壊れかけの日常に乾杯
厚い灰色の雲が空を覆いつくしている。気持ちを下向きにさせる曇天模様だ。
しばらくすれば雨でも降るかもしれない。自然と足が速まる。
今日に限っては夏の突き刺さる暑さも、じとりとした蒸し暑さも影を潜めている。生活するには丁度いい気候でもある。
目の前に続くひび割れが広がった舗装路には、無人の車両が列を成している。路の両脇にはひっそりと静まり返ったビルが並んでいる。ビルの側面には大破したマシナリーが突っ込んだまま停止したものや、窓ガラスが全て割れている場所もある。ビル自体が半壊しているところもあった。
よく見れば、放棄された車両の多くは何かに踏まれたように天蓋が潰れ、窓ガラスは破砕していた。その傍らには頭部を吹き飛ばされた人型のマシナリーが仰向けで転がされている。
戦闘の痕跡がいたるところに残されていた。
それをきれいに消し去るには時間が足らなすぎた。
少年は足を止めて空を、厚い雲の流れを見上げた。
自分以外の生命の存在を感じない世界。まさしくここは、ゴーストタウンだろう。
非現実的な光景と言って差し支えない。
ここは、エリア2。
旧日本国内にある四つのエリアの内の一つだ。
今現在、ここにいる人間の数はせいぜい数百人程度だろう。その内の半分ほどがランカーであり、旧日本国内の選りすぐりの者たちであり、最後の要でもある。
彼らが負ければ、否応もなく、日本中の人間は機械へと変わり果ててしまう。
『美鶴、もうすぐ目標到達地点に到着するよ。ちゃんと、勝って。戻ってきてね』
由佳里の声が頭の中で反響する。
隠しきれない不安の色を滲ませる声に、胸のどこかがちくりと痛む。
結局、自分は彼女をずっと笑顔にさせることなど出来なくて、悲しませてばかりいる。それをどうにかしなければならないと思うばかりで、実際に行動出来なかった。
誰でもいい。こんな自分を罵倒してくれ。
「あぁ、ちゃんと帰って、由佳里になんか美味いもん喰わせてやるから」
どうかこの強がりを許してほしい。
『うん。待ってるから』
美鶴はそっと微笑んだ。
由佳里が通信の向こうで泣きそうになっているのが容易に想像できたから。守りたいからこそ、傍にいてはいけないときもあるだろう。
まぁ、自分の肉体の傍らにはちゃんと由佳里がいるのだろうが。
世界はカースベルト卿による大崩壊という名の選別によって大打撃を受けた。
多くの企業が新たな騎士の開発に支障をきたしただけでなく、高序列ランカーも失った。それこそがカースベルト卿の狙いだった。人類に抵抗の意思を失わせるため。
それでも人類は早々に自分たちが生物であり、人間であることを放棄しなかった。それすらもカースベルト卿にとっては想定内だったはずだ。
そうでなければあれほど早く行動にでるわけがない。
カースベルト卿が二ヶ月後に日本を訪れると言って一週間もせず、旧アメリカエリアがヨルムガンド討伐に動いた。彼らはヨルムガンドの拠点に目星をつけていたようだ。そして壊滅した。各地に展開していたランカーによって編成された部隊は全滅。北アメリカの大半が炎に飲み込まれた。
その報告を受けた旧日本エリアの総裁たちは、緊急会議を開いた。
目的は自分たちが採るべき道を選ぶことだ。
人として死ぬか、機械として永遠を生きるか。
既に一度意見の割れたこの問題の答えを出すことは容易ではなかっただろう。アメリカが負けた事実が反対派の姿勢を強くすることは目に見えていた。
そして、彼らは一つの結論に達した。
あの日の全国放送での言葉を忘れない。
『──我々、全エリア総裁は災厄の存在に真っ向から立ち向かうことで同意した。全国民の皆さんには申し訳ないが、あなた方の命を我々に預けてくれ。
厳しい戦いになるだろう。それでも、我々は自分たちが人であるために戦う』
それに対する世論は賛否に割れた。
アメリカが負けたのに日本が勝てるのか。自分たちはどこに逃げればいいのか。どうか守ってくれ。ちゃんと人として死にたい。
そんな声を受けたあの男はテレビ画面の向こうで笑った。
伊集院雷が言った。エリア2の総裁であり、クロヅカ──首都圏《エリア2》において最大規模を誇る企業の社長。圧倒的なカリスマ性、人々を引き付ける魅力をもつ彼は、不安など微塵もない様子で言い切った。
『自分たちに負けるという選択肢は存在しない』
思わず笑いそうになったのを覚えている。
なんだそれは。言うのは簡単だ。そんな言葉だったら自分でも言える。
不思議なことに世論の流れがその言葉で変わった。
人類は人間が人であるために、戦う意思を表明した。
それからの行動は迅速だった。
迫る期日。決戦場はエリア2となった。操者の肉体を安全に保護し、サポーターが万全の体制で指示を出せる場所という条件を満たしていたからだ。それ以外にも他エリアからある程度離れた場所でもあり、周囲への被害が出ないことを考慮していた。
いやそれだけじゃない。災厄がこちらが仕掛けた全面戦争に応じるように仕向ける狙いがあったのだろう。もしランカーたちが負ければ、その肉体はまさに無防備であるという事実が、災厄をこの場所に誘うのだ。
エリア2内の住民に避難勧告が出され、他エリアへと避難が始まった。
同時に全国のランカーに通達がされた。──共に戦ってくれないか。
そんな内容だったと思う。
だけど、その答えを出すのを躊躇ってしまった。由佳里の泣いた顔が思い浮かんでしまって、全身が竦んだ。こんなんじゃ駄目だと分かってて、頭を冷やそうと部屋から飛び出して外に出た。
むっとするような熱気が立ち込めていた。もう夏なのだと実感した。
やり場のない感情を、あの恐怖をどうすればいいのか迷って、気づけば公園に辿り着いていた。他に人のいない公園はやけに寒々しく映った。
一人でぽつりとブランコに腰掛け、意味なく漕いでいた。だから気づくのに遅れた。
いつの間にか由佳里が目の前に立っていて、寂しそうに笑っていた。
「私はそんなに弱くないから。美鶴が帰ってくるまで待ってるから。だからね、戦って勝ってきて」
そんな言葉に背中を押された。由佳里の言葉がただの強がりだと分かっていて、彼女の笑顔を守ることを諦めた。
『────ピー……』
警告音が鳴り響いた。視界に赤いカーソルが表示され、敵の存在を知らせる。
やはり現れた。
「……………………………………………………………」
無言で佇む巨漢は巨大な戦槌を肩に担ぐようにしていた。その姿はまるで仁王立ちする鬼のようであって、神々しさなんてない。男からは禍々しい戦意しか感じ取れない。
男の存在感がピリピリと大気を震わせる。
「ハッ、随分と厳めしい面してんな」
「ブラド、足引っ張るなよ」
「てめぇに言われたかねぇぞ、美鶴」
死屍舞と名づけれれた騎士は、幼い少女でありながら妖艶な笑みを浮かべ、汚い言葉遣いを吐く。
死屍舞、頭部には獅子を模った面を被り、全身を深緑の戦闘装束で包む少女型の騎士。短めの赤髪が揺れている。あまりに整ったその顔立ちは、それだけで少女が人形であることを理解させる。この容姿が好きだと言う人間を重度のロリコンだと断言できる騎士は、ブラドの好みに造られている。つまりはブラドは重度なロリコンな訳だ。
「まったく、ブラドはホントにロリコンだよね。さすがのうちもドン引きだし」
遅れて追いついてきた鳥類型の騎士が呆れたように言う。
鷲のような、鷹のような頭部をした、鋭い眼光を光らせる騎士は両腕とは別に、背中に一対の翼を生やしている。黒光りする装甲はまるで闇夜に形を与えたかのような不気味さを伴う。
ボレアースが造った騎士、カゲヌイ。
地表を滑空するように移動する設計で、機動性を追求するために極限まで重量を軽減してある。腕部も脚部も従来の騎士よりも明らかに細い。武器は背中の翼で、滑空時の安定装置でありながら敵を斬る大剣としても成り立っている。
「うっせぇぞ、チーク」
「うちはもうチークじゃないですよぉだ。悠月様とお呼び」
「うぜぇ」
「ロリコンはキモいっしょ」
何故か険悪なムードになりつつある二人の間に割り込む。
「美鶴は引っ込んでろ」
「みっくんは邪魔」
声を揃えて邪険にしなくても。美鶴は重々しい溜息を吐くしかない。
「目的を忘れんなよ、二人とも。俺たちは災厄を倒すんだろ」
何故、この三人が揃っているのか。
全国の総裁が戦うことを決意した日、日本国内にいたボレアースが共同戦線を申し入れた。それに続く形でニーズヘッグも参戦を申し込んだ。
目的は全員一致しているのだから当然なのかもしれないが、意外だった。その話を聞いたときはあまりに非現実的に聞こえたものだ。
今から数時間前にクロヅカの地下会議室で彼らの姿を見るまでは半信半疑だった。だが、そこにいたのはボレアースとニーズヘッグ、参加を表明したランカーたちばかりではなかった。
エリア2の総裁、伊集院雷の隣に羽城誠の姿を見つけた。他にもペロッキーさんや悠月も見つけた。
彼らは誠に頼み込んだらしい。自分たちも戦うと。
悠月はともかく、ペロッキーさんは研究員だろうと思ったが、まさかニーズヘッグのNo.1だったことは何よりも驚愕だった。
会議室で組むチームが発表された。敵に情報を握られないように直前まで伏せてあったものだ。そこで美鶴はブラドと悠月と組むことを知った。他にも数人のランカーもメンバーに加わり、一チーム平均五名で戦う。
ヨルムガンドメンバー一人に対し、こちらは五名で立ち向かうのだ。それでも楽観は出来ない。アメリカでヨルムガンドは、一桁台のランカーを屠っている。それもたった一体で複数もだ。
日本には一桁台のランカーはいない。それでもそれに匹敵するほどの強者はあつまっている。負ける気はない。
ランカーは日本エリアの大企業が共同で用意した巨大地下シェルターで、精神転送している。地表で爆撃があろうと、それに耐えるだけの強度はあるが、そこが制圧されてしまえばもはや抵抗する手段を失くす。
だからこそ、厳重な警備体制を布いてある。ウルも防衛班に含まれていた。ウルは結局、鳴鳴の姿で会議室に現れた。
あの人はこの作戦の後、メンバーが身柄を拘束されることを気にしていたが、伊集院雷は作戦が成功した暁には今までの罪を白紙にすると明言した。
それだけこの作戦が重要だと言った。
──彼らに対抗するには、彼らと同じ土俵に立たなくちゃいけない。この騎士は君専用にチューニングしてある。九〇%の同調率は容易に出せるだろうね。
誠の言葉が蘇る。耳の奥でこだまする言葉は重々しく、鼓膜に張り付くようだ。
──確かに蟲皇を完璧に操れるのは君しかいない。本当にやるのかい? 災厄は精神汚染武装を備えてるだろうし、騎士と同調した君の精神はそれに耐えられない。騎士が大破すれば、美鶴君の精神はそれに見合う障害を受ける。
由佳里に内緒で訪れた誠の研究施設。戦闘の痕が生々しく残された場所には、ポッカリとさらに地下へと続く通路が口を開けている。
その通路の奥で美鶴と誠は一体の騎士を前に緊張した面持ちで並んでいた。
目の前には、中性的な顔立ちの少年型の騎士が天井から吊るされている。
鮮やかな黄緑色のショートカットヘアー、身に纏う黒い装甲にはライトグリーンのラインが走っている。ショートパンツ、手には肱まで隠れるグローブを嵌め、足には黒のブーツ。
壁に掛けられた兵装は四本の太刀。
美鶴は強がって笑った。
この騎士を造った時点で、誠にもそれなりの覚悟があったということだ。
なら、自分も覚悟しよう。
これが最後の戦いだ。
「んじゃ、さっさと倒すか」
「簡単に言うんじゃねぇよ。てめぇの目は腐ってんのか!? ありゃ、バケモンだろ。簡単には負けてくれねぇよ」
「随分と弱気だな、ブラド」
美鶴は笑みを浮かべて、腰に佩いた太刀のうち二本を引き抜く。
そう、これが自分にとって最後の戦いだ。
──美鶴君。君はこれを最後に操者を引退するんだ。あまりに早いと思わないことだ。もう君の身体はボロボロなんだよ。騎士が大破すれば────君は死ぬ。
ついに最終章に突入します。
最近、暑いです。クーラーを利かせた部屋でアイスを食べながら、のんびりと執筆。