忘却の先で、君は笑う
あの日から、世界は少しだけ狭くなった。
──いや、違う。
正確には——必要なもの以外、全部いらなくなっただけだ。
俺にとって必要なのは、ただ一人。
「お兄ちゃん、またそんな顔してる」
振り返ると、そこにいるのは——俺の、唯一の家族。
双子の妹、結衣。
「そんな顔って、どんな顔だよ」
「世界の終わりみたいな顔」
軽く笑ってみせるその表情に、ほんの少しだけ胸が締め付けられる。
——違う。終わっているのは世界じゃない。
俺の方だ。
両親がいなくなったあの日から、何もかもがどうでもよくなった。
学校も、周りの人間も、未来も。
……でも。
「ほら、朝ごはん。ちゃんと食べないとまた先生に怒られるよ」
そう言って差し出される皿だけは、無視できなかった。
「……別に、怒られたっていい」
「よくないよ。お兄ちゃん、そういうのすぐ顔に出るし」
「出てねぇよ」
「出てるって」
くすくすと笑う結衣は、昔から変わらない。
……いや、違う。
変わっていないように見えて、きっと無理をしている。
両親がいなくなった日、泣き崩れたのは俺だけだった。
結衣は、ただ静かに俺の手を握っていた。
——大丈夫だよ。
本当は、一番大丈夫じゃなかったはずなのに。
「……なぁ」
「ん?」
「……無理してないか」
俺の言葉に目を丸くして、それから結衣は笑った。
ほんの一瞬だけ、その笑顔が揺らいだ気がした。
「してないよ」
「嘘つけ」
「ほんとだって。だって——」
少しだけ視線を逸らしてから、結衣は言った。
「お兄ちゃんがいるから、大丈夫」
その言葉は軽いはずなのに、妙に重く、胸に残った。
その日の帰り道、違和感は唐突に訪れた。
「ゲホッ……ゲホッ……」
校門前で合流し一緒に帰路についていた結衣が、急に咳き込んだ。
心なしか足取りもどこか頼りなく、フラフラとしている──そんな気がした。
「……大丈夫か?風邪か?」
今朝はしていなかった咳に気付き、隣を歩く結衣に尋ねる。
「わかんない……でも大丈夫だよ」
俺の質問に一瞬考えるも、直ぐに笑顔を浮かべて返事を返す結衣。
いつも通りの笑顔で、笑って……まるではぐらかすように。
その返事に、俺は眉を顰める。
「……また言ってるぞ」
「え?何が?」
「大丈夫って……なんかあるなら無理しないで言ってこいよ……」
「大丈夫だって」
俺の抗議の言葉を聞いても笑顔を絶やさず「大丈夫」と結衣は繰り返す。
それどころか……
「そんなことより早く帰ろ?私お腹すいてきちゃった」
腹部を軽く擦りながら何処かおどけたように言葉を続ける結衣に、俺は小さくため息をついた。
……この時に気付いていたはずだった。
──
家に着く頃には結衣の足取りは明らかにおかしくなっていた。
「……ごめん、お兄ちゃん……少し部屋で休むから……夕飯出来たら教えてね?」
帰宅後、靴を脱ぐなり廊下の壁に手をつきながら結衣が俺に声をかけてきた。
先程とは違い額に汗を滲ませ、呼吸も荒い。
「……やっぱりおかしいぞ……今からでも病院に……」
「大丈夫だって、少し休めば落ち着くと思うから……」
心配する俺の言葉を遮るように、部屋へ向かいながら言葉を被せてくる結衣。
(……本当に大丈夫だろうか)
その背を見送りつつ少し俺は立ち尽くすも、リビングへ向かいカバンを置いてキッチンへと向かう。
(夕飯の用意をしてから様子を見に行こう…少し休めば変わるかもしれないし……)
結衣への心配は消えないものの夕食の準備を始める。
結衣の「大丈夫」という言葉を信じて──
──十数分後
夕食の準備を終え、結衣を呼ぶ為に部屋へと向かう。
「……結衣、夕飯出来たぞ?」
結衣の部屋の扉をノックしながら声をかける。
しかし、普段なら直ぐに出てくる結衣からの返事がない…
(寝てるのか?……)
返事が帰ってこないことに首を傾げ、俺はドアノブに手をかける。
ドアノブを回して扉を開け、中にいる結衣に再び声をかける。
「結衣、夕飯──」
そこで俺は、言葉を失った。
目の前には、シーツを血で染めたままベッドの上に倒れ込んでいる結衣がいた。
「っ!結衣っ!」
慌てて駆け寄り結衣の肩を揺らしつつ声をかける。
返事はない。息はある、しかしあまりにも浅い呼吸。
何が起こったのかわからず一瞬頭が真っ白になる。
不意に、脳裏に両親を亡くした時のことが過ぎる…
「どうしようどうしよう……先ずは救急車呼んで…それから、それからっ……」
思考がまとまらない。
嫌だ──。
もう、失いたくない──。
頭の中を色々な考えが渦巻き、纏まらず思わず片手で頭を抑える。両目から今にも涙が溢れそうになる。
その時──。
「──そのままだと、助からないよ?」
突如背後から声をかけられた。
その声に弾かれるように俺は後ろに振り返る。
振り返った先に、それは“いた”。
人の姿をしている。
——ただ、それだけの存在が。
「だ、誰だっ!……それよりも、このままだと助からないってッ……」
見知らぬ男から結衣を守るように間に立ちつつ、俺は言葉を紡いだ。
そんな俺をそのままに、男は結衣の方へと視線を向けたまま口を開いた。
「助ける可能性はある」
何処か乾いた冷たい声で、男は淡々と言い始めた。
「代わりに、失うものがある……」
「なに……言って……」
「選択は君に任せる」
こちらの問いに耳を貸すことなく、男はなおも言葉を続ける。
「彼女を助ける代償に、君は記憶を失う」
男の言葉に俺は更に混乱する。
(記憶?……代償?……何を言って……)
焦りで思考の処理が追いつかない。そんな俺をよそに男は言葉を続ける。
「選択はまかせる。あまり悩んでると、助かるものも助からない。所詮記憶など、ただの情報だ」
混乱する俺に更に追い打ちをかけるかのように言葉を紡ぐ男。
「……ふざけるな」
恐怖と焦り、混乱からか震える声で、俺はそう吐き捨てた。
しかし、その言葉は自分に向けたものでもあった。
「この状況でふざけてると思うのか?」
そんな俺とは対照的に淡々と言葉を紡ぐ男。
こうしている間にも結衣の症状は悪化する、思考が上手くまとまらない焦りと混乱で次第に呼吸も浅くなり始める。
その様子を見て男は小さく溜息をつき、一歩前に出る。
「ふむ……では、例外的に猶予を与える……」
男がため息とともに呟き、腕を上げて手のひらを結衣の方へと向ける。
突如その手のひらから僅かに光が溢れたかと思うと、光が結衣の方へと向かい結衣をほのかに包み込む。
「なにを!?」
「……」
思考が止まる。それでも体だけは動いた。
俺は男へと腕を伸ばして男の胸倉を掴む。
しかし男はそんな事は意に介さず結衣の方へと視線を向けている。
「……ぅっ……」
光が薄くなってきたところで男の視線の先──俺の後ろから小さな呻き声が聞こえた。
その声に引き寄せられるように男から結衣の方へと視線を向ける。
「結、衣……」
声を確かめるように俺は結衣の名前を呼んだ。
しかし返事はない。代わりに僅かな呼吸音が聞こえてきた。
「……少し猶予をやろう……でも時間は極わずかだ」
胸倉を掴む俺の手を払い除け、胸元を軽く手の甲で叩きながら男は口にした。
「決めたら話に来い……私はリビングの方で待とう」
俺に背を向けるとそんなことを口にしながら、男は結衣の部屋から出ていった。
今までのこととつい先程目の前で起きた出来事に理解が追いつかず、俺は思わず頭を掻き毟った。そんな時───
「……おにぃ……ちゃん?……」
「っ、結衣!」
頭を掻き毟り俯く俺を見てか、結衣が俺の事を呼ぶ。
途切れ途切れながらも普段と同じ呼び方で。
その声に俺は結衣に駆け寄った。
「結衣、どうしたんだ?!何処か悪いのか!?」
双眸に涙をためて、俺は結衣に尋ねた。
シーツに広がる程の血の量を吐いていたのだ、只事では無いだろう。
そんな心配をしている俺に、僅かに震える手を伸ばして結衣はそっと頬に触れてきた。
「お兄ちゃん……泣かないで?……私は大丈夫だから……だから笑って?」
今にも溢れそうになっていた涙が俺の目から零れる。こんな状態でも自分のことではなく俺の事を心配する結衣の優しさに耐えられなくなった。
「私ね、お兄ちゃんの笑った顔が好き…辛いこととか大変なこともあるけど……私、お兄ちゃんと一緒だから幸せだよ?……」
結衣の言葉が胸に刺さる。まるで何かを悟ったように、普段は言わない言葉を結衣は震える唇から紡いでいく。
「……わかった、もう……大丈夫だから……」
結衣の言葉に涙を拭って、俺は結衣へと笑顔を向ける。
どこがぎこちなくも、結衣の口癖を口にして嘘のない笑みを向ける。
──わかっている。
それでも、俺は選ぶ。
覚悟は、決まった。
涙を拭い、小さく呼吸を整える
そして、静かに立ち上がった。
そして、結衣に背を向けて数歩部屋の扉の方へと歩くと立ち止まった。
「……必ず、助けるから」
その一言だけ口にして、俺は振り返ることなく部屋を後にした。
──
部屋を後にした俺はそのままの足取りでリビングまで来た。
目の前にはソファに腰を下ろす黒スーツの男。
「……覚悟は決まったか?」
俺に気付いた男はこちらに視線を向けて首を僅かに傾げる。
「……あぁ、やってくれ」
短く、しかし揺るぎない言葉を俺は男に向けて口にする。
「分かった、では君の記憶を代償に彼女の命を助けよう……」
俺の言葉を聞いて男の口元が僅かに動いた気がした。男はソファから立ち上がる。
男は正面に立つと、俺の頭に左手を乗せた。
緊張か、恐怖か……一瞬身体を強ばってしまう。
しかし乗せられた手から伝わる暖かな温度に、不思議と緊張が解れていくのを感じた。
直後、先程とは違い黒い光が頭部、そして視界を薄く包み始めた。
その光に促されるかのように、俺はゆっくりと瞼を閉じる。
──
最初に頭を過ぎったのは小さい頃に結衣と一緒に遊んだ記憶。
当時住んでた家の近くの公園。笑顔ではしゃぐ結衣と、一緒に笑っていた。
その記憶が頭に浮かんで、そして溶けるように消えていく。
次に頭に浮かんだのは中学時代、くだらない事で喧嘩した記憶。
両親を亡くして自暴自棄になっていた夕夜を窘める結衣との会話の記憶。
小学生の記憶。
結衣とテストの点数を競ったり、まだ生きていた両親に結衣と一緒に褒められたりした思い出。
その思い出が、ゆっくりと溶けて消えていく。
食卓、団欒、他愛のない会話。
一つ、また一つと頭に浮かんでは…溶けて消えていく。
無意識に手を伸ばす。しかし、何も掴めない。
最後に浮かんだのは──
「お兄ちゃん」と呼ぶ、“誰か”の声だった。
それすらも、静かに消えた。
────
───
──
数日後……
白い天井を見上げ、夕夜は静かに息を吐いた。
何か、大切なものを失った気がする。
────けれど、それが何なのか分からない。
ベッド横の機械音と、室内に漂う消毒液の匂いがここは病室である事を知らせてくる。
「……失礼します」
不意に扉のノックする音が室内に響き、次いで女性の声が扉越しに聞こえる。
扉の方へと視線を向ける。
開かれた扉の所には制服姿の少女が立っていた。
見覚えは、ない。
────それなのに。
なぜか、胸の奥が僅かにざわついた。
「……あの」
声をかけられ、ゆっくりと少女へと視線を向ける。
「誰……?」
夕夜の言葉を聞き、少女は一瞬だけ言葉に詰まった。
しかし、直ぐに笑顔を浮かべる。
「……はじめまして」
少しだけ声が震えているような気がした。
「私、星宮結衣っていいます」
花束を胸に抱きしめるようにしながら、星宮結衣と名乗った少女はゆっくりと、近づいてくる。
「あなたの────妹です」
「……そうなんだ」
上手く感情が出てこない。
少女の言葉に実感が湧かない。
ただ、そう返すことしか出来なかった。
——でも。
「はい」
結衣は、そんな夕夜の返事にただ頷いた。
まるで、それでいいと、自分に言い聞かせているかのように。
「これから、よろしくお願いしますね」
その言葉に、夕夜は小さく頷いた。
何も知らないまま。
何も覚えていないまま。
それでも——
結衣は、笑っていた。
ただ、彼のために。
その意味を、彼が知ることはなかった。




