小学生ですか? いいえ、高校生です。
──もしかすれば、朝のニュースでやってた巨大な機械ってのは。
四限目の現国の授業。美鶴は黒板のほうに視線は向けず、顔を左に向けて窓の外を眺めていた。念頭にあるのは、今朝見つけた茶封筒の中身についてだった。手紙の内容から察するに、ボレアースが誠の助けを求めていることは確実だろう。でなければ、わざわざこちらに接触してくるわけがない。
美鶴は事の真相を推し量ろうとしていた。その代わりに授業を半ば放棄していた。気付けば授業は四限目。まったく授業を受けた記憶がないのは問題だろう。
『よぉーし、三ノ瀬。授業に参加しような、んじゃ一四五ページから一五三ページまで音読だ。ほら立て』
「またですか……」
美鶴は黒板の前に立つ教師に顔を向けた。見慣れたとはいえ、彼が体育教師でないという事実は未だに信じられない。
『授業をそっちのけで物思いに耽ってるほうが悪い。なんだ? もしかして彼女にフラれそうになってるのか?』
「いやいや、そんなんじゃないですよッ。──ってか何で先生が知って」
『学校の教師の情報網を舐めるなよ。ほれ、さっさと読む』
周囲で笑い声が上がる。見渡せば、クラスメイト達が笑みを浮かべた顔を向けていた。美鶴は致し方なく起立すると、両手で持ち上げた教科書の文章を声に出す。内容は前回と同じ。美鶴の日常は今日も見栄えせず、見劣りしない、小さなユートピアであった。
──もう帰りたい。
美鶴の音読大会は、チャイムとともに終わった。この一時間で美鶴は、授業四時間分の疲労感を得た。
「少し外の風に当たってくるか」
昼休みを向かえ、美鶴は購買で簡単に昼食を済ませると、屋上に向かった。封筒の中身について、思考が堂々巡りしていた。途中、廊下に設置された自動販売機でホットココアを購入して、階段を駆け足に上った。
西徳付属は一般生徒の屋上への出入りが禁止されていない。首都圏内の教育関連施設の多くでは、屋上の立ち入りが禁じられている。しかしこの学校では屋上をフェンスで囲い、落下防止の対策がなされ、一般生徒に開放されていた。
「つめったッ」
屋上に出ると、冷気を含んだ風が頬を撫でた。昼過ぎであるにもかかわらず、早朝のような爽気の漂う外気が清々しい。頭上には雲ひとつない冬の蒼穹が広がっていた。
今の時期に屋上にやってくる生徒はいないだろうと考えていたが、美鶴の予想は外れた。既に一人の生徒が先客としていた。学年が一つ上である証、碧のチェック柄のスカートを履いた女子高生が、美鶴から見て右手、屋上の隅でフェンス越しに周囲の景色を眺めていた。遠目から見て分かるほど、随分と小柄な少女であった。こちらからはその表情を窺い知ることは出来なかったが、その背中に拭いきれない憂いを纏っているように見えなくもなかった。
美鶴は何気ない様子で、少し離れたフェンスに歩み寄り、手にしたホットココアの缶のプルタブを立てた。カシュッ、と気の抜ける音が立つ。仄かに立ち昇るカカオの香りにほろ酔い気分になる。至高のひとときであった。徐に口元に缶を運び、ココアを口に含む。温かさと優美な甘味が広がった。ほっと一息ついて、美鶴はフェンスに背中を預けた。
ふと視線を感じた。ねっとりと粘度ある視線だ。
美鶴は顔を横に向けた。案の定と言うべきか、先客であった女子高生がこちらを凝視していた。先輩と思うには申し訳ないほど小柄な少女。その面立ちは精巧であった。身動きしなければ、人形と見紛うような容姿、二つの大き目な黒の髪留めをした薄い茶髪の髪を風に揺らし、何か面白いものを見つけたような、好奇に溢れた表情をしていた。
ふいに少女が口をひらいた。
『どうして、小学生がいるの?』
「ッツ…………………………」
美鶴は缶を取り落としそうになり、たたらをその場で踏んだ。何とか中身を零さずに、手の中に缶を収めた。にしても、今なんと言ったのだ、この先輩は。小学生と言わなかったか、せめて──
「こんな小学生は流石にいないでしょッ。せめて中学生にしてくださいッ!!」
「あら、童顔は認めるのね、意外」
淡々と会話をする先輩を美鶴は見据えた。感情の隆起に乏しい声だ。
美鶴に歩み寄った少女は、見上げるようにして首を傾げた。
「女の子じゃないの?」
「なんでッ!?」
「男の子なのね。ふッ、ご愁傷様」
「なんで鼻で笑ったんですかッ」
「童顔すぎると苦労しそうね。可哀想に」
「…………アンタだってチビじゃん」
美鶴は思わず呟いた。人のことを散々な呼ばわりしているが、目の前の先輩もまた『苦労しそうな類の人間』であることは間違いない。いや、この手の需要はあるのか。
「……君は中学何年生? 名前は?」
「……高校二年、三ノ瀬美鶴です」
「んじゃキミはわたしの後輩なのね。ふーん、さっきタメ口をきいて、わたしをチビ呼ばわりして、小学生からやり直せって言ったわね。後輩の分際で。これは赦されざる反抗姿勢ね。すぐに幼稚園からやり直すべきよ」
「いやだッ!! てか別に小学生からやり直せって言ってないし。……てか聞こえてたんだ」
美鶴は小さな先輩を見下ろして言った。なんと言い表すべきか。ここまで身長差があると何とも言い難い愉悦に浸ってしまう。日頃から『弟キャラ』扱いされる美鶴としては、自分よりも身長の低い存在はありがたかった。色々と安心できた。
「私の身長の低さを馬鹿にしてるわね。君の視線が、テストで赤点を取った生徒に向けられる先生の視線と同じだった」
「赤点を取ったことあるんですか?」
美鶴の疑問を軽く無視して、先輩は相変わらずの感情の希薄な表情で続けた。
「──または、恋人の目の前で美少女とイチャつく彼氏に向けられる視線」
「はひぃッ?」
美鶴は背筋を駆け上がった悪寒に身を震わした。背中に脂汗が滲む。恐る恐る振り向けば、眸に鋭い視線が突き刺さった。
屋上の入り口で、ドアの隙間から顔を覗かせる由佳里がいた。こちらに何も言わずにドアの向こうに姿を消す。
これはやばい。非常にマズイ。
「お姉さん?」
「違うッ!!──先輩、さよならッ」
美鶴は踵を返して、由佳里の背中を追った。何といって誤解を解けばいいのだろう。美鶴は狼狽した。
屋上のドアを開けて、その先に続く階段に足をかけた時に気が付いた。そう言えば、あの小柄な先輩の名前を訊いていなかった。だが、同じ学校の生徒であるのだ、また逢う機会もあるだろう。今度はもう少しまともな会話が成り立つことを期待したい。
「わぉ、わたしの美少女宣言を軽くスルー。にしても……本当に恋人だったの? 彼もなかなか隅におけないわね」
能面のような顔に驚きに似た感情を浮かべた少女。しかし、すぐに感情を一切取り払って、無表情になった。少女は再びフェンスに視線を向けた。少女から発せられる鼻歌が風に運ばれていった。
◆◇◆◇◆◇◆
「ホントにたまたま話してただけだってッ」
どれだけ弁解していることになるだろう。昼休みも残り僅かという時間で、美鶴はひたすら由佳里に頭を下げていた。
「結構楽しそうだったのに?」
「全く楽しくなかったからッ」
訝しげに由佳里は眉をひそめ、美鶴を見据えた。盛大にジト目が向けられている美鶴は、閉口してしまう。
「ねぇ、知ってる? 人間の男女の愛は四年で終わるのが自然なんだって」
──これは本当にまずいかもしれない。まだ付き合って、二ヶ月ぐらいなのに。
「人は恋に陥るとPEA、別名『恋愛ホルモン』っていう脳内物質が大量に分泌されて、客観的に物事を考えられず、相手のことしか目に見えなくなるんだって。だけど、二,三年で分泌量が減って、だんだん相手のことが嫌になってきちゃうんだってさ。相手の悪いとこばっかり目につくようになるんだって」
由佳里が腰に手を当てて、美鶴を見下ろした。ちなみに美鶴たちは階段で会話をしている。美鶴が一番下段、由佳里がそれより三段上に立っている。
美鶴は何とか由佳里の誤解を解こうと苦悩した。手当たり次第、詫言を言おうと口を開いたのを制して、由佳里が話を続けた。
「──だけど。PEAが分泌されなくなると、代わりにセロトニンっていうホルモンが分泌されるようになるんだって。それは人に安心感とか幸福感を与える作用があって、長く相手と付き合っている相手と一緒にいるほど分泌が高まるんだってさ」
由佳里が跳んで、美鶴のすぐ隣りに並んだ。
「もう美鶴とは、恋人になる以前から長い付き合いだったんだよ。今更、悪いところばっかり目につくわけないよ。あ~あ、美鶴の慌てた顔を写真に撮って、竹ちゃんに見せたかったなぁ」
あはは、と小気味よく笑い声を上げる由佳里。美鶴は呆然とその様子を見ていた。あまりのことに思考が追いつかなかった。つい先ほどまで、破局の危機に瀕していた筈だ。
「ほ~ら、授業が始まっちゃうよ」
「怒ってないのかよ」
「……あ。怒ってるよ、すんごく怒ってる。だから、また夕飯を作りに来てよ。じゃないと機嫌を直さないから」
「………………」
美鶴は後ろ頭を掻いた。「分かったよ」と返事を返せば、由佳里は表情を輝かせた。今度はパスタがいい、と言って由佳里が背を向ける。丁度、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
「──よかった」
美鶴は由佳里に聞こえないように、呟いた。大切な日常がこんなことで壊れなくて本当に良かったと、安堵した。美鶴は胸を撫で下ろすと由佳里の背中を追って、自分の教室に向かった。
「羽城さん、めっちゃ健気じゃん」
「くそー、三ノ瀬が幼馴染じゃなかったら、隣に立っていたのは俺だったのに」
「まじで感動した」
六名ほどの男子クラスメイト達が、美鶴が教室に戻るなり囲んできた。どうも彼らは先ほどのやり取りを盗み聞きしていたらしい。この様子が気になった他のクラスメイトも集まってくる。
『おーい、授業を始めるぞ』
野太い声がして、黒板のほうを見れば、まさかの体育系国語教師がいた。
『授業変更だろ。知らなかったのか。それでお前らは隅に集まって何、話してんだ?』
「先生、じつわですねー」
「やめてくれッ!!」
この日、美鶴の黒歴史に新たな一ページが加わった。
どういうわけか、話に尾ひれがついて『浮気性の美鶴を由佳里が改心させ、再び縒りを戻した』という内容になっていた。人の噂も七五日とは言うが、それまで美鶴は耐えられる自信がなかった。