「それと、これ……お礼です」
次の火曜日。
私は、まるで戦場に赴く兵士のような悲壮な決意を胸に、会社のタイムカードを切った。定時退社は絶対条件だ。
逸る気持ちを抑えながら駅へと向かう私の手には、丁寧に畳まれた透明なビニール傘と、小さな紙袋が握られている。
紙袋の中身は、週末に焼いたクッキーだ。アールグレイの茶葉を練り込んだアイスボックスクッキー。甘さは控えめにして、サクサクとした食感にこだわった自信作だ。
味には自信がある。お菓子作りは数少ない趣味の一つだし、会社の同僚に配っても好評だから、客観的に見ても不味くはないはずだ。
問題は、味ではない。「手作り」という、その重さだ。
顔見知り程度の、しかも店員と客という関係の相手に、手作りのお菓子を渡す。これは、客観的に見てどうなのだろう。
重いだろうか? 怖いだろうか?
もし私が店員の立場で、あまり話したこともない男性客からいきなり手作りのお菓子を渡されたら……正直、少し警戒するかもしれない。
「中に何が入っているかわからない」という防衛本能が働くだろうし、「これを受け取ったら、何か見返りを求められるのでは」と勘繰ってしまうかもしれない。
わかっている。
頭では、市販の菓子折りにしておくのが無難だとわかっていたのだ。
けれど、百貨店の地下でお洒落なパッケージのお菓子を手に取ったとき、どうしても「これじゃない」と思ってしまった。
あの雨の日。
彼は本が濡れるのを嫌って、私に傘を貸してくれた。その不器用で、でも実直な優しさに報いるには、ありきたりの既製品では足りない気がしたのだ。
私の感謝の気持ちを、もっと温度のある形で伝えたかった。それがエゴだとしても、今回だけは自分の気持ちを優先させたかった。
「……大丈夫。もし断られたら、自分で食べればいいだけだし」
自分に言い聞かせるように呟いて、私は路地裏への角を曲がった。
夕暮れの街に、書店の看板がぽつりと灯っている。その明かりを見ると、緊張で強張っていた胃の腑が、少しだけ和らぐのを感じた。
カラン、コロン。お馴染みのベルの音と共に、店内に足を踏み入れる。
いつもの火曜日の、いつもの匂い。
私の視線は、無意識のうちにレジカウンターへと吸い寄せられる。
そこには、変わらぬ姿勢で本に視線を落とす水瀬さんの姿があった。紺色のエプロンが、店内の照明を吸い込んで深い色を湛えている。
「いらっしゃいませ」
顔を上げた彼と目が合う。ほんの一瞬、彼の眉が僅かに動いたような気がした。
雨の日のことを覚えているだろうか。いや、忘れるはずがない。彼は傘を貸してくれたのだから。
私は軽く会釈をして、逃げるように本棚の陰へと滑り込んだ。
まずは、本を選ばなければ。いつものように一冊買う。それがこの店にいるためのルールであり、彼と会話するための切符なのだ。
けれど、今日ばかりは背表紙の文字が上滑りして、全く頭に入ってこない。
私の意識は、手元の紙袋と、カウンターの奥にいる彼に集中していた。
心臓がうるさい。渡せるだろうか。迷惑がられないだろうか。やっぱり、やめておこうか。
何度も逡巡し、本棚の前を行ったり来たりする。不審者だと思われても仕方がない挙動だ。
深呼吸を一つ。
覚悟を決めろ、星衣。傘を返すついでだ。あくまで「ついで」の体で渡せばいい。
私は震える手で文庫本を一冊抜き取り、意を決してレジへと向かった。
カウンターの前に立つと、彼は静かに本を受け取り、バーコードを読み取る。ピッ、という電子音が、静寂を切り裂く。
私はその音が消えないうちに、持っていたビニール傘をカウンターの端に置いた。
「あの、これ……先日はありがとうございました」
私の言葉に、彼は作業の手を止めて傘に視線をやった。
「ああ……。わざわざ、すみません」
「いえ、本当に助かりました。おかげで濡れずに帰れました」
彼が傘を引き寄せる。その手が離れた瞬間を見計らって、私は背中に隠していた紙袋を差し出した。
今だ。ここしかない。
「それと、これ……お礼です」
心臓が口から飛び出しそうだ。彼は怪訝そうに眉を寄せ、私の手元と顔を交互に見た。
「……お礼?」
「はい。あの、手作りなんですけど……甘いもの、お嫌いじゃなければ」
言ってしまった。
「手作り」という単語を出した瞬間、店内の空気が一瞬止まったような気がした。彼の視線が、可愛らしいリボンでラッピングされた小袋に注がれる。
沈黙。
一秒が永遠のように長い。断られるかもしれない。「結構です」と、冷たく突き返されるかもしれない。あるいは、「こういうのは困ります」と注意されるかも。
最悪のシチュエーションが脳裏をよぎり、私は俯きかけた。
「……どうも」
短く、抑揚のない声が降ってきた。恐る恐る顔を上げると、彼は困惑したような、けれど拒絶の色はない瞳で紙袋を受け取っていた。
「え、あ、受け取って、くれるんですか?」
「お礼だと言うなら、断るのも失礼でしょう」
彼は淡々とそう言い、クッキーの袋をカウンターの奥に置いた。
「ただ、僕は味の良し悪しには疎いので、気の利いた感想は言えませんが」
「い、いいんです! ただの自己満足なので! 捨てずに食べていただければ、それだけで!」
勢い込んで叫んでしまい、自分の声の大きさにはっとして口を噤む。彼は僅かに目を丸くした後、ふっと息を吐くように肩の力を抜いた。
「……いただきます」
その一言が、どれほど私を救ったか、彼は知らないだろう。会計を済ませ、店を出た私の足取りは、まるで雲の上を歩いているようにふわふわとしていた。
受け取ってくれた。手作りのクッキーを、あの水瀬さんが。
それだけで、世界が極彩色に色づいて見えた。
一度成功体験を得てしまうと、人間というのは欲が出る生き物だ。
断られなかったのをいいことに、それから週末にお菓子を作っては差し入れるのが、私の新たなルーティンになってしまった。
パウンドケーキ、マドレーヌ、フィナンシェ。日持ちがして、個包装しやすく、かつ食べるのに手間がかからないものを選んで焼いた。
もちろん、毎回「試作品の味見をお願いします」とか「作りすぎちゃって」といった言い訳を用意して。
三回目のお菓子――チョコチップと胡桃を混ぜ込んだ、ザクザクとした食感のスコーンを持っていったとき、彼は呆れたように溜息をついた。
「……あの、僕はあなたの試食係ではないのですが」
カウンターに置かれたスコーンを見下ろし、彼は静かに告げた。その言葉は正論すぎて、ぐうの音も出ない。
やっぱり、迷惑だったか。私がしょんぼりと肩を落とすと、彼は困ったように眉尻を下げ、しかしスコーンを手に取った。
「……ですが、いただくからには食べます」
そう言って、結局受け取ってくれるのだ。ツンケンしているようで、根が真面目で優しい。そんな彼の一面を知るたびに、私はますます彼に惹かれていった。
エプロンのポケットにお菓子をしまう彼の手つきは、本を扱うときと同じように丁寧で。それを見るだけで、私は一週間分の幸せをチャージできた。
そんなある日のことだ。
その日は、レモンのパウンドケーキを焼いていった。アイシングをたっぷりとかけ、爽やかな酸味を効かせてある。
いつものように本を買い、お菓子を渡し、少しの会話を交わす。それだけで満足して帰ろうとした私を、彼の声が引き留めた。
「あの」
「はい?」
振り返ると、彼は視線をカウンターの木目に落としたまま、指先でエプロンの裾をいじっていた。何か言い淀んでいるような、珍しい仕草。
私が首を傾げていると、彼は意を決したように顔を上げず、ぼそりと呟いた。
「……この間の、スコーン」
「えっ、あ、はい。どうでした……?」
まさか、口に合わなかったとか? お腹を壊したとか?
不安が駆け巡る中、彼は視線を逸らしたまま、本当に小さな声で言った。
「……美味しかった、です」
時が止まった。
今、なんと? 美味しい? あの水瀬さんが?
感情表現が乏しく、味に疎いと公言していた彼が?
「え、うそ、ほんとですか!?」
思わずカウンターに身を乗り出すと、彼はバツが悪そうに顔を背けた。
「……嘘は言いません。触感が良かったのと、生地がパサついていなくて食べやすかったので」
予想以上に具体的な感想に、私は目を白黒させる。
味に疎いなんて嘘じゃないか。しっかり味わってくれている。
「よ、よかったぁ……! 自信作だったんです!」
破顔する私を見て、彼はふいっと視線を本に戻してしまった。
「……どうも。それだけです」
耳の先が、ほんのりと赤くなっているように見えたのは、店内の照明のせいだろうか。
店を出た後、私は思わずその場でガッツポーズをしてしまった。
美味しかった。
そのたった五文字が、私の頭の中でファンファーレのように鳴り響く。彼との距離が、また一ミリだけ縮まった気がした。
この「お菓子外交」が、二人の関係を繋ぐ細い、けれど確かな糸になっていくことを、この時の私はまだ知らなかった。
ただ、彼の「美味しい」という言葉を聞くためだけに、私は来週もまた小麦粉と格闘することになるのだろう。
それは、恋と呼ぶにはあまりにささやかで、けれど何よりも甘い、私だけの特権だった。




