死神と機械仕掛けの破壊者
「うわッ……」
美鶴はアパートの部屋のドアを開けた瞬間、堪らずそう呟いた。
部屋の中に充満する潤滑油の匂い。部屋に上がり奥を覗けば、鎌錐の前に座り込んで何か作業中の広くない背中が見える。西徳付属の制服を着た少女であった。こちらに気付いていないのだろうか、と美鶴は疑問符を浮かべた。
黙って様子を伺っていれば「瑠璃ちゃんとデレデレしちゃってさ、螳螂から飛蝗にしちゃうぞ」と独り言まで言い始める始末。
堪らず苦笑を漏らすと、靴を脱いで部屋に上がり込んだ。飛蝗は精神的にも肉体的にも辛いだろう。少なくとも頭と地面がスレスレだ。
「何、人の部屋でぶつくさ言ってんだよ、由佳里」
美鶴はブレザーを脱いで、ハンガーに掛けた。持っていた学生鞄は部屋の隅に立てかけて、由佳里から少し離れた場所に腰を落ち着けた。
不機嫌そうな由佳里は「何も言ってないよ」と答え、美鶴の方を見ようとはしない。
「はぁ~、お茶でも飲むか?」
美鶴は困り果てた様子で頭を掻いた。部屋の唯一の窓を見れば、既に全開にされていた。
残念なことに風通しが悪いためか部屋中に匂いは篭っている。鼻腔を満たす油の臭いに顔をしかめた。この臭いには馴れることが出来そうにない。
「別にいい。冷蔵庫の牛乳をホットミルクにしたから」
「人の身長成長ドリンクを飲んだのか、勝手に!!」
「あー、ごめん。でも諦めも肝心だよ? てか牛乳で身長伸びるっけ?」
微笑を浮かべながら由佳里が身体を半分、後ろに向けた。
美鶴は内心ホッと胸を撫で下ろした。そこまで気分を害していた訳ではなさそうだった。
「諦めねぇーよッ!! まだまだ俺は成長するんだ!!」
「…………可哀想に」
力んで宣言したものの、由佳里の憐れむ視線が突き刺さって消沈した。がっくりと両手をついてうな垂れる。
由佳里と美鶴の身長差は一センチ、美鶴の方が高い。まだ何とか差があった。ちなみに去年は五センチの差。美鶴の身長が去年と較べて〇.五センチの成長ということを考慮すれば、今年は由佳里に成長期が来たようだった。
それよりも由佳里が何をやっていたのかと見れば、鎌錐の脚部の整備中であった。
取り出されたショックアブソーバーや、カーボンナノチューブの人工筋肉などが青ビニールの上に転がっている。
美鶴はこの前の任務で誤って相手と衝突したことを思い出した。由佳里はその時の破損がないか、不具合が生じていないかのメンテナンスをしているのだった。
「毎度毎度、悪いな。俺は整備の腕はからっきしだからな」
「別にいいよ。私は君の補助者だし。まぁ、一人で無理な時は竹ちゃんがいるから」
由佳里は別に気にしていないと言いたげに、首を軽く左右に振った。美鶴のそんな由佳里に心から感謝の念を抱いた。しかし気恥ずかしさから、口にすることは憚られた。リモコンを見つけ出すとその電源ボタンを押した。
次第に流れ出したニュースは今なお、二社の総裁の会談の話で持ちきりであった。他にあるとすれば増加傾向の騎士犯罪への対策、首都圏の某企業の工場で放火があったなど。
他に面白い内容の番組がないか探そうと、チャンネルを回してみる。
「君は、外部居住区がなくなると思う?」
唐突に由佳里が美鶴に問いかけた。横を見れば、作業の手を止めて由佳里が視線を寄越していた。憂いを帯びた濡れた眸が向けられていた。その問いに対する答えは簡単に出せる。
「無理だろ。現状では不可能だ」
美鶴によって適当に回された番組では、ブサイクなネズミが痩せ細ったネコとの逃走劇を繰り広げていた。初めて目にするアニメだった。
「でも騎士があるわけだし、希望は無きにしも非ずじゃ──」
「壁の向こうにいるのが、難民と企業に雇われたランカー共なら可能だろ。けど、まだ残ってるだろ。一〇年近く経ったけれど、まだ動いてるだろ」
隔離壁にはかつて防衛壁と呼ばれていた時代がある。
理由は日本国土の中から侵入されることを防いでいたためだ。
二〇二五年の大崩壊が残した負の遺産。完全自律型兵器──プレデターの存在を。
人類は戦争において戦う役目を機械に託した。そして歯止めの利かなくなった機械兵の破壊活動によって、全てが崩壊した。
企業連合体が世界再生の足掛かりとして、アンドロイドを用いて各国の都市周囲を障壁で囲い、可住地域を形成して久しい。大崩壊後、僅か二年という年月で壁が建造された。
現在ではその障壁は企業間の抗争のために、本来の防衛という意義を変え、明確な境界線、縄張りの証となっている。
「でも、騎士の機動性もあれば、日本中のランカーが共同でやれば殲滅可能でしょ」
「そう都合良くランカーは動かないだろ。企業と個人契約を交わしている奴らなら特にな。どの企業も自分達の利益にならなそうなことには極力、抱え込んだランカーを動かしはしないだろ。今回の会談で二つのエリアを代表する企業のトップが、不利益を承知でやるってんなら事情は変るかも知れねぇーけど、いたるとこから圧力がかかってると思うぞ。だから無理だ」
美鶴は憮然とした態度で最後まで言うと、テレビに視線を戻した。
丁度画面にはネズミがネコに食べられそうなシーンが映された。いや、情け容赦なく食べられた。
いくら下手なアニメーションでも、この時間帯にこれはどうなのだろうか、美鶴は製作者側の乱心を疑った。
「君はこのままでいいと思ってるの?」
由佳里が再度質問を重ねた。
今日の彼女はいったいどうしたのだろうか。美鶴は首を傾げつつ、顔だけを由佳里に向けた。眸に映った彼女の表情はやはり、どことなく不安げに見えた。俯きがちになるその表情には翳りが伺えた。
「よくないさ。けど俺には何も出来はしない。由佳里、お前も当然」
美鶴は正直に答えた。実際、どうすることも出来はしないのだ。
高序列のランカーにでもなれば、ある程度政界への影響力も持てるようになる。同時に重い責任や幾分かの制限、金欲が生じる。
今まで外部居住区への対応策に対して、操者が政府に訴えたことはない。
多くの者が金欲しさのために、純情なランカーを気取っているか、ライセンス剥奪や抹消という圧力でも掛けられているのだろう。世知辛い世の中だった。
由佳里は肩を落として、整備を再開させる。
「てか、由佳里。制服で大丈夫なのか? いつも作業服だろ」
「忘れちった」
てへッと舌を出しておどけた由佳里の姿に美鶴は思わず笑った。由佳里も柔らかな笑みを零した。固まった部屋の空気が一瞬で解れたようだった。
この世の中が不安ではないのかと言われれば、不安すぎて夜もオチオチ寝ていられないほどだ。
それでも人々は、何ともない日常を創って生きている。
美鶴は左手を天井に向けて伸ばして、空を掴んだ。この手の中には何もないけれど、この手で隣りに座って強がる少女を守り抜けるのなら、それが今の最善だと信じよう。
『ヴーヴーヴー』ふいにエルガー作曲の《威風堂々》が鳴り響いた。
由佳里が慌てて胸ポケットからスマートフォンを取り出して耳に当てた。手は汚れていないのだろうか、と心配になってしまうのは杞憂か。
「──うん、分かった。彼に伝えておくよ、じゃあね」
数分の通信越しの会話を終えた由佳里は携帯を仕舞うと、片手をすくめた。
「三日後に研究所に来てくれだってさー」
「あ、そうなん? うん了解。オヤっさんにも伝えとく」
美鶴は大きく伸びをした。網戸の窓から風が入り込み始めていた。急速に油の匂いを奪い、共に室内温度を低下させていく。
「てか、ほんとコタツが欲しいな……」
呟く美鶴に由佳里も「同感だね」と相槌を打って笑った。
笑えば笑うほど見えない闇があっても、泣いて明日が見えないよりはいい。
知れば知るほど遠くなる答えだとしても、恐れて逃げるよりはましだろう。
言葉の数だけ幸せがあるならば、おんなじ数だけ不幸があるのだろう。
それゆえに人は己の幸福を願い、望み、叶えようとする。
「不安だったら俺を頼れよな。由佳里一人ぐらいだったら守ってやるから」
美鶴は照れたように顔を背けて言い切った。少し火照った頬が流れ込む冷気に撫でられ、心地よく感じる。
「……ありがと」
由佳里ははにかんで頷いた。