほうも友人たちとだいたい似たような電話をしたところだったようだ。

 藍里は憤慨した。

「みんな、実に薄情だなあ。せっかく温泉地に来たんだから、観光とかさ、お土産とかさ、食べ歩きとかさぁ。地元のほうが楽だからって、なんでさっさと帰るかな」

「俺とふたりだけで行けばいいよ、お姫さま。さて。わたくしが、お荷物をお持ちいたしましょう。ね、藍里?」

 大きく頷いた藍里は、すっかり機嫌を直して市原と楽しく遊んでから帰宅した。



 週明けの、月曜日。

 ハードな丘越えをともなう自転車通学は、あっさりとやめた。市原と、藍里の乗る駅から一緒に登校することにしたから。

 朝も余裕を持って起きて、ちゃんと朝食をとる。昼も夜も食べる。気分転換に、おやつも食べる。

 無理なダイエットは、もちろん中止。

背伸びばかりしないで、藍里は自分らしく気長に頑張ろうと決意を新たにした。これから寒くなる季節に向かうから、体を保護するための脂肪は余計に落ちにくいのだ。のんびり、でいい。

 でも、気になるのはあの薬『痩身丸』の正体。

 納得がいかない藍里は、おばあちゃん家の薬箱を再びひっくり返してみることにした。どうにもうさんくさい薬たちを掻き分けて、あの紙袋を取り出す。

「あった。これだ」

 黄色く変色した袋をよく確認してみたら、記憶と違っていた。

「痩身丸、そうしんがん、そう、しん、が……んっ?」

 袋の文字をよく見れば、藍里の期待していた『痩身丸』ではない。『想身丸』ではないか。先日これを見つけたときは、ダイエット……痩身のことしか頭になかったから、藍里は袋をぱっと見て、これは『痩身丸』だと勝手に脳内変換してしまったらしい。なんとも早計だった。

切羽つまっていたとはいえ、こんな得体の知れない薬、よく飲んだな、自分。副作用とか、害がなくてほんとうによかった。藍里は自分の無謀さを心の内で嘲笑した。

「それにしても。想身丸って、どういうこと?」

 自分が思い描いたような体型になれる薬、ってことかしら。けれど、期待していたより効果は薄かった。

 相変わらず説明書きは難しくて読めないが、長時間湯につかると効き目が切れる、と書いてあるに違いない。たぶん。経験則。じゃあ、体が軽くなったように感じたのも、薬の作用によるただの思い込み? 体重が減ったのも単なる目の錯覚?

 こんな、魔法みたいな薬が常備してあるなんて。ここの家の薬箱は混沌(カオス)だ。理解不可能。

 こんな薬を保管しておくなんて、おばあちゃん、お茶目ね。そうだ、おばあちゃんはこの薬を飲んだことあるのかな、今度聞いてみよう。それとも、存在そのものをすっかり忘れているかしら。

今日はまだ、だめ。聞けない。市原の前で晒してしまった自分の恥っぷりを整理して、笑い話にできるまではもう少し時間がかかりそうだから。

おばあちゃんに見つからないように、藍里はそっと静かに薬箱を元の位置に戻す。

 藍里の頬には、クスリと小さい笑みがこぼれた。   (了)


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