「……助かりました」
その日は、珍しく有給休暇の消化で半休を取った火曜日だった。
会社の入っているビルのエントランスを出ると、午後二時の強烈な日差しが視界を白く染め上げる。
普段ならパソコンのブルーライトと睨めっこをしている時間帯に、こうして外の空気を吸っているという背徳感と開放感。
アスファルトから立ち昇る陽炎が、私の視界をゆらゆらと歪ませていた。
本来なら、まっすぐ家に帰って溜まっている洗濯物を片付けるか、エアコンの効いた部屋で読書に耽るのが正解なのだろう。
けれど、私の足は自然といつもの場所へと向かっていた。
『月見書店』。
火曜日と金曜日の仕事帰り、夜の帳が下りる頃に訪れるのが私のルーティン。
だから、こんな真昼間に店を訪れるのは初めてのことだった。
昼間の『月見書店』は、どんな顔をしているのだろう。そんな好奇心が、じりじりと肌を焼く夏の暑さを忘れさせてくれる。
路地裏に入ると、建物の影が濃くなり、少しだけ体感温度が下がった気がした。
セミの声が降り注ぐ中、ひっそりと佇む重厚な木の扉。その前に立つと、いつもの夜とは違う、少しだけ無防備な表情をしているように見えるから不思議だ。
私はハンカチで額の汗を拭い、呼吸を整えてから、取っ手に手をかけた。
カラン、コロン。
真鍮のベルが、昼下がりの静寂を破る。
扉を開けた瞬間、冷房のひんやりとした空気が全身を包み込んだ。外の熱気と喧騒が嘘のように遮断され、インクと古紙の匂いが鼻腔をくすぐる。
店内は、予想通り閑散としていた。平日の昼間だ。客など私以外にいるはずもない。
窓から差し込む陽光が、宙を舞う埃をキラキラと照らし出し、整然と並ぶ背表紙を明るく浮かび上がらせている。
夜のしっとりとした雰囲気とは違い、昼間の店内はどこか透明感があって、神聖な図書館のような空気を纏っていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、聞き慣れた声が響く。
水瀬さんだ。
彼はいつもの定位置で、文庫本の山を崩して検品作業をしているところだった。顔を上げ、私を認めると、その黒に近い瞳が僅かに見開かれた。
「……あ」
小さな声が漏れる。それは驚きというよりも、意表を突かれたような反応だった。
いつもなら夜の七時過ぎに現れる「火曜日の客」が、真昼間に立っているのだから無理もない。
「こんにちは。今日は、お休みだったので」
私は言い訳のように、少し早口で付け加えた。彼はすぐにいつもの無表情に戻り、軽く会釈を返してくれた。
「そうでしたか。……外は暑そうですね」
「ええ、もう溶けそうです」
そんな当たり障りのない会話。けれど、彼の方から言葉を投げかけてくれたことが嬉しくて、私は緩みそうになる頬を引き締めながら店内へと進んだ。
客が私一人しかいない空間は、なんだか彼と二人きりで密室にいるようで、妙な緊張感を孕んでいる。
私は児童書コーナーの棚の前に立ち、心を落ち着けるように絵本の背表紙を目で追った。
懐かしいタイトルが並んでいる。子供の頃、母に読んでもらった物語。小学校の図書室で夢中になった冒険譚。
物語を読まないと言っていた彼だけれど、この店のラインナップには不思議と温かみがあった。きっと、先代のおじい様の選書が残っているのだろう。
『月見書店』という名前の通り、月や星にまつわる絵本が多いのも特徴的だ。私は一冊の絵本を手に取り、ページを捲った。
カラン、コロン。
再びベルが鳴り、新たな客が入ってきた。反射的に顔を上げると、そこにいたのは小柄で上品そうな老婦人だった。
白いブラウスにグレーのスカート。手には日傘を持っている。
彼女は少し困ったように店内を見回し、やがてカウンターにいる水瀬さんに歩み寄った。
「あの、すみません」
「はい、いらっしゃいませ」
水瀬さんが作業の手を止め、丁寧に応対する。
「孫へのプレゼントを探しているのだけれど……」
「プレゼント、ですか」
「ええ。五歳になる女の子なんだけど、最近文字を覚えたばかりでね。自分でも読めて、それでいてワクワクするような……そう、冒険のお話がいいかしら」
老婦人のリクエストに、水瀬さんの表情が微かに曇ったのを私は見逃さなかった。
五歳の女の子。ワクワクする冒険の本。
書店員ならば、「それならこれです」と即座に数冊を提示できるような、王道のリクエストだ。
けれど、彼にとっては難題だった。彼は以前、私にはっきりと言ったのだ。「僕は基本的に物語は読まないので」と。
水瀬さんは困ったように視線を泳がせ、カウンターから出て児童書コーナーへと案内しようとした。
「ええと……冒険、ですか。児童書はこちらの棚になりますが……」
彼の足取りは重い。棚の前に立ち、背表紙を眺めるその目は、どこか途方に暮れているように見えた。図鑑や専門書なら知識がある彼も、子供の感性に響く物語となると、どれを選んでいいのか見当もつかないのだろう。
「どれがいいかしらねぇ。私、最近の本のことはさっぱりで」
老婦人は水瀬さんに頼る気満々だ。
「そう、ですね……。人気があるのは、このあたりかと思いますが……」
彼が指差したのは、平積みされていた新刊の絵本だった。
確かに売れ筋ではあるけれど、それは「動物たちの日常」を描いたほのぼの系で、「ワクワクする冒険」とは少し違う。
「あら、これは冒険のお話?」
「……いえ、確か……友達を探す話だったかと」
「そう……。あの子、活発だから、もっとこう、知らない世界に行くようなお話が好きなのよ」
「知らない世界、ですか……」
水瀬さんが沈黙する。その眉間に、僅かな皺が寄っている。
困っている。明らかに、答えに窮している。
彼の「面倒事を嫌う」性格からすれば、適当なものを勧めてやり過ごすこともできるはずだ。けれど、彼はそれをしない。
本を包むあの丁寧な指先と同じように、客に対しても不誠実なことはできない性分なのだ。
でも、わからないものはわからない。そのジレンマに、彼が立ち尽くしている。
見ているだけで、もどかしさが込み上げてきた。私が口を出すべきじゃない。店員と客の会話に割って入るなんて、マナー違反もいいところだ。
でも――。
彼が困っている。そして何より、本を求めているおばあさんと、その先にいる女の子に、最高の一冊と出会ってほしい。
その思いが、私の背中を押した。気づけば、私は一歩を踏み出していた。
「あの、失礼します」
声をかけると、水瀬さんと老婦人が同時に振り返った。水瀬さんの目が、驚きに見開かれる。
私は努めて柔らかい笑みを浮かべ、老婦人に向き合った。
「お孫さんへのプレゼントをお探しなんですよね。横から口を出してしまってごめんなさい。……五歳で、ワクワクする冒険がお好きなら、これなんてどうでしょう?」
私は迷わず、棚の端にあった一冊のハードカバーを抜き出した。
青い表紙に、大きなリュックを背負った少年の絵が描かれた、ロングセラーの児童書だ。
「少し古い本ですが、今でも子供たちに大人気なんです。主人公の男の子が、捕まっているりゅうを助けに行くために、知恵と勇気を使って猛獣たちが住む島を冒険するお話で」
私の口から、自然と言葉が溢れ出した。大好きな本の話だ。語り始めれば止まらない。
「この本の素敵なところは、戦って敵を倒すんじゃなくて、リュックに入れた道具……チューインガムとか、歯ブラシとか、キャンデーとかを使って、ユーモラスにピンチを切り抜けるところなんです。五歳なら、読み聞かせても楽しいですし、挿絵も地図もついているので、自分でお話を想像しながらページを捲るだけでもワクワクしますよ」
熱を込めて語る私を、老婦人は感心したように見つめ、そして隣にいた水瀬さんが、じっと私を見ている気配を感じた。
はっとして口を噤む。喋りすぎただろうか。けれど、老婦人の顔がパッと明るくなった。
「まぁ、楽しそう! チューインガムで猛獣と戦うの? あの子、そういうの大好きだわ」
「あ、はい。……あと、もしもう少し絵本寄りがいいなら、こっちのおすすめです。これは家族で新しい家を探して森を探検するお話で、絵が本当に綺麗で……」
一度火がついた「読書好き」の魂は、簡単には鎮火しなかった。
私は続けて二、三冊のおすすめ本を紹介し、それぞれの魅力を――自分がかつて読んで胸を躍らせた記憶と共に――語ってしまった。
物語の世界がいかに彩りに満ちているか。ページを開くだけで、ここではないどこかへ行ける魔法のような体験。それを伝えたくて、言葉を尽くした。
「ありがとう、あなたのおかげでいいのが見つかったわ。これにするわね」
老婦人は嬉しそうに絵本を抱きしめた。
「あの子の喜ぶ顔が目に浮かぶようだわ。店員さんも、ありがとうね。素敵な本がたくさんあるお店ね」
「あ……はい。ありがとうございます」
水瀬さんが、少し遅れて頭を下げる。私は慌てて棚の陰に下がった。
老婦人はレジへと向かい、水瀬さんが会計をする。その背中を見送りながら、私は心臓がバクバクと鳴るのを抑えていた。
やってしまった。
完全に、店員さんの仕事を奪ってしまった。出しゃばりだと思われただろうか。物語オタクの早口が気持ち悪かっただろうか。自己嫌悪が首をもたげ始める。
会計を終え、綺麗にラッピングされた本を受け取った老婦人は、満足げに店を出て行った。
カラン、コロン。
ベルの音が止むと、店内には再び静寂が戻ってきた。
気まずい。逃げるように店を出ようか。それとも、一言謝るべきか。私が逡巡していると、カウンターから水瀬さんが出てきた。
そして、私の前まで歩み寄ってくる。怒られる、と思って身構えた私の耳に、落ちてきたのは予想外の声だった。
「……助かりました」
え、と顔を上げる。水瀬さんは、少しバツが悪そうに、けれど真っ直ぐに私を見ていた。
「僕は、物語の機微には疎いので。……あのお客様が何を求めているのか、言葉に詰まってしまって」
彼は眉尻を下げ、困ったように笑った。その表情は、いつもの能面のような無表情とは違う、等身大の二十代の青年のそれだった。
「あなたの説明、凄かったです。……あんなふうに、物語の魅力を語れるなんて」
彼の言葉に、熱が篭っているのがわかる。星衣が生き生きと本の魅力を語る姿を、水瀬は初めて見たのだ。その事実に、私の頬が一気に熱くなる。
「い、いえ! ただの好き嫌いですから……。出しゃばった真似をして、すみませんでした」
「謝らないでください。本当に、感謝しています」
彼は首を横に振り、それから少し躊躇うように視線を逸らした。長い指が、エプロンの裾を無意識にいじっている。
何かを言い淀んでいるような仕草。そして、彼は意を決したように私に向き直った。
「あの、結月様」
「はい」
「……もしよければ」
彼は一呼吸置き、児童書コーナーの棚へと視線を向けた。
「児童書の棚の配置、少し意見をもらえませんか?」
その言葉に、私は息を呑んだ。棚の配置。それは、書店の心臓部とも言える重要な領域だ。
どの本をどこに置くか、何を目立たせるか。それは店主の意思であり、店の品格を決めるものだ。それを、ただの客である私に相談するなんて。
「え……私が、ですか?」
「はい。……先ほどのあなたの話を聞いていて、思ったんです。僕は、この棚にある本の本当の価値を、わかっていないんじゃないかと」
水瀬さんは、悔しげに、けれど誠実に言葉を紡ぐ。
「祖父が残した本を守ることはできても、それを必要としている人に届けるための言葉や、並べ方を、僕は知らない。……だから、教えてほしいんです。物語を知っている、あなたに」
彼の瞳は真剣だった。そこには、店員としてのプライドよりも、本屋としての誠実さが勝っている輝きがあった。
そして、それは彼が初めて、自分から「店員と客」という安全な境界線を踏み越えて、私という人間に踏み込んできた瞬間でもあった。
私の領域――物語を愛する心――に、彼が触れようとしている。
その事実が、たまらなく嬉しくて、胸が震えた。
「……私でよければ、喜んで」
私が答えると、彼は今日一番の、安堵の表情を見せた。
「ありがとうございます」
西日が差し込む店内で、私たちは並んで児童書の棚の前に立った。
いつもなら、カウンター越しにしか接することのない彼が、すぐ隣にいる。彼の腕の体温や、微かに香る古い紙の匂いが伝わってくる距離。
私は高鳴る鼓動を隠しながら、彼と一緒に本棚を見上げた。
この夏、何かが確実に変わり始めている。そんな予感に、私は静かに胸を躍らせた。




