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月と星の書架  作者: 沙也
8/15

ただ、この人の側にいたい。

 金木犀の香りが雨に濡れて、アスファルトにへばりつくような甘い匂いを放つ季節が終わろうとしていた。


 街路樹は色づき、風は日増しに冷たさを増していく。


 カレンダーの数字だけが淡々と進み、私の日常もまた、判で押したように繰り返されていた。




 火曜日と金曜日。週に二回、『月見書店』に通う。本を買い、週末に焼いたお菓子を渡し、少しの会話を交わす。


 「いらっしゃいませ、結月様」


 「ありがとうございます、美味しかったです」


 「また、来週」


 そのやり取りは、まるで精巧に組まれたプログラムのように滑らかで、そして完璧だった。


 夏に彼が私の名前を知り、お菓子を受け取ってくれるようになってから、数ヶ月。季節は巡ったけれど、私たちの関係は、あの夏の日から一歩も進んでいないように思えた。


 停滞。


 その言葉が、秋の雨のように心に重くのしかかる。


 後退しているわけではない。嫌われてもいないし、拒絶もされていない。けれど、前進もしていない。


 店主と、顔なじみの客。お菓子をくれる、ちょっと変わった常連さん。


 それが、彼の中での私の立ち位置。そこから一歩でも踏み出そうとすれば、透明な壁に鼻先をぶつけてしまう。


 そんな、生温い閉塞感の中に私はいた。




 




 ある木曜日の夜。私は会社の同僚たちと、駅前の居酒屋にいた。プロジェクトの打ち上げという名目の飲み会だ。


 安っぽい木のテーブルには、唐揚げや枝豆、脂っこい料理が所狭しと並び、ジョッキがぶつかる音が絶え間なく響いている。


 紫煙と、アルコールの匂い。そして、耳をつんざくような笑い声と怒号。


「でさー、その男がマジでありえなくて!」


「うわ、最悪~! やっぱマッチングアプリなんてろくなのいないって」


 隣の席では、後輩の女の子たちが恋バナに花を咲かせている。


 向かいの席では、上司が部下に説教交じりの自慢話を垂れ流している。


 私は曖昧な愛想笑いを貼り付け、ウーロン茶のグラスについた水滴を指でなぞっていた。


 ここにいるのに、ここにいないような感覚。周囲の喧騒が、まるでテレビの向こう側の出来事のように遠く感じる。


「星衣さんはどうなんですか?」


 不意に、話題の矛先が私に向けられた。声をかけてきたのは、入社三年目の後輩だ。


 酔いが回っているのか、頬を赤くして目をとろんとさせている。


「え、私?」


「そうですよぉ。星衣さん、美人なのに浮いた話全然聞かないじゃないですか。彼氏とか、いないんですか?」


 その場の空気が、一瞬だけ私に集中する。悪意のない、純粋な好奇心。それが今の私には、鋭利な刃物のように感じられた。


「……いないよ、そんなの」


 私は苦笑いでかわす。


「えー、ほんとですか? 理想が高いんじゃないですか?」


「そんなことないって。……ただ、縁がないだけで」


「もったいないなぁ。あ、そうだ! 今度、合コン組みましょうよ! 私の大学の友達で、商社マンがいるんですけど――」


 後輩の善意が、土砂崩れのように押し寄せてくる。断る言葉を探しながら、私はふと、あの静かな書店の空気を思い出していた。


 ここにはない、静寂。インクの匂い。そして、淡々とした彼の声。


 もし、ここに彼がいたら。彼はきっと、眉を顰めてこの喧騒を嫌がるだろう。「面倒ですね」と呟いて、さっさと帰ってしまうかもしれない。


 そんな彼の姿を想像して、私は少しだけ口元を緩めた。


「……あ、星衣さん笑った! さては、いるんですね? 気になってる人!」


「えっ」


 目聡い後輩に指摘され、私は慌てて真顔に戻る。


「ち、違うよ。……ただ、合コンはいいかなって」


「えー、つまんないの」


 後輩はすぐに興味を失い、別の話題へと移っていった。私は安堵の息を吐き、グラスの氷をカランと鳴らした。


 気になっている人。いる。確かにいる。


 けれど、その人はここにはいないし、私の日常のこの場所には、決して交わらない人だ。


 会社という社会、飲み会という付き合い。それが私の「現実」だとしたら、あの書店は「夢」の中にしかない場所のように思える。


 現実の私は、二十八歳で、彼氏なしで、将来に不安を抱えたただの会社員。


 夢の中の私は、彼と言葉を交わし、特別扱いされている――かもしれないヒロイン。


 その落差に、眩暈がしそうになる。私はトイレに立つふりをして、席を外した。


 洗面所の鏡に映る自分は、化粧が崩れ、疲れた顔をしていた。これが、現実。


 あのお店で見せている、少し背伸びした「丁寧な暮らしをしている女性」の皮を剥げば、そこには空っぽの私がいるだけだ。




 


 追い打ちをかけるように、現実は容赦なく私を追い詰める。


 週末。泥のように眠っていた土曜日の朝、枕元のスマートフォンが震えた。


 画面に表示された「母」の文字を見て、私は重たい体を起こした。


「……もしもし」


『あ、星衣? おはよう。まだ寝てたの?』


 母の明るい声が、寝起きの頭に響く。


『ごめんごめん。でもね、ちょっといい話があるのよ』


 いい話。


 母の言う「いい話」が、私にとって本当に良かった試しはない。嫌な予感がして思わず身構えた。


『この間言ってた、お母さんの知り合いの息子さんなんだけどね。写真送ってもらったのよ。すっごく真面目そうな好青年でね、公務員なんだって』


 ああ、やっぱり。見合いの話だ。


「……お母さん、前にも言ったけど、今はそういうのいいから」


『何言ってるの。もう二十八でしょ? 来年は二十九、すぐ三十よ。のんびりしてる場合じゃないじゃない』


 正論だ。反論の余地もないほどの、暴力的な正論。


『あんたね、東京で仕事頑張ってるのはわかるけど、女の幸せってそれだけじゃないでしょ? お父さんも心配してるのよ。……もしかして、誰かいい人でもいるの?』


 飲み会での後輩と同じ質問。けれど、母のそれはもっと切実で、重い。


 いい人。水瀬さんの顔が浮かぶ。


 けれど、それを口にすることはできない。だって、彼は「彼氏」でもなければ、「いい感じの人」ですらない。


 ただの、通っている書店の店主さんだ。名前を知っているだけ。お菓子を食べてくれるだけ。それを「いい人」として親に紹介できるはずがない。


「……いないよ。仕事が忙しいだけ」


 私は嘘をついた。自分自身にも、母にも。


『だったら、一度会うだけ会ってみなさいよ。写真送るから。ね? 来月、帰ってきなさい』


「……考えとく」


 逃げるように通話を切った。スマートフォンの画面が暗転し、私の顔が映る。惨めな顔だ。


 年齢、結婚、世間体。それらが黒い波となって、私を飲み込もうとしている。


 その波に抗うための唯一の浮き輪が、あの『月見書店』での時間だった。


 けれど、その浮き輪はあまりにも頼りなく、そしていつ空気が抜けてもおかしくない脆いものだった。




 


 


 火曜日。


 私は逃げ込むように、路地裏へと急いだ。


 現実の重圧から、母の声から、将来の不安から逃げるために。


 カラン、コロン。


 ベルの音を聞いた瞬間、肺に詰まっていた鉛のような空気が、ふっと抜けていくのを感じた。


 インクの匂い。静寂。そして、レジカウンターの奥にある、彼の姿。


 水瀬さんは、いつもの紺色のエプロン姿で、文庫本にカバーを掛けていた。


 その動作の美しさ。伏せられた睫毛の長さ。世界から切り離されたような、その佇まい。


 ああ、やっぱり。ここだけが、私の居場所だ。飲み会の喧騒も、母の小言も、ここには届かない。


 この数メートル四方の空間だけが、私にとっての「聖域」であり、彼と私だけの世界。


「いらっしゃいませ」


 彼が顔を上げる。私を認めると、小さく、けれど確かに微笑んだ。その笑顔を見るだけで、胸の奥が熱くなる。


 好きだ。


 どうしようもなく、好きだ。


 現実的な条件とか、将来性とか、そんなものはどうでもいい。


 ただ、この人の側にいたい。この静かな空間を共有していたい。


 私は今日持ってきたお菓子の袋を握りしめ、レジへと向かった。今日は、マドレーヌだ。レモンの皮をすりおろして入れた、爽やかな香りのもの。


 いつものように本を選び、会計をする。


「お願いします」


「はい」


 短いやり取り。そして、お菓子を渡す。


「これ、よかったら」


「いつもすみません。……いただきます」


 彼は嬉しそうに受け取り、大事そうにしまう。そこまでは、いつも通りだった。けれど、今日の私は、そこで足を止めてしまった。


 帰りたくなかった。


 この扉を出てしまえば、また冷たい風が吹く現実が待っている。独りぼっちのアパート。母からのメッセージ。将来への不安。


 それらに立ち向かう気力が、今日の私には残っていなかった。


「……あの」


 つい、声が出た。彼は怪訝そうに私を見る。


「はい?」


「……水瀬さんは、お仕事、楽しいですか?」


 唐突で、変な質問だ。自分でも何を言っているんだと思う。彼は少し驚いたように目を瞬かせ、それから困ったように笑った。


「楽しい……とは、少し違うかもしれません」


 彼は店内を見回す。


「祖父から受け継いだものを守っているだけですので。……義務感の方が強いかもしれませんね」


「義務、ですか」


「ええ。……でも、嫌いではありません。本に囲まれているのは落ち着きますし、こうして……」


 彼は言葉を切り、私を見た。


「あなたが来てくださるような、静かな時間は、悪くないと思っています」


 どきりとした。私が来る時間を、悪くないと言ってくれた。それは、遠回しな好意なのだろうか。それとも、単なる客へのリップサービス?


 期待と不安が入り混じり、私はさらに踏み込んでしまう。


「……私、ここに来るのが一番の楽しみなんです」


 言ってしまった。重い。重すぎる。ただの客が言う台詞じゃない。


 でも、止まらなかった。


「仕事で疲れても、嫌なことがあっても、ここに来れば忘れられる気がして。……水瀬さんがいてくれて、よかったなって」


 私の言葉に、彼は目を見開いた。そして、少し戸惑うように視線を逸らした。


「……それは、光栄です」


 彼の声は、優しかった。けれど、どこか一線を引いているような、冷徹な響きも混じっていた。


「僕も、結月様に来ていただけるのは嬉しいです。……いいお客様に恵まれて、店主冥利に尽きます」


 お客様。


 その言葉が、鋭い棘となって胸に刺さった。


 わかっている。私は客だ。彼は店主だ。その関係性が、この心地よい距離感を作っている。


 けれど、彼がそれを強調すればするほど、私は自分が「都合のいい常連客」でしかないのだと突きつけられる気がした。


 毎週本を買い、美味しいお菓子を貢いでくれる、害のない客。少しの会話で満足して帰っていく、扱いやすい客。


 彼は私のことを「いいお客様」と言った。それは、「特別な女性」ではないという宣告にも聞こえた。


 もし、私が今日、「好きです」と言ったら。彼はどんな顔をするだろう。困った顔をするだろうか。


 「お客様とはそういう関係にはなれません」と、丁重に断られるだろうか。


 そうしたら、私はもう、ここには来られなくなる。この聖域を、自らの手で壊すことになる。


 それは嫌だ。


 私は、この場所を失うのが何よりも怖い。だから、私は笑った。


 心の中で泣きながら、完璧な「いいお客様」の仮面を被って。


「……ありがとうございます。これからも、通わせてくださいね」


「もちろんです。……お待ちしています」


 彼は安堵したように微笑んだ。その笑顔が、優しければ優しいほど、残酷に思える。


 


 店を出ると、冷たい夜風が頬を打った。空を見上げると、厚い雲に覆われて星は見えない。


 手の中には、彼が包んでくれた本がある。お菓子は渡せた。会話もできた。笑顔も見られた。


 客観的に見れば、今日も「成功」の部類に入るだろう。けれど、私の胸に残ったのは、満たされない空虚感だけだった。


 進展がない。


 名前を知っても、好物を知っても、結局のところ、私はカウンターの向こう側には行けない。彼は優しく、丁寧に、そして強固に、その境界線を守っている。


 もしかしたら、彼は気づいているのかもしれない。私の好意に。


 気づいた上で、今のこの「店員と客」という安全な関係を維持しようとしているのかもしれない。


 「面倒事」を嫌う彼にとって、客からの恋愛感情なんて、一番の面倒事だろうから。


 私はトレンチコートの襟を合わせ、駅へと歩き出した。ショーウィンドウに映る自分の姿が、酷く頼りなく見えた。


 母の言う通り、見合いでもした方がいいのだろうか。現実的な幸せを求めた方が、傷つかずに済むのだろうか。


 でも、あの静かな空間で、彼がページを捲る音を聞いているときの、あの満ち足りた気持ち。


 あれ以上の幸せが、他の場所にあるとは思えなかった。




 私は泥沼に嵌まっている。心地よく、温かく、けれど底なしの沼に。


 そこから抜け出したいのか、それとも溺れていたいのか。自分でもわからないまま、私は改札を通り抜けた。


 火曜日が終わる。次は、金曜日。


 また私は、お菓子を焼き、期待を胸にあの扉を開けるのだろう。「いいお客様」の仮面を被って。


 それが、今の私に許された、唯一の彼との繋がりなのだから。


 

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