星の話
どこにでもあるような話ですが、よろしければ読んでください。
遠くで馬のいななきが聞こえた。
夏を終えたばかりだというのに、今日は朝から寒かった。日が落ちると、体の芯までこごえそうだ。夜空のかなたまで見透かすことができるほど空気が澄んでいるのは、きっと空が冷え切っているせいだ。
寒いのは空のせいばかりでもなかろうに。
彼は痛みを感じなくなった半身をさすり、笑いたくもないのに笑った。もう、笑い声に調子を合わせてくれる者も、罵ってくれる者もいないと知って、さらに声を高げた。
ついさきほどまであれほど満ちていた悲痛な呻きも、怨嗟の声も消えていた。離れ駒の悲しげないななきだけが、澄んだ世界を遠慮がちに巡っていた。
いくさがいつ終わったのか、どちらが勝ったのか、知らない。知りたいとも思わなかった。このいくさのことについて、初めからなにも考えてはいないし思うところもない。一番重要なこと、それは、半身が、痛みと一緒に切り離されたように動かないこと、その意味。
満天の星は、恐ろしくなるほど輝いていた。空のすべてが光っているようだ。本来ならそれは美しい光景のはずなのに、ただただ怖かった。吸い込まれていって、帰って来られなくなるのではないかと、彼は強く目を閉じた。
そういえば。ふと、思い出す。
星を落とそうと思ったことがあった。
幼い頃のことで、たった今まで思い出すこともなかった。それぐらい古い話だ。
彼は木板でできた家の屋根によじ登り、木切れでもって星を突き落とそうとした。もう少しで届くのに、という悔しい思いを覚えている。もう少し、あとほんのちょっぴりなのに、と。
手を伸ばせば届きそうな星は、彼が歳をとるにしたがい、遠ざかっていった。いつだったのか、指では触れられないことを知り、どんな棒でも届かないと悟り、やがて、そんな馬鹿げた話を笑い飛ばしていた。
馬鹿な話だ。あんなに遠くにある星を、この手で握ろうなんて。
彼は知らず知らずのうちに星を見つめ、動く方の手を伸ばしていた。
不思議な話だ。屋根に上って飛び跳ねる力なんてもうないのに、星を掴み取れるような気がする。地面に倒れ、名も知らないむくろに頭を預けているだけなのに。
不意に、息子のことを思い出した。涙が出そうなのに、なぜかまた笑ってしまった。
そうか、あいつが木によじ登って、必死になってなにもない空をかきむしっていたのは、あれは、同じだったのだ。あいつにとっても、星はすぐ近くにあるものだった。
なにをしているのかと密かに相談した妻へ、この発見を伝えたかった。そして、彼自身も昔そうだったと教えたかった。
あいつもいつかわかる。星には届かないのだということが。
・・・・・・本当に届かないのだろうか?
幼い頃の悔しい思い。あんなに悔しくて地団太踏んだというのに、あれほど必死になったというのに、本当に届かないものなのだろうか。
分別のある大人が見れば子供のたわいない遊び、いっそほほえましいくらいだが、子供にとってすれば、その悔しさはともすれば切ない。
彼は手を伸ばした。
星をあきらめて以来絶えていた感情が、指を大きく開かせた。
届く!もう少し、あとほんのちょっとで!
本当に願っていた。いや、挑んでいた。
あの星を掴み取って、それは一かけらでも、光のしずくだけでもいい、大事に握りしめて、息子の前でそっと開いてやるのだ。お前ならもっと大きな星を掴み取れると言ってやりたいのだ。
あるいは、もしかしたら、昔の自分にも同じ言葉をかけたいのかもしれない。
強く握り締めた手を、彼は眼前で開いていった。
土くれと血で汚れた傷だらけの指の中に、はたして、輝きはなかった。
絶望という名の鬼が、彼の体から力を奪っていった。まるで地面に溶けていくような、すさまじい脱力感が彼を支配しようとしていた。
どれほど強く思っても、願っても、挑みかかっても、届かないものは届かない。そんなこと、当たり前の話・・・・・・
視線が泳いで、周囲のむくろが視界に入った。
硝煙の臭いと血と汚濁にまみれた光景の、星の輝きとの違いはどうだろう。地べたを這いずり回るこの姿で、なぜ神々しい輝きに触れられるというのだ。
絶望が、麻痺していた恐怖を呼び覚ましたのか。
目の前にある光景は、彼自身の姿でもあるのだと、唐突に思い出し、彼は心の底から叫んだ。
誰か、助けてくれ。妻と子のいるあそこへ、帰らせてくれ。ここで、こんなむくろになりたくない。妻に会いたいんだ、息子には教えることがまだ山ほどあるんだ。助けてくれ、まだ死にたくない!
もがくように手を伸ばした。誰かが、この手に気付いて駆け寄ってくれるような気がした。今にも声が聞こえるような気がした。おい、大丈夫か、すぐに助けてやるぞ。そんな声が。
しかし、いつまで経っても声は彼の耳に届かなかった。彼自身声をあげる力もなく、目じりから流れ落ちた涙が血と泥を洗った。
苦しいほどの静寂。
と、伸ばした手の先端、指先のほんの一点に、触れるものがあった。感じ取れたのが不思議なほど、ほんの微かな感触だ。
彼は指先を見て、そして、笑った。
白い輝きが、そこにあった。小さいけれど、とても美しい輝きだった。
星が・・・・・・
彼は静かに手を握り、胸に置いた。
帰るまで、けして手はあけない。強く、強く握り続ける。
やがて小さな星は死者たちへと降りてきた。一人ひとりの上へやさしく触れて、淡く溶けてゆくものもあった。
いつしか星は彼らを覆いつくして、地を白銀に彩った。少しばかりの時間はかかったが、彼も、星に埋もれて眠った。
遠くに馬のいななきがあった。
読んでいただきありがとうございました。