狼は少女を喰らう
美鶴がブラドとの戦闘を終えた丁度その頃。ジャミングがかかる数分前。
遠く離れたボロアパート《白夢荘》で由佳里は、ノートパソコンを操作する手を休めてぐっと伸びをした。
「竹ちゃん、彼を迎えに行かないと駄目みたい。鎌錐が大破しちゃって身動きが取れないみたいだよ」
通信端末に表示された情報が、騎士の破損状況をリアルタイムに伝えていた。画面を見ただけで頭痛がする状態だ。修理するには、柴川重工の研究棟に持ち込まないと無理であろう。
「やれやれ、厄介だな。もしこのタイミングを狙われたらお仕舞いだろうに」
由佳里の言葉にげんなりとした文蔵が重い腰を上げた。文蔵と由佳里と機械は揃って、美鶴の部屋で待機していた。転送装置を挟んで窓際に由佳里が座り、文蔵は卓袱台の傍に腰掛けている。このまま何事もなく終わって欲しい。由佳里はそう願った。
「それじゃあ、どうするか。心配じゃから、組合の連中にでも連絡して代わりに行ってもらうか」
「そうだね。そのほうがいいと思うよ。それじゃあその旨を伝えておこ────」
「いかんッ!! 由佳里ッ、伏せるんだッ!!」
文蔵が必死の形相に豹変して怒声を上げた。同時に由佳里の背後で部屋の唯一の窓が粉砕した。細かなガラスの欠片が飛び、由佳里の頭上にも無数のガラス片が降りかかった。由佳里は悲鳴を上げて、反射的にしゃがみ込む。そんな由佳里の横を駆け抜けて、アレキサンダーが窓辺に向かって猛突進した。その後に風が吹いて由佳里の髪をなびかせる。
由佳里が振り向いた先には一体の騎士がいた。狗のような頭部と両腕の先から伸びる長剣が目を引いた。あれを自分は知っている。あれは命を奪う怪物だ。忘れかけた過去の記憶が蘇り、由佳里は身体が小刻みに震えた。
身体が固まってしまい動けない。まるで石像にでもなったかのようだ。由佳里は恐怖に唇を青白く染めて震わせた。
視線の先ではアレキサンダーと侵入者が取っ組み合っていた。ふいに由佳里の腕が強い力で引っ張られた。咄嗟に振り返れば、眉根に皺を寄せた文蔵の姿があった。
「由佳里ッ、お前さんは離れていろッ」
文蔵が片手に操作用携帯ゲーム機を持ち、その背後に由佳里を隠した。
『まーたく、あんた誰? 俺はさぁ、その子に用があるわけだよ。アギトにも言いたいことあるんだけどさ。とりあえず時間がないんだなこれが。というわけでその子、博士の娘である羽城由佳里の身柄を渡してもらおうか』
目の前の騎士がアレキサンダーを振り払った。アレキサンダーの躯体が壁に激突すると、ロボットはその場に崩れた。狗のような騎士はさして興味がないらしく、すぐさま由佳里のほうに視線を向けて嘲笑する。由佳里の疑問符を浮かべた思考は、上手く回ることがなく、空回り気味の思考は堂々巡りを続けた。どうして目的が美鶴の本体ではないのだろうか。由佳里はずるずると床の上を後ずさって、侵入者から距離をとろうとした。
「由佳里、逃げるんだッ。こやつが目的をおぬしといったんだ。早く逃げろッ」
文蔵がロボットを再起動させ、敵の動きを封じようとした。ぎこちない動作でアレキサンダーが立ち上がり、おぼつかない足取りで駆ける。
『目ざわりだってッ』
それを軽くあしらい、侵入者は距離を縮めてくる。由佳里は懐にあったスパナを力任せに投げつけ、出口に走った。逃げながら小型端末で美鶴に通信を入れた。
「君ッ、聞こえる? 助けてッ騎士が突然やって来たの。竹ちゃんが今、きゃあッ…………」
『おい……里ッ!! どう……んだよ、……ッ』
由佳里の目の前に、もぎ取られた機械の腕が飛翔した。アレキサンダーの右腕部だった。すぐ背後に侵入者がいるという恐怖が由佳里を急かし、判断を誤らせた。
「由佳里、待てッ。止まるんだッ!!」
由佳里は迷わずドアを開け放った。途端、目の前に例の騎士がいた。両腕から伸びる長剣が首筋に突きつけられる。
『はい、残念でしたッ』
「美鶴助けて……」
いつぶりだろうか、この口からこの名前が出たのは。同時にある感情が大きくなった。いつしかこの胸の大半を彼が占めていた。今までの日常に甘えて、先延ばしにしていた感情。今更に後悔した。
非情な現実は情け容赦なく、少女の日常を奪う。