ポトフと家族の暖かさ
夜の外周区に辿り着くと、美鶴は教えられた番号の仮設住宅のドアを数度ノックした。
「………………」
扉の向こうから返事は返ってこなかった。美鶴と由佳里は互いに顔を見合わせた。仮設住宅に備えられた窓からは照明の明かりが漏れている。中に誰かがいるとみて間違いがなさそうだが。まさか、急な来訪者を警戒しているのだろうか。いや、たしか稔の家族に食事の誘いをしてあるはずだ。美鶴は逡巡して、もう一度ノックしようと手を伸ばした。
「いやー、すみません。もしかして、美鶴君と由佳里さんでしょうか?」
ハスキーな声が背後から発せられ、美鶴と由佳里は反射的に後ろを振り返った。
目の前に立っていたのは、人の良さそうな中年男性。
「ほんとに申し訳ない。久しぶりに風呂に入って、時間を忘れてました。すぐに戻るつもりで電気は消さずにおいたんですが、失敗しました」
申し訳なさそうに後ろ頭を押さえる男性。そう言われればと美鶴は思った。新調された服を着る男性は清潔感が漂っていた。およそ外部居住区の人間とは思えない。
「改めてはじめまして。稔の父の榎原幸雄です」
軽く会釈する幸雄に美鶴と由佳里も「こちらこそ、初めまして」と言って返した。
幸雄とは騎士越しに会話をしたのみであって、生身で会うのは初めてだった。
「いやー、稔が言ってた通り、由佳里さんは美人ですね。学校でもモテてるでしょう」
お世辞ともとれる言葉を幸雄は口に出した。由佳里の場合、それは事実であるが。
「そんなことないですよー」
由佳里はまんざらでもないと言いたげに、微笑んだ。
『あッ、もしかして由佳里さんですか?』
聞き覚えある少年の声。稔が人込みの中から姿を現し、駆け寄ってくる。何故、由佳里だけ? という疑問を美鶴はひとまず飲み込んだ。
「やっほー、稔君。初めまして。私が由佳里だよ」
由佳里が手を振って、稔に笑顔を向けた。少年の顔が一瞬、赤く染まる。慌てて視線をズラした稔と美鶴の視線がぶつかった。
「………………」
「おい、何か言ってくれ……」
「もしかして……、美鶴さん? ですか」
「もしかしなくても、美鶴さんだ」
稔が複雑な表情を浮かべ、こくりと頷いた。
「……初めまして」
「さっきの間は何だったんだよッ。おい、稔君。ついさっき哀れんだよな?」
「いや、別にそんなことはないですよ。姉弟だと思ったりなんてしてないですよ。ただ想像していたのと違っていたっていうか」
「うっわ……」
美鶴は絶句した。心に突き刺さった稔の一言に、放心状態になる。頭の中で『姉弟』の文字が復唱されていた。
「まぁ、美鶴は女の子顔だからね。仕方ないよ」
「うッ」
由佳里の励ましは、美鶴にトドメをさした。最近になって諦めの気持ちが強くなり、童顔という現実を受け入れようとしていたのだ。まさか、出会って一日も経っていない少年から、遠回しに指摘されようとは思いもよらなかった。美鶴の衝撃はなかなかに大きなものだった。
「あ~あ。美鶴が壊れちゃった……」
由佳里が面白げに美鶴の顔の前で手を振った。それに反応する気力さえ、美鶴には残されていなかった。
「おにーちゃんッ」
突然、威勢のいい女の子の声が響いた。稔が弾かれたように飛び上がり、首を回した。稔の背後数メートル先で年少な少女が駆けていた。稔の様子を見る限り、彼女が彼の妹の由愛であるのだろう。身長の高さは美鶴の腰ほど。小学校低学年ぐらいだろうと思われた。
「なんだよ由愛。ほら、この人たちが僕を助けてくれた人たちだよ」
「そうなのッ? おねぇーちゃん、二人ともありがとッ」
「「「…………?」」」
複数の頭に疑問符が浮かんだ。由佳里が美鶴の顔を覗きこみ、したり顔になった。
「いやいや、おねぇーちゃんたちは人助けが仕事だから」
「本当にありがとうございました。ほら、稔も改めて感謝しなさい」
「お二人とも、どうもありがとうございました」
「誰でもいいから、由愛ちゃんの誤解を解いてくれ……」
美鶴は懇願するように声を絞り出した。わきあいあいとした雰囲気は非常に好ましいのだが、どうか人をダシにしないでもらいたい。げんなりとする美鶴を横目で見た由佳里が腹を揺すった。この場が華やいでいると、稔の母親も輪に加わり、一層明るさが増した。「そろそろ行こうか」という美鶴の言葉に一同は、ボロく寂れたアパートに向かって歩き始めた。
ふいに美鶴の携帯が震えた。とりだしてディスプレイをみれば文蔵だった。
「もしもし、オヤっさんどうしたん?」
ポトフを盛大にぶちまけた、などという最悪の事態を予想したが見事に外れた。
「歩いて来てもらうんじゃ申し訳ないじゃろ。んで、もう外周区に車を止めておるんじゃが、お前さんたちはいまどこにおる?」
なんともいいタイミングであった。まるで計算されたかのようだ。
「丁度帰ろうとしてるとこ、んじゃさ──」
五分も待たずして、見覚えあるミニバンが視界に現れる。そういえば、七人も乗れるだろうか。その不安は見事に適中した。
◆◇◆◇◆◇◆
アパートに辿り着くと、美鶴は此処まで走ったために乱れた呼吸を整えた。呼吸が安定すると、朱色のドアをゆっくり開いた。一足先早く戻った由佳里達が部屋の準備を整えていてくれているはずだ。開けた文蔵の部屋の扉の向こうから、漂ってくる匂いによだれが出てくる。
帰ったぞ、と部屋の奥に声をかければ「はーい」と明るい返事が返ってきた。
既に玄関は六人分の外靴で埋まっている。美鶴は適当に置き場所を作って、部屋に上がった。ヒーターが稼働中なのか、部屋が暖まっている。居間に顔を覗かせれば、大き目の座卓を囲っている六人の姿があった。座卓の上には小皿や箸が用意されている。ジュースや清涼飲料などの飲み物も置かれていた。
「おつかれー」
由佳里がねぎらいの言葉をかけてくる。美鶴は座卓の空いている場所に腰を下ろした。由佳里と稔に挟まれるようにして座る。
稔とその家族が一瞬目を瞠った。美鶴は首を傾げ、視線を右手に落として理解した。屋外ではずっとパーカーのポケットに右手を突っ込んでいたために、義腕は人目についていなかったのだ。
「俺の右手は幼いときに失くしたんですよ。だから義手なんです」
美鶴はパーカーの袖をたくしあげ、パンドラ製の義腕を照明の下に曝け出した。光沢ある機械の腕が眩く光る。稔たちはお気の毒にと言いたげに口を噤んだが、稔の妹である由愛は「かっこいい」と言ってはしゃいだ。幸雄が慌てて叱責しようとするのを制して、美鶴は「かっこいいだろ」と笑った。
「そういや、オヤっさん。肝心なポトフが置いてないんだけど」
「今、ポトフとやらは火にかけなおしておるとこだ。……そろそろいいじゃろ」
文蔵が腰を浮かせた。ポトフは完成したまではいいが、美鶴達が来るまでに冷めてしまったらしい。のそりと立ち上がった文蔵を追って、美鶴も台所へと向かった。
台所からずしりと重たい鍋を両手で持ってくると、コルクの鍋敷きの上に据えた。待ってましたとばかりに由佳里や由愛が手を叩く。
「本当に招いてもらってありがとう」
人の良さそうな稔の父親が軽くお辞儀をした。それに続く形でその左隣りに座る稔の母親も頭を下げる。「おねーちゃんたち、ありがとー」と稔の妹である由愛は嬌声を上げた。
「俺はおにーちゃん、な……。男だから」
理解したのか、曖昧な返事が少女から返ってくる。どうも漂ってきた料理の匂いで浮き足立っているようだった。隣りに腰掛けている少年も心なしか、ウキウキとして見える。
「料理は殆ど美鶴がやったんで、みんな彼に感謝してあげてください」
「美鶴さん、料理出来るんですか!?」
美鶴の右隣で稔が酷く驚愕した声を上げた。そうして羨望の眼差しを向けてくる。
「ふっふっふ、凄いだろ。憧れてもいいぞ」
「君は何様のつもり?」
ここで笑い声が上がる。稔を含めた彼の家族と文蔵が破顔していた。こんな大所帯での賑やかな食事は初めてかもしれない、と美鶴は思った。美鶴は横目で、家族と笑みをかわす稔の様子を窺った。家族がいる稔に嫉妬を感じていたのかもしれない。
自分の両親を幼少期に亡くし、ほとんど風化した思い出では両親の顔さえも不鮮明でしかない。今なお両親との日々を過ごしている稔を羨ましく思うのは必然ではないか。
「そんじゃあ、早く喰おうぜ」
美鶴は陰気な気持ちを掻き消すように明るい声を出して、鍋の蓋をおもむろに外した。部屋に充満する匂いにたまらなくなる。
「「「「「「「いただきます」」」」」」」
皆で唱和し、七人分の声が部屋に響いた。
「意外においしいッ」
と、声を上げたのは由佳里。つい今しがたジャガイモを口に含んだところだった。
「意外にって、お前が所望したんだろ。自信がなかったのかよ」
「美鶴が作るんだから美味しいと分かってたんだけどさ。何か見た目が地味というか」
と言いながら、由佳里は輪切りにされた人参を口に運んだ。
今回のポトフの具材は、人参、じゃがいも、玉ねぎ、大根、キャベツ、ベーコン、ウインナーだ。人参ぐらいしか鮮やか色をしていないために、確かに地味かもしれない。しかし、その評価基準でいくと、由佳里が好きな野菜炒めもまた地味なのではと思う。美鶴は皿によそった大根を口に入れた。よく味が滲みこんでいた。噛むほどに汁が溢れ出てくる。美味い。
「ぶしつけな質問なんですが、もしや由佳里さんと美鶴君はお付き合いしているんですか?」
唐突に稔の父、幸雄が訊ねてきた。不意打ちの質問に美鶴はのけぞった。ごほぉッ、と咽て咳き込む。
「はいッ。お付き合いしてます」
由佳里は全く臆した素振りを見せずに答えた。言ってから、由佳里ははにかんで笑った。
「あっつあつじゃな。ふぉッ、このジャガイモもあっつあつッ」
文蔵が慌ててコップのジュースを干した。
「舌を火傷すんなよ……」
美鶴は次は何を食べようか、思いあぐねた。
「ん?」
パーカーの裾が引っ張られる感覚がして、右に首を回せば稔が何やら思案顔だった。言い出そうか、言い出さまいか悩んでいるようだった。決心がついたのか、美鶴の耳元に近づいて手で筒をつくって話しかけてきた。
(料理が出来る人って、モテるんですか?)
美鶴はたまらず苦笑いした。
「出来るとポイントは高いぞ。例え、童顔でもな」
「出来れば、その……料理を教えてもらいたいです」
まごまごしながらも稔が言った。視線が座卓の鍋と美鶴の顔を行ったり来たりする。
「いいぞ。近いうちに教えてやるよ」
美鶴の言葉にパッと表情を明るくした稔。美鶴はその様子に苦笑して、まだあどけなさが残る少年の髪をグシャグシャと掻き乱した。
『人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢である』
由佳里が人差し指を立てて、美鶴を指差した。
「それは、お前の言葉じゃないな」
「サン=テグジュペリの名言ですね」と稔が口を開いた。意外に博識らしい。
しかしなるほど、人間の贅沢は人間関係か。では、今の自分の現実は贅沢すぎる生活を送れている。
「新しく稔君の家族との交流が出来たんだからさ。人との繋がりは大切にしようってことで」
由佳里が全員を見渡して、大様に頷いた。
──いつまでも大切にか。
美鶴は由佳里との関係がいつまでも壊れないことを切に願った。