……星が、綺麗ですね
季節は巡り、纏わりつくような湿気が去って、街路樹が色づき始める頃。日が落ちるのが随分と早くなった。
定時で会社を出ても、空は既に濃紺に塗り潰されている。
肌を撫でる風には冷たさが混じり、私はトレンチコートの襟を合わせながら、いつもの路地裏へと急いだ。
金曜日。週に二度の、私の聖域へ向かう日だ。
夏の間、あんなにも騒がしかったセミの声は消え、今は鈴虫の涼やかな音色が路地裏に響いている。
『月見書店』の看板が、温かなオレンジ色の光を灯して私を待っていた。
カラン、コロン。
真鍮のベルが、秋の夜に澄んだ音色を落とす。店内に入ると、ふわりと漂う古紙の匂いに、少しだけ珈琲の香りが混じっている気がした。
寒くなってきたからだろうか。奥で彼が淹れているのかもしれない。
私は深く息を吸い込み、その香りを肺いっぱいに満たす。それだけで、仕事で強張った神経が一本ずつ解れていくようだ。
「いらっしゃいませ」
レジカウンターの奥から、落ち着いた声が届く。
水瀬さんだ。今日の彼は、濃いグレーのカーディガンを羽織り、その上にいつもの紺色のエプロンをつけていた。
少し厚着になったその姿が、季節の移ろいを感じさせて、なんだか無性に胸が締めつけられる。
私は軽く会釈をして、いつものように本棚の間へと足を踏み入れた。
今日のお目当ては、先日入荷したばかりの天体写真集だ。
彼が――水瀬さんが、以前何気ない会話の中で「秋は空気が澄んでいて、星がきれいに見えますよ」と呟いていたのを覚えていたからだ。
写真集のコーナーへ行くと、平積みされたその本はすぐに目に入った。漆黒の宇宙に浮かぶ、鮮烈な星々の輝き。
私はその一冊を手に取り、ページを捲る。
美しい。けれど、写真よりも、これをレジに持っていったときの彼の反応の方が気になってしまう私は、やはり不純なのだろう。
レジへと向かうと、彼は手元の文庫本から視線を上げ、私が差し出した写真集を見た。
「……ああ、これ」
彼が小さく声を漏らす。
「とても評判がいい写真集です。……星が、綺麗ですね」
「はい。水瀬さんが、秋は星が綺麗だって言っていたのを思い出して」
私がそう伝えると、彼は少しだけ目元を緩めた。夏の一件以来、彼との会話は少しだけ増え、そして柔らかくなっていた。
彼は慣れた手つきで写真集のバーコードを読み取り、会計を進める。
そして、すっかり常連の私が会員証代わりのポイントカードを差し出したときだった。
彼はカードを受け取り、そこに記された私の名前――『結月星衣』の文字に視線を落とした。
ピッ、とカードを読み取る音がする。けれど、彼はすぐにカードを返してはこなかった。
長い指先が、カードの縁をなぞるように留まっている。
ふと、彼が視線を上げ、店の奥にある小さな明かり窓へと目を向けた。そこからは、今夜の月が覗いている。
それから、再び私の名前に視線を戻し、最後に私を見た。
「……?」
何だろう。彼の瞳の奥に、何か静かな光が揺らめいた気がした。
まるで、難解なパズルのピースがカチリと嵌まったような、あるいは秘密の共有を見つけたような、そんな目。
彼は口元を僅かに動かしたが、言葉にはしなかった。代わりに、本当に微かに、吐息のような笑みを零したのだ。
「……いえ。ありがとうございます、結月様」
返されたカードを受け取りながら、私は小首を傾げることしかできなかった。
今の間は、何だったのだろう? 私の名前に、何かついていた? それとも、何か変なことでも……?
聞きたかったけれど、彼はすでに写真集を丁寧に包む作業に入っている。
その綺麗な指の動きに見惚れてしまい、私は問いかけるタイミングを逃してしまった。
会計を終え、商品を受け取る。時計を見ると、もうすぐ閉店時間の八時になろうとしていた。
長居をしては迷惑だ。私は名残惜しさを振り切るように、彼に背を向けた。
「ありがとうございました。また」
「ありがとうございました」
背中で彼の声を聞きながら、私は店を出た。外は、来たときよりも冷え込んでいた。
吐く息が白くなりそうで、私はマフラーを持ってこなかったことを後悔する。けれど、足を止め、先程窓から見た月を見上げる間だけは寒さを忘れられる気がした。
路地裏は暗く、街灯もまばらだ。駅へと続く道を歩き出せば、カツ、カツ、と自分のヒールの音だけが響く。
そのとき、背後でガチャリと重い音がした。振り返ると、『月見書店』の明かりが消え、扉の前に人影が立っていた。
水瀬さんだ。
ちょうど店を閉めて出てきたところらしい。彼は鍵をかけ、ふとこちらを向いた。
目が合う。気まずい。待ち伏せしていたと思われないだろうか。私は慌てて会釈をし、逃げるように歩く速度を速めた。
しかし、駅へ向かう道は一本しかない。どうしても同じ方向へ歩くことになる。背後から、彼の落ち着いた足音が聞こえてきた。
革靴がアスファルトを叩く音。その音は、私の歩幅よりもずっと広く、ゆったりとしているのに、確実に近づいてきている。
やっぱり、背が高い人は歩くのも速い。追い抜いてもらった方がいいのかもしれない。でも、立ち止まって待つのも変だ。
意識すればするほど、足がもつれそうになり、焦りが募る。
私は彼との距離を保とうと、小走りに近い早足になった。
しかし、その焦りが、最悪な形で私に降りかかる。舗装の窪みに、ヒールが引っかかった。
「あ」
バランスが崩れる。世界が傾き、冷たいアスファルトが目の前に迫った。
転ぶ。
私は反射的に目を瞑り、衝撃に備える。だが、痛みは来なかった。
代わりに、ぐいっと強い力で二の腕を引かれるのがわかる。
「……っ!」
体が宙で止まり、背中に、誰かの温かい体温を感じた。恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に地面があり、私は中途半端な姿勢で静止していた。
私を支えているのは、背後から伸びた腕。水瀬さんだ。彼は私の腕をしっかりと掴み、転倒を寸前で防いでくれていたのだ。
「……なにしてるんですか」
頭上から、呆れたような、でもどこか焦りを含んだ声が降ってきた。
彼は私を立たせると、掴んでいた手をぱっと離した。その動作は素早く、まるで触れていたことを誤魔化すかのようだった。
私は心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴るのを感じながら、振り返った。街灯の薄明かりの下、彼が眉を寄せて立っている。
「す、すみません……」
情けない。いい歳をして、何もないところで転びかけ、彼に助けられるなんて。顔から火が出そうだ。
「怪我は?」
「あ、はい。大丈夫です。水瀬さんが助けてくれたおかげで……」
「なら、いいですけど」
彼は短く息を吐き、視線を逸らした。
「……暗いですから。気をつけてください」
「はい……」
彼はそれだけ言うと、再び歩き出した。私も慌ててその横につく。自然と、並んで歩く形になってしまった。
沈黙が落ちる。聞こえるのは二人の足音だけ。
彼の足はやっぱり速い。さっきの失敗を繰り返さないように、私は必死に足を動かす。けれど、身長差はいかんともしがたい。彼の一歩は、私の二歩分くらいありそうだ。
置いていかれないように、少し息を切らしながらついていく。
すると、ふいに隣の気配が速度を緩めた。え、と思って横を見ると、彼は前を向いたまま、明らかに歩調を落としていた。
私の歩幅に合うように。私が無理なく歩ける速度に。彼なりの、無言の気遣い。
それに気づいた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
言葉はない。彼は何も言わないし、私も何も言えない。けれど、その沈黙は決して気まずいものではなかった。むしろ、心地いい。
秋の冷たい風の中、隣に彼がいるという事実だけで、世界が少しだけ優しくなったような気がした。
彼のカーディガンの袖が、歩くたびに微かに揺れる。時折、肩が触れそうになる距離。触れたい、と思ってしまう自分の手を、私はポケットの中で強く握り締めた。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
駅までの道のりが、今日だけは永遠に伸びてしまえばいいのに。
けれど、現実は無情だ。駅前の明るい光が見えてきてしまった。
改札へ続く階段の下。別れの場所だ。
彼は足を止め、私も立ち止まる。
賑やかな駅前の喧騒が、二人の間の静寂を際立たせる。
「あの、今日は……ありがとうございました。助けていただいて」
私は深く頭を下げた。
「いえ。……お気をつけて」
彼は淡々と答える。いつも通りの、店主としての顔。
ここで「さようなら」と言って、背を向けるのが正解だ。わかっている。けれど、名残惜しくて足が動かない。
私が躊躇っていると、彼がふと、夜空を見上げた。つられて私も見上げる。ビルの隙間に、細い月と、いくつかの星が輝いていた。
「……星」
彼がぽつりと呟く。
「え?」
「いえ」
彼は視線を戻し、私を真っ直ぐに見た。その瞳に、街灯の光が反射して揺れている。そして、彼は言った。
「……おやすみなさい。火曜日、また」
低く、けれど確かな響きを持ったその言葉。私は息を呑んだ。
今まで、「ありがとうございました」や「またお越しください」は何度も聞いた。けれど、「また」という言葉に、具体的な曜日がついたのは初めてだった。
しかも、「火曜日」と。
それはまるで、私が次に来ることを知っていて、それを待っているかのような――明確な約束の言葉。
「あ……」
ただ頷くのが精一杯で、言葉が出てこない。彼は小さく会釈をすると、改札の方へは向かわず、別の方向へと歩き去っていった。
その背中が見えなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
帰りの電車は、時間が遅いせいか人はまばらだった。私は空いているシートの端に座り、バッグを抱きしめるようにして深く息をつく。
心臓が、まだうるさいほど鳴っている。
窓硝子に映る自分の顔は、酷く赤くて、緩んでいて、直視できない。まるで夢のような時間だった。
彼の体温。合わせてくれた歩幅。そして、最後に彼が口にした『次の火曜日』の約束。
週に二日。私が来る日を、彼は覚えていてくれた。そして、それを口に出してくれた。
もしかして、待ってくれている? 私が店に行くのを、彼も少しは楽しみにしてくれている?
なんて、夢見がちなティーンのような思考が浮かんで、私は一人で苦笑いをした。
そんなわけはない。彼の言葉を借りるなら、それはただの事実だ。私が毎週火曜日に来るという事実を確認したに過ぎない。
彼は店員で、私は客。「また(来てくださいね)」という営業トークに、曜日がついただけだ。
期待しすぎてはいけない。舞い上がりすぎてはいけない。そう自分に言い聞かせるけれど、胸の奥から湧き上がる温かいものは、どうしようもなくて。
私はバッグの中に入っている写真集の包みに触れた。彼が包んでくれた本。彼が触れた本。
電車の揺れに身を任せながら、私は小さく呟いた。
「……火曜日、また」
その言葉をお守りのように繰り返す。彼が何を言おうと、どう思っていようと関係ない。次の火曜日、私はまた書店へと行くのだから。
あなたに会いに――。




