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月と星の書架  作者: 沙也
5/15

「……結ぶ、月。に、星……ですか」

 季節は巡り、まとわりつくような熱気が街を支配し始めていた。

 アスファルトの照り返しが厳しい七月の火曜日。

 私は日傘を畳み、額に滲んだ汗をハンカチで押さえながら、馴染みの路地裏へと足を向けていた。

 頭上では蝉たちが騒がしく鳴き立てている。

 けれど、あの重厚な木の扉を一枚隔てれば、そこには静寂という名のオアシスが広がっていることを、私は知っている。

 『月見書店』。

 春に出会い、雨の日に雨宿りをさせてもらい、そして手作りのお菓子を受け取ってもらえるようになってから数ヶ月。

 私と店主である水瀬さんとの関係は、ゆっくりと、亀の歩みのようにではあるけれど、確実に変化していた。

 店員と客。

 その境界線は未だ健在だ。

 けれど、そのライン上を行き来するささやかな交流――彼が私のお菓子を「食べる係」として受け入れ、稀に「美味しかった」と感想をくれること――が、今の私にとっては何よりの幸せになっている。

 そして今日、私には少しだけ「特別」なミッションがあった。

 カラン、コロン。

 涼やかなベルの音と共に、冷房の効いた冷たい空気が肌を撫でる。店内に流れているのは、いつものような静寂と、微かに聞こえる緩やかなピアノ曲だった。

 私は大きく深呼吸をして、いつものようにまずは本棚の間を巡った。

 けれど、今日の目的は棚を眺めることではない。ずっと探していた新刊のエッセイ集が、どこの書店にも見当たらないのだ。

 話題作というわけではないけれど、コアなファンが多い作家の本で、発売から数日が経っているのに近隣の大型書店では売り切れか、そもそも入荷していなかった。

 ネットで買えば早いことはわかっている。ぽちっとボタンを押せば、明日には自宅のポストに届くだろう。

 けれど。

 できるなら、この店で買いたい。この『月見書店』のブックカバーを掛けてもらい、あの綺麗な指で渡してほしい。

 それは単なる購買行動ではなく、私の中では彼との繋がりを確認するための儀式のようなものだった。

 その小さなこだわりが、私をレジへと向かわせる。鼓動が少しだけ早くなるのを感じながら、私はカウンターの前に立った。

 カウンターの奥、いつもの紺色のエプロン姿の彼――水瀬さんが、書類整理の手を止めて顔を上げた。夏仕様なのか、今日のエプロンの下は白い開襟シャツだ。

 袖を肘まで捲り上げていて、そこから覗く手首の骨格が、妙に男性的でドキリとする。

「いらっしゃいませ」

 淡々とした、けれど冷たさは感じない声。

 その響きだけで、今日一日の仕事の疲れや、夏の暑さが少し溶けていく気がする。

 彼は私を認めると、ほんの僅かに目元を緩めた、気がした。

 それは「あ、いつもの人だ」という認識のサインだろうか。それとも、私が今日はお菓子を持っていないことに安堵しているのだろうか。

 私はバッグの紐をぎゅっと握りしめ、勇気を出して切り出した。

「あの……探している本があるんですけど」

 勇気を出して伝えたタイトルと作家名に、彼はすぐに手元の端末を叩いて検索をかけてくれた。カタカタカタ、と軽快なタイピング音が静かな店内に響く。

 その横顔を、私は盗み見る。伏せられた睫毛。通った鼻筋。画面を見つめる瞳は真剣そのもので、仕事人の顔だ。

 数秒の後、彼は操作していた指を止め、申し訳なさそうにこちらを向いた。

「申し訳ありません。当店には在庫がないようですが、取り寄せは可能です」

 やっぱり、ここにもなかったか。けれど、後半の言葉に私の耳がピクリと反応する。

 取り寄せ。

 それはつまり、この店で注文をして、また後日受け取りに来るということ。

 それは、また堂々と彼に会いに来る口実ができるということだ。

 ネット注文よりも手間も時間もかかる。けれど、今の私にとってそれは「ご褒美」と同義だった。

「あ、本当ですか? じゃあ、お願いします」

 食い気味に返事をしてしまったかもしれない。

 私の勢いに少しだけ目を丸くした後、彼は「かしこまりました」と慣れた手つきでカウンターの下から何かを取り出した。

「では、こちらにお名前とご連絡先をお願いします」

 彼がカウンター越しに差し出したのは、小さな予約伝票と、飾りのないボールペン。

 業務的なやり取り。

 これまで、お菓子のやり取りや雨宿りの会話はあったけれど、こうして形に残る「書類」を交わすのは初めてだった。

 そこには、名前と電話番号を書く欄がある。

 名前。

 そういえば、私は彼に一度も名乗ったことがなかった。

 彼もまた、私を「お客様」と呼び、最近ではお菓子の一件があってか「そちらの方」といった曖昧な呼び方を避けるようになっていたけれど、固有名詞で呼ばれたことはない。

 私はペンを受け取り、伝票に向かった。

 心臓がとくとくと音を立てる。自分の名前を書くだけなのに、なんだかラブレターでも書いているような緊張感だ。

 ――結月、星衣。

 書き慣れた自分の名前を、一文字ずつ丁寧にマス目に埋めていく。

 変な字だと思われたくない。丁寧な字を書く人だと思われたい。

 そんな些細な見栄を張りながら、ゆっくりとペンを走らせる。連絡先の欄に携帯番号を記入し終え、私はペンを置いた。

「書けました」

 ペンを置くと、彼が白い指先で伝票を手元に引き寄せた。長い指だ。本を包むときと同じ、丁寧な動作で彼が私の文字を目で追う。

 確認のための数秒の沈黙。店内のピアノ曲さえも遠のくような、濃密な静寂。

 彼は事務的に文字の誤りがないかを確認しているだけのはずだ。

 けれど、ふと彼の視線が名前の欄で止まった気がした。

 いつもなら流れるように処理を進める彼の手が、そこで一瞬、時を止めたかのように静止する。

 長い睫毛が瞬き、彼の唇が微かに動いた。

「……結ぶ、月。に、星……ですか」

 不意に零れ落ちた彼の声は、確認作業というにはあまりに独り言めいていて。

 その声色には、単なる文字の読み上げ以上の、何か柔らかい響きが含まれていた。

 まるで、懐かしいものを見つけたような。あるいは、美しい詩の一節を口ずさむような。

 私は不意を突かれて、一瞬反応が遅れた。

「あ、はい。そうです」

 私が頷くと、彼ははっとしたように瞬きをして、すぐにいつもの店員の顔に戻った。

 その切り替えの早さに、少しだけ寂しさを覚える。けれど、彼の耳がほんのりと赤らんでいるように見えたのは、店内の照明のせいだろうか。

「失礼しました。……結月様、ですね。確かに入荷の手配をさせていただきます」

 結月様。彼が、私の名前を呼んだ。

 これまで「お客様」という不特定多数の中に埋もれていた私が、彼の中で「結月星衣」という個として認識された瞬間だった。

 たったそれだけのこと。

 社会に出れば、名前を呼ばれることなんて日常茶飯事だ。

 けれど、この静かな書店の、カウンター越しに彼から呼ばれる私の名前は、まるで特別な魔法の呪文のように聞こえた。

「……入荷しましたら、お電話でご連絡差し上げます」

「お願いします」

 控えの紙を受け取る際、彼が一瞬だけ、私の目を見た気がした。その墨色の瞳に、私が映っている。

 気のせいかもしれない。けれど、彼が私の名前を呼んだとき、その声の中にほんの少しの温かさが混じっていたように思えて、私は耳が熱くなるのを隠すように早足で店を出た。

 店外に出ると、夕暮れ時の蒸し暑さが全身を包み込んだ。さっきまでの冷房の効いた空間が、まるで夢の中の出来事だったかのように感じる。

 それでも、手の中にある予約伝票の控えは、確かな現実だ。

 背中で閉まるドアの音を聞きながら、私は鞄の中で控えの紙を握り締める。くしゃり、と紙が音を立てる。その感触すらも愛おしい。

 彼が私の名前を知ってくれた。ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。


 結月様。


 頭の中で、彼の声を再生する。低くて、落ち着いていて、どこか涼やかな声。今日という日は私にとって記念すべき一歩だ。

 名前を知られた。それはつまり、私が彼にとって「顔見知りの客」から「名前のある知人」へと昇格したということだ。

 帰り道の足取りは、行きの暑さを忘れるほどに軽かった。空を見上げると、ビルの隙間から一番星が光り始めている。

 私の名前にある「星」の字。そして、彼のいる書店の名前にある「月」の字。

 彼が名前を読み上げたとき、あんなに反応したのは何故だろう。

 もしかして、彼もその文字の並びに何かを感じてくれたのだろうか。そんな淡い期待は、すぐに「自意識過剰だ」と打ち消したけれど。

 それでも、彼が私の名前を呼んでくれたその響きを、私は飴玉のように大切に転がしながら、駅への道を歩いていった。

 次に店に行くのは、本が入荷したときだろうか。

 いや、やっぱり週末にはまた、何か焼いていこうかな。だって、彼は「結月様」の持ってくるお菓子を、待ってくれているかもしれないのだから。



 ◇◇◇

 

 

 その電話がかかってきたのは、週の半ば、木曜日の午後三時のことだった。

 オフィスの窓からは、夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、ブラインドの隙間から差し込む光が埃を白く浮かび上がらせている。

 私は山積みになった伝票と格闘しながら、眉間を揉みほぐしていた。

 冷房は効いているはずなのに、頭がぼんやりと熱い。

 単調なキーボードの打鍵音と、遠くで鳴るコピー機の音。

 そんな無機質なノイズの中に、デスクの上のスマートフォンがブブブ、と震える音が割り込んできた。

 画面を見ると、登録のない固定電話の番号だ。

 市外局番は、この辺りのもの。

 取引先だろうか。それとも、またどこかの営業電話だろうか。

 私は小さく溜息をつき、受話ボタンをスワイプして、努めて明るい「仕事用の声」を作った。

「はい、結月です」

『……あ、もしもし』

 受話器の向こうから聞こえてきたのは、予想していた営業マンの張り上げた声ではなかった。

 低く、落ち着いていて、どこか涼やかな響きを含んだバリトンボイス。

 ノイズ混じりの電波に乗っていても、その声の主を間違えるはずがなかった。

『月見書店の、水瀬です』

「えっ」

 思考が停止した。

 心臓が、肋骨を蹴り上げるように跳ねる。

 水瀬さん。

 まさか、彼から電話がかかってくるなんて。

 予約をしたのだから当然の連絡なのだが、仕事モードに浸りきっていた私の脳は、その事態を想定していなかった。

 私は慌てて椅子から立ち上がり、誰に見られているわけでもないのに背筋を伸ばした。

「あ、は、はい! み、水瀬さん……⁉」

 裏返った声が出てしまい、隣の席の後輩が怪訝そうにこちらを見た。

 私は顔を真っ赤にして、スマートフォンを手で覆い、小声になる。

「す、すみません。驚いてしまって」

『いえ、こちらこそお仕事中に申し訳ありません。……今、お電話大丈夫でしたか?』

 彼の声だ。

 いつもカウンター越しに聞く声よりも、少しだけ近く、そして甘く聞こえる気がする。

 耳元で彼が囁いているような錯覚に陥り、耳が熱くなった。

「はい、大丈夫です! ……あの、どうされましたか?」

『ご注文いただいていたエッセイ集が、本日入荷しましたので、ご連絡を差し上げました』

 事務的な用件。

 わかっている。彼は仕事をしているだけだ。

 けれど、「結月様」宛てに彼がダイヤルを回し(実際はプッシュボタンだろうけれど)、私が出るのを待っていてくれたという事実だけで、胸がいっぱいになる。

「ありがとうございます! ……もう届いたんですね。早くてびっくりしました」

『ええ。版元に在庫があったようで、すぐに手配できました』

 彼の言葉の端々に、微かな安堵が滲んでいるように聞こえたのは、私の都合のいい解釈だろうか。

『取り置き期間は一週間ほどですが、ご都合はいかがでしょうか』

「あ、それなら……」

 私は手元のカレンダーを見た。

 今日は木曜日。明日は、金曜日だ。

 私の、聖域へ行く日。

「明日……金曜日の夜に、伺ってもいいですか?」

『金曜日ですね』

 電話の向こうで、何かが擦れるような音がした。

 きっと、彼は今、あの綺麗な指でメモを取っているのだろう。

『承知いたしました。……お待ちしております』

 お待ちしております。

 それは書店員として当たり前の言葉だ。

 けれど、その響きは、私の背中を優しく押してくれる魔法の言葉のように思えた。

「はい、必ず行きます! ……わざわざ、ご連絡ありがとうございました」

『いえ。……では、失礼します』

 プツリ。

 通話が切れる音がして、静寂が戻ってくる。

 私はしばらくの間、熱を持ったスマートフォンを耳に当てたまま、呆然としていた。

 たった数分の会話。用件だけの、業務連絡。

 それなのに、私の世界は一気に色を取り戻していた。

 無機質だったオフィスが、キラキラと輝いて見える。けだるかった疲労感が消え、体中に力がみなぎってくる。

 明日。

 明日の夜になれば、彼に会える。

 本を受け取り、「電話ありがとうございました」とお礼を言って、そしてまた少しだけ言葉を交わせる。

「……よし」

 私は小さくガッツポーズをして、デスクに向き直った。

 残りの仕事なんて、今の私なら光の速さで片付けられる気がする。

 水瀬さんの声の余韻を耳に残したまま、私は軽やかにキーボードを叩き始めた。

 その日の帰りに、百貨店で少し高価な紅茶の茶葉を買ったのは、言うまでもないことだった。

 明日の夜、彼に渡すために。



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