『婚約破棄に関する一考察――王太子の主張と公爵令嬢の反証、及び婚姻市場における均衡状態について』
王都社交界において、婚約破棄は一種のイベントである。
とある貴族はいう
「あれはエンターテイメントとして最高だよ」
「どのみち男が負けるのに後を絶たないね」
などと揶揄する声もしばしば。
少なくとも、第二王子殿下の誕生祭を兼ねた夜会において、王太子アルベルトが公爵令嬢エレノアへ発した宣言は、その定義を十分に満たしていた。
「エレノア・フォン・グランツ。君との婚約を破棄する」
会場が静まり返った。
観測者たる貴族たちは、突如として発生した社会的事象に対して沈黙という合理的戦略を選択し、期待に胸を膨らませて二人の動向を見逃すまいと注視する。
エレノアはグラスを隣にいた令嬢に渡し殿下と相対する。
「理由をお伺いしても?」
「君が男爵令嬢リリアを虐めたからだ」
「具体的には?」
「階段から突き落とした。教科書を破った。中庭で紅茶を頭からかけた」
「証拠は?」
アルベルトに一枚の紙が渡される。
「目撃証言がある」
「これは証言書ではなく、目撃したという人物の署名入りの供述ですね」
「同じことだろう」
「法的にも論理的にも異なります」
アルベルトの眉が『ピクリ』と動いた。
「まず、階段から突き落とした件です。目撃者は誰ですか?」
「侍女だ」
「何時です?」
「午後三時頃だ」
「その時間、私は王立図書館にいました」
「しかし目撃証言が――」
「王立図書館の入館記録があります」
エレノアの侍女が後ろに駆け寄り懐から一枚の紙を取り出し、エレノアに渡す。
「午後二時四十八分に入館。午後四時十二分に退館」
「……」
「さらに図書館司書が証言できます」
アルベルトは苦虫を噛み潰したような顔をしたが、何も言えず沈黙を選択する。
エレノアは淡々と続ける。
「次に教科書を破った件ですが、破られた教科書はリリア様本人の所有物ですか?」
「そうだ」
「では、なぜ所有者本人が破損届を提出していないのでしょう」
「……」
「そして紅茶について」
エレノアは首を傾げた。
「紅茶を頭からかけたのであれば、衣服には茶葉、糖分、タンニン等の付着が認められるはずです」
「そんなものまで調べたのか?」
「ええ。王立薬学研究所の分析結果です」
エレノアは別の紙を提示した。
「付着していたのは水と微量の香水成分のみ。紅茶由来のタンニンは検出されませんでした」
会場の空気が変わった。
「しかし、複数の証言がある!」
「証言者は全員、リリア様の友人です」
「それが何だ!」
「五つの証言が独立しているという前提は?」
「ベイズ推論では、君が犯人である確率は――」
「その事前確率は?」
「……」
「ではゲーム理論では?」
「ナッシュ均衡なら――」
「情報の非対称性を考慮しましたか?」
「……」
エレノアは優雅に微笑み、最後の紙を差し出した。
「さらに、リリア様自身が提出した手紙です」
そこには、事件当日の午後三時二十分に、リリアが別の友人へ送った文章が記されていた。
『エレノア様を困らせるため、階段で転んだふりをします』
完全な自白ではない。
しかし、少なくともエレノアが突き落としたという仮説の事後確率を著しく低下させるには十分だった。
アルベルトは長い沈黙の後、口を開いた。
「……分かった」
そして、エレノアを見る。
「君はリリアを虐めていない」
「ありがとうございます」
「婚約破棄の理由は撤回する」
「はい」
エレノアは静かに頭を下げた。
「ですが」
アルベルトが続けた。
「婚約破棄そのものは撤回しない」
「……」
「私は君を愛していない」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「君も私を愛していないだろう」
「……そうかもしれません」
そこに、先ほどまで存在していた論争とは異なる沈黙が生まれた。
これは証拠によって決着できる問題ではない。
効用関数の定義が異なる二者間において、婚姻契約を維持することによる社会的効用が、個人的効用を上回るとは限らない。
むしろ、双方が愛情の欠如を認識した状態で婚約を継続することは、将来的な取引費用を増大させる可能性がある。
エレノアは笑った。
「では、婚約破棄には同意します」
「……いいのか?」
「はい。ただし、一つだけ訂正を」
「何だ?」
「私はあなたに捨てられたわけではありません」
エレノアはグラスを持ち上げる。
「双方の効用最大化を目的とした、合理的な契約解除です」
アルベルトも、少しだけ笑った。
「ああ」
二人の婚約は、その夜、正式に解消された。
なお、リリア男爵令嬢への冤罪については完全に晴らされた。
王太子による婚約破棄も成立した。
そして翌月。
エレノアは隣国の公爵令息と婚約した。
アルベルトは王位を継いだ。
リリア男爵令嬢は殿下から脱兎の如く逃げ出した。
歴史書には、この一件をこう記した。
『夜会における婚約破棄事件。公爵令嬢の論証により冤罪は否定され、婚約は双方合意のもと解消された』
実に簡潔な記録である。
ただし、当事者たちは知っている。
あの夜、最も不確実だった変数は、証拠でも証言でもなく。
――人間の感情だったことを。
アルベルト殿下とエレノア公爵令嬢の会話の意味が、私にはよく分かりません。
もしあなたにも分からなかったら、仲間の証として★を入れていただけるとありがたいです。




