なにそれ、可愛い。
梅雨の気配が色濃くなってきた六月の中旬。紫陽花が濡れたアスファルトに鮮やかな色を落とす季節。
私の小さな「作戦」は、順調に、あるいは泥臭く進行していた。
週に二回、『月見書店』に通い、本を買い、そして手作りのお菓子を渡す。
そこで得た「美味しい」というカタルシスは、私の創作意欲(という名のアピール欲)に火をつけるには十分すぎた。
けれど、恋の道もお菓子の道も、そう平坦ではないことを私はすぐに知ることになる。
火曜日。しとしとと降る雨の中、私は少し重たい足取りで店に向かっていた。
バッグの中には、タッパーに入れた新作の「抹茶のフィナンシェ」がある。高級な抹茶をふんだんに使い、焦がしバターの風味を効かせた、大人の味わい。
色は鮮やかな深緑色で、見た目も美しい。間違いなく美味しいはずだ。自信はある。けれど、私の心には一抹の不安があった。
――彼、抹茶なんて好きだろうか?
ふと、そんな根本的な疑問が湧き上がってきたのだ。
甘いものは脳にいいから食べる、とは言っていたけれど、具体的な好みまでは聞いていない。
まあ、和菓子も洋菓子も似たようなものだし、抹茶スイーツは定番だ。嫌いということはないだろう。
そんな楽観的な予測を立てて、私はいつもの扉を開けた。
カラン、コロン。
雨の日の店内は、いつも以上に静謐だ。湿気を帯びた古紙の匂いが、妙に落ち着く。レジカウンターには、いつものように水瀬さんが座っていた。
「いらっしゃいませ」
私を見ると、彼は少しだけ目元を緩めて会釈をした。この「少しだけ」の変化が、今の私には何よりのご褒美だ。
私は新刊のコーナーから文芸誌を一冊選び、レジへと向かう。そして、いつもの儀式のように、会計の際にお菓子を差し出した。
「あの、これ……今週の分です」
まるで貢ぎ物を献上する従者のような台詞になってしまった。彼は苦笑いもせず、慣れた手つきでそれを受け取る。
「いつもすみません。……今日は、何ですか?」
「抹茶のフィナンシェです。いいお茶が手に入ったので」
「抹茶、ですか」
その瞬間、彼の手が一瞬止まったのを、私は見逃さなかった。
本当に、コンマ数秒のことだ。けれど、その長い指先が微かに迷うように空を切った気がした。
彼はすぐに表情を戻し、「ありがとうございます」とタッパーをカウンターの下へしまったけれど、その声のトーンは、前回のスコーンの時よりも明らかに低かった。
嫌な予感がした。苦手だったかもしれない。聞いてみようか。いや、でも「苦手です」と言わせてしまうのは申し訳ない。
悶々としたまま、私はその日、逃げるように店を出た。
そして、次の金曜日。
答え合わせの時間がやってきた。店に入り本を選び、レジへ行く。いつもの流れ。
けれど、心臓は早鐘を打っている。タッパーを返してもらわなければならない。そのとき、彼は何と言うだろうか。
会計を済ませると、彼はカウンターの下から綺麗に洗われたタッパーを取り出した。
「先日は、ありがとうございました」
丁寧に包まれたタッパーを差し出す彼。私は恐る恐る尋ねた。
「あの……どう、でしたか?」
彼は視線を少し泳がせた。長い睫毛が伏せられ、何か言葉を選んでいるような沈黙が落ちる。
ああ、やっぱり。これは「ハズレ」の反応だ。
彼は嘘がつけない人だ。美味しかったら「美味しい」と言うし、そうでなければ沈黙する。
その誠実さが、今は少しだけ痛い。
「……香りは、とても良かったです」
ようやく彼が絞り出したのは、そんな当たり障りのない感想だった。
味ではなく、香り。それはつまり、味は好みではなかったということだ。
「すみません……! もしかして、抹茶、苦手でしたか?」
私が食い気味に聞くと、彼はバツが悪そうに頬を掻いた。
「……いえ、食べられないわけではないんですが。その、少し……苦味が強かったというか」
「あー……! やっぱり!」
私は頭を抱えた。良かれと思って濃い抹茶を使ったのが裏目に出たのだ。
「すみません、私、自分の好みでつい濃くしちゃって……。水瀬さん、もしかして苦いの駄目ですか?」
「……珈琲はブラックで飲みますが、お菓子の苦味は、どうも慣れなくて」
彼は言い訳のように付け加えた。
「子供っぽい味覚ですみません」
「いえいえ! 完全に私のリサーチ不足です!」
私は慌てて手を振る。子供っぽい味覚。なにそれ、可愛い。クールな顔をして、実は苦いお菓子が苦手。
新たな情報をゲットできたと思えば、この失敗も無駄ではなかった。
「じゃあ、次は苦くないやつにしますね。……ちなみに、一番好きな味って何ですか?」
転んでもただでは起きない。私はこの機を逃さず、彼に詰め寄った。彼は少し驚いたように目を瞬かせ、それから考え込むように天井を仰いだ。
「一番、ですか……。あまり考えたことはありませんが」
彼は顎に手を当て、真剣に悩み始めた。そんなこと、適当に答えればいいのに。「甘いものなら何でも」とか。
けれど、彼は私との会話を「適当」に流さない。その事実が、失敗したお菓子の苦味を消し飛ばすほどに甘く、胸に広がる。
「……ナッツ類は、好きです。この間のスコーンの胡桃とか、アーモンドとか。……香ばしいのが、いいですね」
数秒の沈黙の後、彼が導き出した答え。
ナッツ。香ばしさ。なるほど、メモメモ。私は心の中のノートに、赤ペンで大きく書き込んだ。
「わかりました! 香ばしいやつですね。任せてください!」
私がガッツポーズをすると、彼は呆れたように、でも微かに笑って肩を竦めた。
「……ほどほどにお願いしますよ」
その軽口が、以前よりもずっと柔らかく聞こえたのは、気のせいではないはずだ。
リベンジの機会は、すぐに訪れた。
翌週の火曜日。私は、渾身の作を持って『月見書店』の扉を叩いた。
今回用意したのは、「フロランタン」だ。クッキー生地の上に、キャラメルでコーティングしたアーモンドスライスをたっぷりと乗せて焼き上げた、フランスの伝統菓子。
ナッツの香ばしさと、キャラメルの濃厚な甘さ。そしてカリッとした食感。
彼の好みのど真ん中を射抜くはずだ。さらに、今回はラッピングにもこだわった。
湿気は大敵なので、個包装にして乾燥剤を入れ、見た目もシックな茶色の箱に詰めた。
「書店員への差し入れ」として、恥ずかしくないクオリティだ。レジでそれを渡した時、彼の反応は明らかに前回とは違っていた。
「……これは」
箱を受け取った彼が、目を見開く。
「フロランタン、ですよね。……僕の好物を、よくご存知で」
「えっ、好物だったんですか?」
ビンゴだ。まさかピンポイントで好物を引き当てるとは。
「ええ。……昔、母がよく作ってくれたんです。懐かしいな」
彼は箱の隙間から漂う甘い香りに、鼻を寄せた。その表情が、ふわりと緩む。少年のように無防備で、そしてどこか切なげな顔。
お母さんの味、か。彼の家族の話を聞くのは初めてだ。おじいさんの話はたまに出るけれど、ご両親の話は聞いたことがない。
少し踏み込んでいいものか迷ったけれど、彼が自ら話してくれたのだから、遮るのも野暮だろう。
「そうなんですね。……お口に合うかわかりませんが、アーモンドたっぷりにしてみました」
「ありがとうございます。……楽しみです」
彼は本当に嬉しそうに、その箱をカウンターの奥の、私物のバッグらしき場所へとしまった。
家で、ゆっくり食べるつもりなのだろうか。その特別扱いが、どうしようもなく嬉しかった。
その日の夜。珍しく、彼の方から「引き留め」があった。私が帰ろうと背を向けた時だ。
「あ、あの……」
「はい?」
振り返ると、彼がカウンターから身を乗り出していた。
「……感想、金曜日に言いますね。必ず」
真剣な眼差し。ただの感想だ。お世辞でもいいようなものだ。けれど、彼はそれを「約束」として私に告げた。次も来ていいよ、という許可証のように。
「はい。……待ってます」
私が答えると、彼は満足そうに頷き、ひらりと手を振った。その手が、本を包むときと同じくらい優雅で、私は胸を押さえながら夜道を駆けた。
それからも、お菓子の攻防――というか、私の一方的な餌付けと、彼の実直な食レポ――は続いた。
七月に入り、蒸し暑さが増してくると、焼き菓子は少し重く感じられるようになる。
私はメニューを涼しげなものへとシフトさせた。
フルーツゼリー。水羊羹。レモンのウィークエンドシトロン。
冷たいお菓子を持っていくときは、保冷剤をタオルで巻き、さらに保冷バッグに入れるという厳重装備だ。
「溶ける前に食べてくださいね」
そう書いた付箋を貼って渡すと、彼は苦笑いしながらも、すぐにバックヤードの冷蔵庫へと走ってくれるようになった。
その慌てた後ろ姿を見るのが、私の密かな楽しみになっている。
会話も、少しずつ増えていった。
お菓子の感想から派生して、彼の嫌いなもの(辛いものは苦手らしい)、私の好きな果物(桃が好きだと言ったら、翌週桃の表紙の本が入荷していた)、そんな些細な情報を交換し合う日々。
店員と客。その境界線はまだあるけれど、その線の上で、私たちは確かに手を伸ばし合っていた。
そんなある日のことだ。
その日、私は何も持たずに店を訪れた。仕事が忙しく、お菓子を作る余裕がなかったのだ。
手ぶらで行くのは少し気が引けたけれど、本を買いたいという欲求と、彼の顔を見たいという欲求には勝てなかった。
いつものように本を選び、レジへ向かう。お菓子がないので、今日は事務的なやり取りだけで終わるだろう。そう思っていた。
会計を済ませ、私が財布をしまおうとした時だ。
「……あの」
彼が声をかけてきた。
「はい?」
顔を上げると、彼は少し躊躇うように視線を逸らし、それからカウンターの下をごそごそと探り始めた。
何だろう。新刊の案内だろうか。それとも、レシートの渡し忘れ?
彼が取り出したのは、小さな、可愛らしい封筒だった。クラフト紙の素朴な封筒に、月と星のスタンプが押してある。
それを、彼は無言で私の前に差し出した。
「え……?」
私は固まる。これは、何? 手紙? まさか、ラブレター?
いやいや、そんなわけがない。請求書? いや、本代は今払った。
混乱する私に、彼は咳払いをして、早口で言った。
「……お返し、です」
「お返し?」
「いつも、頂いてばかりなので。……僕は試食係ではないと言いましたが、タダで労働力を搾取するような真似は、店主として心苦しいので」
労働力。搾取。随分と物々しい言い方だ。彼は照れ隠しをするとき、少し難しい言葉を使いたがる癖があることを、私はこの数ヶ月で学んでいた。
つまり、これはお菓子のお礼ということだ。
「え、いいんですか? 勝手に押しつけているだけなのに」
「僕が、あげたいんです」
彼はきっぱりと言った。その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、私は反論を飲み込む。
「……開けても、いいですか?」
「どうぞ。……大したものではありませんが」
私は震える手で封筒を受け取り、封を開けた。中から出てきたのは、一枚の栞だった。
真鍮製の、薄くて繊細な栞。先端には、透かし彫りで「三日月」と「星」がデザインされている。
アンティークのような鈍い輝きを放つそれは、手のひらに載せるとひんやりと冷たく、そして確かな重みがあった。
「わあ……綺麗……」
思わず溜息が漏れる。既製品だろうか。いや、この店のロゴにある月と星に似ている気がする。
「これ、もしかして……」
「……手作りです」
彼が視線を逸らしたまま、ぼそりと言った。
「ええっ⁉」
私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
手作り? 彼が? これを?
「暇な時間に、少し金属加工の真似事をしていて……。端材で作ったものなので、売り物のような出来ではありませんが」
彼は謙遜するけれど、そのクオリティは売り物以上だ。細部まで丁寧に磨き上げられた曲線。月のカーブの滑らかさ。星の尖端の鋭さ。
あの、本を包む美しい指先が、この小さな金属を削り、磨いたのだと想像すると、胸が熱くなる。
「凄い……凄いです、水瀬さん! こんな素敵なもの、私が貰っていいんですか?」
「あなたに使ってほしくて、作ったので」
彼は少し顔を赤らめながら、それでも私の目を真っ直ぐに見た。
「あなたが読む本に、挟んでいただければ……本望です」
その言葉は、どんな愛の言葉よりもロマンチックに響いた。
私が読む本。私の日常。私のプライベートな時間。そこに、彼が作ったものが入り込む。私が本を開くたびに、この栞を見て、彼を思い出す。彼はそれを望んでくれたのだ。
「……大切にします。一生、使います」
私が栞を胸に抱き締めると、彼はふっと表情を緩めた。安堵と、照れと、そして僅かな満足感。
「一生というのは大袈裟ですが。……まあ、壊れたら修理しますから」
「はい!」
店を出た後も、私は栞を握り締めたままだった。
金属の冷たさが、体温で徐々に温まっていく。
それは、彼との関係そのもののようだ。
最初は冷たく、硬く見えた彼。けれど、触れ合い、言葉を交わし、時間を重ねることで、こんなにも温かい熱を帯びていく。
月と星の栞。「月見書店」と私の名前にある「星」。
彼がこのデザインを選んだ意味を、深読みしたくなる自分がいる。
まだ聞く勇気はない。けれど、この栞が手元にある限り、私は何度でもこの店に通い続けることができる。
次のお菓子は、何にしようか。彼が驚くような、とびきり美味しいものを考えなくちゃ。
私は夜空を見上げ、雲の切れ間に覗く月に、小さくウインクをする。
夏は、まだ始まったばかりだった。




