「……大丈夫ですか?」
その日は、じりじりと肌を焼くような日差しが降り注ぐ、七月の最後の日曜日だった。
アスファルトからは陽炎が立ち昇り、遠くの景色をゆらゆらと歪ませている。
私は日傘を深く差し、額に滲む汗をハンカチで押さえながら、いつもの路地裏へと向かっていた。
普段なら、日曜日は家で撮り溜めたドラマを見るか、エアコンの効いた部屋で読書に耽るのが常だ。
けれど今日の私は、少し特別だった。
動きやすいコットンのブラウスに、足元はいつものヒールではなく、歩きやすいスニーカー。
バッグの中には、水筒とタオル、そして彼――水瀬さんへの差し入れである、ゼリーが入っている。
目的地は、『月見書店』。
けれど今日は、本を買いに行くわけではない。日曜日。この店は定休日だ。
本来なら固く閉ざされているはずのその扉を、私は特別な許可を得て叩こうとしていた。
きっかけは、先日の火曜日のことだ。孫へのプレゼントを探していたお客様に、私が助け舟を出した一件。
その後、水瀬さんから「児童書の棚の配置、少し意見をもらえませんか?」と相談を持ちかけられたのだ。
『店が開いている時間は、他のお客様の迷惑になりますし、僕もレジを離れられません。もしご迷惑でなければ、定休日の日曜日に……』
彼は申し訳なさそうにそう言ったけれど、私にとっては迷惑どころか、天にも昇るような提案だった。
定休日の書店。彼と二人きり。しかも、大好きな本に触れられる。断る理由なんて、どこにもなかった。
路地裏に入ると、建物の陰のおかげで少しだけ暑さが和らぐ。
見慣れた『月見書店』の看板は、今日は「CLOSED」の札を下げて静まり返っていた。シャッターこそ降りていないものの、店内の照明は消えていて、薄暗い。
本当に、入っていいのだろうか。急に不安になって、扉の前で立ち尽くす。
約束の時間は午後一時。時計を見ると、五分前だ。深呼吸を一つ。私は緊張で湿った掌をスカートで拭い、硝子戸をノックした。
コン、コン。乾いた音が響く。反応はない。奥にいるのだろうか。もう一度ノックしようと手を上げたとき、内側から鍵が開く音がした。
カチャリ。扉がゆっくりと開く。
「……どうぞ」
顔を出したのは、水瀬さんだった。その姿を見た瞬間、私は言葉を失う。
いつもの紺色のエプロン姿ではない。飾り気のない白のTシャツに、少し色落ちしたデニムパンツ。髪も、いつものように整えられてはおらず、少し無造作に額にかかっている。
無防備。その言葉が脳裏を過り、心臓がどくんと跳ねた。
仕事モードではない、彼のプライベートな姿。それがあまりに新鮮で、そして年相応の青年に見えて、直視できない。
「あ、あの……こんにちは。お休みの日にすみません」
慌てて視線を逸らしながら挨拶をすると、彼は少し眠たげな目を擦りながら、扉を大きく開けてくれた。
「いえ。わざわざ来ていただいて、ありがとうございます。……暑かったでしょう」
「はい、サウナみたいでした」
中に入ると、冷房の涼しい風が火照った肌を撫でた。生き返る。
店内の照明は半分ほどしかついておらず、本棚の奥は薄闇に沈んでいる。
BGMもない。聞こえるのは、古びたエアコンの稼働音と、外で鳴くセミの声だけ。
営業中の静謐さとはまた違う、どこか秘密めいた空気が漂っていた。
「とりあえず、荷物はあちらに」
彼が指差したのは、レジカウンターの端だ。私はバッグを置き、持ってきた紙袋を取り出した。
「これ、差し入れです。……作業の合間にでも」
中に入っているのは、グレープフルーツとオレンジの二層仕立てのゼリーだ。
保冷剤をたっぷり入れてきたけれど、この暑さだ。早く冷蔵庫に入れてもらった方がいいだろう。
「すみません。……気が利かなくて」
彼は少し驚いたように袋を受け取ると、中を覗き込んで目を細めた。
「ゼリー、ですか。……冷たくて美味しそうだ」
「夏ですから。サッパリしたものがいいかなって」
「助かります。……冷蔵庫に入れておきますね」
彼が奥のバックヤードへと消える。その背中を見送りながら、私は店内を見回した。
誰もいない書店。本好きにとっては、これ以上ない贅沢な空間だ。
いつもなら他のお客さんの視線を気にして遠慮がちに歩く通路も、今日は堂々と真ん中を歩ける。
児童書コーナーは、店の左奥にあった。低い木製の棚が三列ほど並び、その上には色とりどりの絵本や児童文学が並んでいる。
改めて見ると、確かに分類が曖昧だ。出版社別だったり、作家別だったり、あるいは単に大きさ順だったり。
大人が探す分には問題ないけれど、子供が「面白い本」を探すには、少し不親切かもしれない。
「……お待たせしました」
水瀬さんが戻ってきた。手には軍手を持っている。
「早速ですが、始めましょうか」
彼は私にも軍手を差し出しながら、困ったように棚を見上げた。
「見ての通り、無秩序なんです。祖父の代からの在庫と、僕が適当に入荷した新刊が混ざってしまっていて」
「そうですね……。名作も多いのにもったいないです」
私は軍手をはめながら、棚の一角を指差した。
「例えば、ここ。この絵本の隣に低学年向けの読み物があるのはいいんですけど、そのすぐ下に高学年向けの児童文学があるのは、ちょっと対象年齢が飛びすぎかなって」
「なるほど……。僕からすれば、どれも『子供の本』という括りだったので」
彼は感心したように頷く。やはり、彼は物語の内容には疎いようだ。
「子供の本と一口に言っても、絵を楽しむ時期、読み聞かせてもらう時期、自分で物語の世界に没頭する時期……それぞれ全然違うんです」
私は棚から数冊の本を抜き出しながら、提案した。
「なので、まずは大きく三つに分けませんか? 『絵本』『読み物』『児童文学』。その中でさらに、ジャンル分けしていくとか」
「ジャンル、ですか」
「はい。『冒険』とか『動物』とか『家族』とか。……子供って、そのときの気分で本を選びたいときがあると思うんです」
私の言葉に、彼は少し考え込み、それから納得したように顔を上げた。
「……いいですね。それで行きましょう」
彼の方針が決まったところで、作業開始だ。
まずは、棚にある本を一度すべて出すことから始まった。これがなかなかの重労働だった。
絵本は一冊一冊は薄くても、ハードカバーのものは意外と重い。
それに、古い本には埃が溜まっている。ぱたん、と本を閉じるたびに、白い埃が舞い上がり、陽の光に照らされてキラキラと光る。
「うわ、すごい埃……」
「すみません。普段、あまり動かさない棚なので」
水瀬さんは申し訳なさそうにしながらも、手際よく本を運び出していく。
その腕に、うっすらと筋肉の筋が浮き出ているのが見えた。重い図鑑の束を、彼は軽々と持ち上げる。
普段、レジで本を包む繊細な指先しか見ていなかったから、その「男の人」らしい力強さに、不覚にもどきりとしてしまう。
いけない、作業に集中しなきゃ。私は慌てて本を拭く作業に戻った。
一時間ほど経ち、床には本の山がいくつも出来上がっていた。
ここからが私の出番だ。この山を、新しいカテゴリごとに仕分けていく。
「これは……『冒険』ですね。こっちは……うーん、『魔法』かな」
水瀬さんは私の指示に従って、本を移動させてくれる。
「結月様、これは?」
「あー……それは難しいですね」
彼が差し出した本に、私は腕組みをして唸った。
「絵本ですけど、内容は哲学的というか……大人にも読んでほしい本ですし」
「……読んでみても?」
「ええ、もちろん。短いですから、すぐ読めますよ」
彼はその場に胡座をかき、ページを開いた。
静寂が戻る。
私はその隙に、別の本の仕分けを進める。時折、彼の方を見ると、真剣な眼差しでページを捲っていた。
その横顔は、少年のように無垢で、そしてどこか切なげだった。
数分後、彼は静かに本を閉じた。
「……深いですね」
ぽつりと、感想が漏れる。
「これは……愛の形、なんでしょうか」
「そう受け取る人もいますし、親子の話だという人もいます。読む人によって、読む時期によって、感想が変わる本なんです」
「なるほど……。これは、安易に子供向けとは言えないかもしれない」
彼は本を愛おしげに撫でると、「『考える本』という棚を作りましょうか」と提案してくれた。
「素敵ですね」
二人の意見がカチリと噛み合う瞬間。それがたまらなく嬉しくて、私は自然と笑みを零していた。
作業は順調に進み、いよいよ棚に戻す段階になった。
「あ、それ、私がやります」
水瀬さんが別の場所を片付けている間に、私は児童書の中に数冊混じっていた専門書を、あるべき棚へと戻そうとした。
けれど、届かない。背伸びをしても、目的の棚まであと数センチ足りない。しかも、本が思った以上に重くて、腕がプルプルと震え始めた。
バランスが崩れる。
あ、落ちる――そう思った瞬間だった。
「危ない」
背後から、影が覆いかぶさってきた。私の腕の上から、彼の手が伸び、本の束を支える。
「……っ!」
背中に、彼の胸板の感触があった。
近い。耳元で彼の息遣いが聞こえるほどの距離。ふわりと、汗と石鹸の混じった匂いが鼻腔をくすぐる。私の心臓が、早鐘を打って警報を鳴らした。
「無理をしないでください。……高いところは、僕がやりますから」
彼は私の手から本を抜き取ると、軽々と棚に押し込んだ。
その一連の動作の間、私は彼の腕の中に囲われているような状態で、身動き一つ取れなかった。
「……大丈夫ですか?」
本を入れ終えた彼が、顔を覗き込んでくる。
その瞳が、あまりに近い。墨色の瞳に、私の間抜けな顔が映っている。
「あ、は、はい……! すみません、ちょっと見栄を張りました」
顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。私は慌てて彼から離れ、別の棚へと逃げた。
心臓が落ち着かない。作業に没頭して忘れていたけれど、ここは私たちは二人きりなのだ。
その事実を突きつけられたようで、急に部屋の温度が上がったような気がした。
それからは、お互いに少しだけ口数が減った。
黙々と作業を進める。けれど、その沈黙は決して気まずいものではなく、むしろ心地よい緊張感を孕んだものだった。
時折、本を渡す時に指先が触れる。その度に、ピリリとした電流が走るような感覚。
彼も同じだろうか。ふと見ると、彼もまた、耳の先を少し赤くして、視線を逸らしているような気がした。
「……よし。これで、大体終わりですね」
最後の本を棚に収め、私は大きく息を吐いた。
時計を見ると、もう夕方の四時を回っていた。西日が店内に長く伸び、舞い上がった埃が黄金色に輝いている。
生まれ変わった児童書コーナー。ジャンルごとに整理され、表紙を見せる面陳列も取り入れた棚は、以前よりもずっと明るく、楽しげに見えた。
「……凄いです」
水瀬さんが、棚を見上げながら感嘆の声を漏らす。
「僕一人では、絶対にこうはなりませんでした。……本たちも、居心地が良さそうだ」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいです」
額の汗を拭いながら、私は達成感に浸る。
役に立てた。彼の大切な店の一部を、私が作ったのだ。その事実が、何よりも誇らしかった。
「……少し、休憩にしましょう」
「あ、はい」
「座っていてください。何か、飲み物を持ってきます」
彼は私をレジ横の丸椅子に座らせると、奥へと引っ込んだ。私はぐったりと椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げる。
疲れた。けれど、心地よい疲れだ。体中が埃っぽいし、汗で服が張り付いているけれど、こんなに充実した日曜日は久しぶりだった。
すぐに彼は戻ってきた。お盆には、水滴のついた硝子のコップと、私が持ってきたゼリーが載っている。
「どうぞ。麦茶です」
「ありがとうございます」
キンキンに冷えた麦茶を一口飲む。香ばしい香りと冷たさが、乾いた喉に染み渡っていく。
「生き返る……」
思わず声に出すと、彼がくすりと笑った。
「お疲れさまでした。……本当に、助かりました」
彼はカウンターに腰掛け、自分も麦茶を口にする。その喉仏が動くのを、私はぼんやりと見つめていた。
Tシャツ姿の彼は、やっぱり新鮮だ。エプロンという鎧を脱いだ彼は、どこか無防備で、少しだけ幼く見える。
「……ゼリー、いただきますね」
彼がスプーンを手に取る。透明なカップに入ったゼリーは、オレンジとピンクのグラデーションが美しく、西日に透けて宝石のようだ。
彼が一口食べるのを、私は固唾を飲んで見守った。甘いものは好きだと言っていたけれど、手作りの味はどうだろうか。
「……ん」
彼の目が、少しだけ見開かれる。
「……美味しい」
その一言に、私の胸が躍った。
「本当ですか? 酸っぱすぎませんか?」
「いえ、ちょうどいいです。……グレープフルーツの苦味が、夏に合いますね」
彼はもう一口食べ、ふわりと目元を緩めた。その笑顔。普段の「いらっしゃいませ」の微笑みとは違う、彼の笑顔。
それを見られただけで、今日ここに来た甲斐があったというものだ。
「良かった……。実は、隠し味に少しだけ白ワインを入れてるんです」
「へえ……。だからこんなに香りがいいんですね」
彼は感心したようにゼリーを見つめる。
「結月様は、多趣味なんですね。読書に、お菓子作りに」
「いえ、ただのインドア派なだけです。……休日は家に籠もってばかりですし」
「僕も似たようなものです。……休日は、もっぱら店の在庫整理か、祖父からもらった天体望遠鏡の手入れをしているかですから」
「天体望遠鏡?」
「ええ。屋上に小さな観測ドームがあるんです。……昔はよく、祖父とそこで星を見ていました」
彼の声が、少しだけ優しくなる。おじいさんの話をするときの彼は、いつも穏やかだ。
「星、お好きなんですね」
「好きというか……習慣、みたいなものです。星を見ていると、余計なことを考えずに済むので」
余計なこと。それは、彼が嫌う「感情の揺らぎ」や「面倒事」のことだろうか。
星は変わらない。何億年も前から、同じ場所で、同じ光を放っている。
人間のように裏切ったり、感情をぶつけてきたりはしない。彼にとって、星空はきっと、この書店と同じ「聖域」なのだ。
「……今度、見てみたいです」
つい、口走っていた。図々しいお願いだとはわかっている。
けれど、彼の聖域に、もう少しだけ踏み込んでみたかった。彼は少し驚いたように私を見て、それから困ったように笑った。
「……掃除が行き届いていないので、人を呼べるような場所ではありませんが。……いつか、機会があれば」
明確な拒絶ではなかった。社交辞令かもしれないけれど、「いつか」と言ってくれた。
それだけで十分だ。私たちは、ゼリーを食べながら、ぽつりぽつりと他愛のない話をする。
好きな天気の話。嫌いな野菜の話。子供の頃に読んだ本の話。
夕日が沈みかけ、店内の影が濃くなるまで。その時間は、何よりも穏やかで、そして甘やかだった。
「……そろそろ、行きますね」
ゼリーを食べ終え、私は立ち上がった。長居をしては悪い。これ以上いたら、帰りたくなくなってしまう。
「あ、送りますよ。駅まで」
彼も立ち上がる。
「いえ! そんな、悪いです。まだ明るいですし」
「ですが、こんな重労働をさせておいて、手ぶらで帰すわけには……」
「報酬は、この美味しい麦茶と、水瀬さんの笑顔でしたから」
冗談めかして言うと、彼は虚を突かれたように瞬きをし、それから少し顔を赤らめた。
「……謙虚な人ですね」
「ふふ、安上がりな女なんです」
私は荷物を持ち、出口へと向かった。彼は扉を開け、私を見送ってくれる。
「今日は、本当にありがとうございました。……この棚、大切にします」
彼の言葉に、胸が熱くなる。
「こちらこそ。楽しかったです。……また、火曜日に」
「はい。また」
いつもの約束。けれど、今日の「また」は、昨日までの「また」よりも、ずっと太く、強い絆で結ばれている気がした。
店を出て、路地裏を歩く。夕方の風が、汗ばんだ肌に心地よい。
振り返ると、まだ店の前に彼が立っていて、小さく手を振ってくれていた。私もそれに振り返す。
角を曲がり、彼の姿が見えなくなってから、私は小さくスキップをした。
手には、作業の汚れと、古い本の匂いが残っている。それは、彼と同じ時間を過ごした証だ。
家に帰ったら、すぐに手を洗わなきゃいけないけれど。
もう少しだけ、この匂いを纏っていたい。私は誰にも見られないように、そっと自分の手の匂いを嗅いだ。
埃と、インクと、そして微かな石鹸の香り。
この夏の日の思い出は、きっとどんな本よりも素敵な物語として、私の心に刻まれるだろう。




