帰ろうにも帰れなくて遭遇
重い足取りで美鶴は自転車を転がしていた。足取りが重いのは、蛇の存在を知らされたからだけでなく、それにあいまって自転車が跳ねたからだった。つまりパンク。
「今日は厄日なのか? 日頃の行いは悪くなかった筈だ、うん」
美鶴は独り言ちながら、街路灯が照らす薄暗い通りを一人で歩いていた。身を凍らすような冷気が風と共に頬を叩く。人通りの少ない路地は酷く閑散としている。
すっかり日は落ちて、空には三日月が浮かんでいるも、辺りは暗闇に飲み込まれたかのようだ。あとしばらく歩けば、白夢荘のボロく寂れた姿が見えてくるだろう。文蔵にはすでに、パンクしたために遅れるという主旨のメールを送ってある。
今日の夕飯はどうするかと美鶴は考えを巡らせた。
「夜の道を一人で歩くのはやっぱ恐いもんだよな」
見慣れた道も夜ではその様相を一変させるものだ。美鶴は形容しがたい恐怖を覚えつつ、夜の居住区を進んだ。
野良猫がすぐ目の前を横切り、ビクッと全身に電流が走る。バクバクと心臓の鼓動が早まった。
「驚かせんなよッ。全く」
美鶴はほっと胸を撫で下ろした。
「何でばれたんだ? 完全に闇に同化していたと思ったのにな」
すぐ近くの電柱の陰から声が上がった。ぎょっとして闇に目を凝らせば、確かに人の輪郭が見て取れた。美鶴は自転車を押す手を止め、数メートル離れた場所で停止した。
明らかに待ち伏せていたらしき人影。自然と警戒心が募る。
「誰だよ、あんた」
「久しぶり、美鶴クン。元気にしてたか?」
街路灯の下に身を晒し、姿を露わにした長躯の男。サングラスを掛けたその表情には笑みが浮かんでいた。長めの金髪、高い鼻が異国人のような印象を与える。
「つくづく厄日だな今日は。……神鳴の外見は、相変わらず、一目を引く形だな。どうして、何でここにいるんだ、涙」
美鶴は目の前の男のことを知っていた。いや、男は人間じゃない、騎士だ。
あのサングラスの下には幾何学模様の浮かんだ双眸がこちらを睨んでいることだろう。
かつて世界から淘汰された筈の存在。神の領域に辿り着いてしまった存在。
『創世の蛇』のメンバー、元ランカー序列四六番の高順位ランカーだ。
「あぁ、あと数日後に首都圏が消えるからね。その前に挨拶でもしておこうかと。探すのに手間取ったんだ、感謝しろよ」
「エリア2が消える?」
「言葉通りにね。瓦礫の山、廃墟の群れ、灰色の世界、真っ赤な鮮血がこの一帯を満たすんだ」
大仰に腕を広げ、男は声高に笑った。まるで滅びが確実だと言いたげだ。男の声色には揺るぎない確信が濃く出ていた。
「……やらせない、絶対にさせない」
美鶴は制服の裾を捲くり、右腕を広げた。この場で神鳴を破壊すれば、阻止出来るという淡い期待があった。
「俺を倒しても、既にエリア2には血も骨も来てるんだ、無駄だぞ。それに生身の人間が神鳴に敵うはずがない。紅燕の事件では人間に騎士が負けたが、実際は起こらん奇跡だよ」
「お前ッ、見てたのかッ!?」
「あぁ見てたよ。なんてったって、紅燕をあの操者に用意したのは俺たちだからな。地味に面倒だったな、あれは。……美鶴君、君はそんな義手までこしらえて俺達と戦うつもりなのか。その行為は単なる自殺行為だぞ?」
神鳴が頬を掻き、困り果てたように口を噤んだ。美鶴は自分の非力さを、浅はかさを思い知った。右腕に収納された刃を展開する前に、こちらの息の根は止められるだろう。
「くそッ!!」
美鶴は腕を下ろし、拳を握り締め、神鳴を睨みつけた。それぐらいしか、出来る事が残されていなかった。
「賢明だ。人の勇気は最も侮蔑すべき感情だ。憤怒、虚栄、強情、興味、愉快の集合体さ。勇気ある行動は尊敬も崇拝もされない。愚かな行為として処理されるだけさ。そうだ、ところで博士もここにいるんだろ? 君のことだ。殺せなかったんだろ?」
「…………」
「黙秘権の行使は、合理的とは限らないよ。君は俺達から多くを奪いすぎたからな。抹殺命令は下されているんだよ。実行するかは別としてね。さてと、それじゃあ御暇するよ。……そうそう最後に、君に贈り物をしておいたよ。受け取るか、破棄するかは君の好きだ」
人ではありえない身のこなしで、住宅を飛び越えて男は姿を消した。残された美鶴はアパートまで急いだ。ウルが告げた贈り物の正体が気になった。アパートに何か被害がなければいいのだが、杞憂だと思っても不安が募った。
視界に映った白夢荘は平穏無事な日常の中に存在した。見飽きた黒ずんだ壁や錆び付いた赤褐色の階段が出迎えてくれた。
階段を駆け上がり、自室へと向かわず、文蔵の部屋のドアを何度もノックする。「なんじゃあ、どちらさまだ?」と訊ねるくぐもった声が聞こえた。
「美鶴だよ、オヤっさんッ。ちょっと話があるんだッ」
「美鶴かッ、良かった。心配したぞ、お前さんが帰ってこない間にいろいろと大変なことになったんだ」
扉が外側に開けられ、中から頬や鼻先を赤らめた文蔵が顔を覗かせた。
「ほれ、早く中に入れ」
美鶴は指示されたとおりに、部屋に上がりこんだ。転送装置がないだけでここまで広さが変るものなのかと驚愕する。日に焼けた畳の上に置かれたテーブルの上には、広げられたツマミの数々、空のビール缶数本。
「来週に迫った総裁の会談を巡って、各勢力に脅迫文が送られたとニュースになっとる。騎士取扱組合でも緊急連絡があったのだが、これから一週間は細心の注意を怠らずにとのことだ。そしてな、蛇の生き残りがエリア2に現れたらしい」
「小埜崎さんからその話は聞かされたよ。警察側でも蛇を捜索する動きが出てるらしい。津野田さんから直接聞いた」
「小埜崎叶望に出会ったのか。確か美鶴の後輩が補助者になっとったな。にしても警察も動くとは……」
文蔵は顎に手を当て、さすった。
「でだ、美鶴。おぬしに厄介な依頼の相談が来た。依頼主は《血塗れた少女》と名乗ったらしい。そやつがおぬしを指名してきたんだと。肝心の依頼内容は────決闘だそうだ」
はい、何だかんだで14話まで来ました。