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月と星の書架  作者: 沙也
2/15

「……いえ、僕は基本的に物語は読まないので」

 その日は、本当に、ほんの少しの出来心だった。

 毎週火曜日と金曜日に通い詰め、必ず一冊の本を買う。そんな奇妙なルーティンを繰り返すうちに、私の中で勝手な親近感が育ってしまっていたのかもしれない。

 あるいは、季節外れの暖かな陽気が、私の理性を少しだけ麻痺させていたのかも。

 いつものように文庫本を一冊手に取り、レジカウンターへ向かったときのことだ。

 会計を済ませ、丁寧にカバーを掛けてくれる彼の手元を見つめながら、私は喉の奥で転がしていた言葉を、ついぽろりと零してしまった。

「あの、水瀬さんのおすすめの本はありますか……?」

 言ってしまった、と後悔したのは、言葉が空気に溶けた直後だった。作業をしていた彼の手が、ぴたりと止まる。長い睫毛が瞬き、墨色の瞳が私を捉えた。

 その瞳には、驚きも、喜びも、迷惑そうな色さえも浮かんでいない。ただ、静かな湖面のような無関心だけがあった。

 沈黙が痛い。

 心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。客が店員におすすめを聞く。それは決して珍しいことではないはずだ。

 けれど、この『月見書店』の、そして水瀬という青年の纏う空気において、それは酷く場違いな質問だったように思えた。

 彼は少しだけ視線を逸らし、淡々とした口調で答える。

「……いえ、僕は基本的に物語は読まないので」

「あ……」

 予想外の答えに、言葉が詰まる。

 書店員なのに物語を読まない?

 私の戸惑いを気にする風もなく、彼は手元の本を私の前に差し出した。

「専門書や図鑑なら多少はわかりますが、小説の類はさっぱりです。お客様の方が詳しいかと」

 それは、明確な拒絶だった。これ以上、踏み込んでくるなという線引き。彼は、店員と客という境界線を、誰よりも厳格に守っているのだ。

「そ、そうですか……。変なことを聞いてすみません」

「いえ」

 短く返された言葉と共に、会話はぶつりと切れた。逃げるように店を出て、私は深い溜息をついた。

 欲をかくものではない。

 ただ見ているだけでいいと決めたはずなのに、声をかけて、表情を変えてみたいなんて、烏滸がましいにも程がある。

 彼は、他人に踏み込まれるのを拒んでいるようだ。その頑な態度は、どこか痛々しく、同時に美しくも見える。

 誰にも触れさせない聖域を守る番人のような。

 その扉を叩いてしまった自分の浅はかさを反省し、私は夜風に火照った頬を冷やしながら家路についた。

 

 それからも、週二回。

 火曜日と金曜日には店に行き、本を買い、彼の横顔を盗み見る日々が続いた。

 あの一件以来、私はより一層慎重になった。

 決してプライベートには踏み込まない。余計な会話はしない。ただの「静かな客」に徹すること。

 それが、この場所に居続けるための唯一の資格なのだから。


 そして、金曜日がやってきた。

 朝の天気予報では、降水確率は三十パーセント。

 折り畳み傘を持っていくか迷ったけれど、荷物になるのを嫌って置いてきてしまったのが運の尽きだった。

 仕事を終え、いつものように書店へ向かう。その日は、ずっと読みたかった作家のエッセイ集を購入した。

 レジでのやり取りは、いつも通り事務的で、穏やかなものだった。

「ありがとうございます」

 彼から商品を受け取り、軽く会釈をして背を向ける。

 また来週の火曜日に。

 心の中でそう呟いて、重厚な木製の扉に手をかけたときだった。

 ばらばらばら……。

 くぐもった音が、硝子の向こうから聞こえてくる。嫌な予感がして扉を少し開けると、湿った風と共に、激しい雨音が店内に流れ込んできた。

「うそ……」

 思わず声が出る。

 アスファルトを叩きつける雨粒は大きく、とても小走りや雨宿り程度で凌げるような降り方ではない。完全に、本降りの雨だ。

 傘は持っていない。駅までは歩いて十五分。走ったとしても、間違いなくずぶ濡れになる距離だ。

 どうしよう。

 一度店に戻って雨宿りをさせてもらうか?

 いや、会計を済ませた後に長居するのは迷惑だろう。かといって、タクシーを呼ぶほどの距離でもない。

 私のバッグの中には、今買ったばかりの本が入っているのだ。自分は濡れてもいいけれど、この本まで濡らしてしまうのは忍びない。

 でも、ここに立ち尽くしていても止む気配はないし……。

「……仕方ない」

 私は覚悟を決めた。バッグを胸に抱え込み、雨の中へ飛び出そうと足に力を入れる。

「あの」

 背後から、静かな声がかかった。驚いて振り返ると、そこにはいつの間にかカウンターから出てきた水瀬さんが立っていた。手には、透明なビニール傘が握られている。

「水瀬、さん……?」

 彼は少し気まずそうに視線を泳がせ、それから意を決したように傘を差し出した。

「これ、随分前に誰かが忘れていった傘です。たぶん、取りに来ることはないと思うので、貸してもいいですけど」

 淡々とした口調。けれど、その提案に私は目を丸くした。

 まさか、彼の方から声をかけてくれるなんて。しかも、傘を貸してくれるなんて。

「え、でも……悪いですよ。水瀬さんが使うんじゃ」

「僕は置き傘がありますから」

 即答だった。それでも躊躇う私に、彼は視線を私の胸元――抱きしめたバッグへと落として、ぽつりと言った。

「本が、濡れるので」

 ああ、なるほど。私を心配してくれたわけじゃなくて、彼が大切に包んだ本が雨に濡れるのが嫌だったのか。

 妙に納得してしまい、同時にその職人気質のような理由が少し嬉しくもあった。

「あ、ありがとうございます……」

 お礼を言って傘を受け取ろうとすると、彼はふと窓の外の土砂降りの雨を見やり、眉を僅かに寄せた。

「……これだけ降っていると、傘があっても濡れますね」

「ええ、まあ。でも駅までダッシュすればなんとかなります」

「もし時間が許すなら、止むまで中にいたらどうですか」

「え?」

 耳を疑った。

 今、なんて言った? 中で、待っていろと?

 思考が追いつかない私を置いて、彼は返事も待たずにくるりと背を向け、レジカウンターへと戻っていってしまった。

 取り残された私は、傘を持ったまま呆然と立ち尽くす。

 どうする? お言葉に甘えていいの? それとも、社交辞令と受け取って帰るべき?

 いや、あの水瀬さんが社交辞令なんて高度な技を使うとは思えない。

 ほんの少し迷った末、私はおずおずと書店の中へと戻った。雨音の反響する店内は、先ほどまでよりも一層静寂が際立っているように感じる。

 どこにいればいいのだろう。

 レジの前で突っ立っているのも変だし、本棚の前をうろうろするのも気が散るだろう。

 視線を巡らせると、本棚から少し離れた明かり窓の側に、小さな木製の椅子が置かれているのが目に入った。

 背もたれのついた、シンプルな丸椅子だ。あそこなら、邪魔にならないかもしれない。私は足音を忍ばせてその椅子に近づき、そっと腰を下ろしてみた。

 古い木材が、微かにきしむ。座り心地は悪くない。

 窓の外は灰色の雨の帳に覆われていて、世界から切り離されたような心細さと、この空間に彼と二人きりだという事実が、ないまぜになって押し寄せてくる。

 ……静かだ。

 あまりにも静かすぎる。

 聞こえるのは雨音と、時折彼が紙をめくる音だけ。私は膝の上で手を組み、じっと床の木目を見つめた。

 何か話すべきだろうか?

 いや、話しかけてまた拒絶されるのは怖い。

 でも、無言で座っているのも不気味じゃないか?

 沈黙に耐えられなくなった私は、そわそわと視線を彷徨わせ、バッグの紐をいじり、意味もなく姿勢を変えた。

 自意識過剰かもしれないけれど、彼の視線が背中に刺さっているような気がして落ち着かない。

 帰ればよかったかもしれない。

 そんな後悔が頭をもたげ始めた頃、ふいに彼が口を開いた。

「……雨、少し弱くなりましたね」

 びくっ、と肩が跳ねる。恐る恐る顔を上げると、カウンターの中から彼が窓の外を見ていた。

「あ、えっ、本当ですね! お仕事の邪魔しちゃってすみません」

 慌てて謝罪の言葉を口にする。すると、彼はゆっくりとこちらに視線を移し、相変わらず表情のない顔で言った。

「邪魔だと思ったら、最初から声をかけません」

 ずばっと言い切られた言葉に、私は瞬きをする。それは、裏を返せば「邪魔じゃない」と言ってくれているのだろうか。

 彼は続けて、私の座っている椅子を顎で示した。

「……その椅子、昼間は近くのおじいさんがきたときに使ってるんです。毎回そこで本を読んでいきます」

「そう、なんですか……」

 近所のおじいさんの定位置。そんなほのぼのとしたエピソードがあったとは。

「だから別に気になりません」

 彼はそう締めくくって、再び手元の作業に戻った。

 気にならない。

 つまり、私は彼にとって「風景の一部」であり、「おじいちゃんと同じ扱い」ということだ。異性として意識されていないことは明白で、少しばかり傷つくものの、同時にひどく安堵した。

 彼の言葉に嘘はないようだ。

 変に気を使われているわけでも、我慢されているわけでもない。

 ただ、そこに椅子があるから座ることを許された。それだけのこと。そのドライな距離感が、今の私には心地よかった。

 ふう、と小さく息を吐き出す。緊張が解けると、店内の空気の柔らかさに気づく。

 雨の日の書店特有の、湿気を帯びた古紙の匂い。明かり窓から差し込む、鈍色の光。そして、一定のリズムで聞こえる彼の作業音。

 ああ、幸せだな。この時間が永遠に続けばいいのに。

 そんな叶わぬ願いを抱きながら、私はぼんやりと雨粒が窓硝子を伝い落ちるのを眺めていた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 気づけば、激しかった雨音は遠ざかり、代わりに軒先から落ちる雫の音が聞こえるようになっていた。時計を見ると、閉店時間の八時を回ろうとしている。

「そろそろ出られますか? 店を閉めるので」

 彼がカウンターから出てきて、入り口を見ながら言った。

 夢の時間は終わりだ。

 私は慌てて立ち上がり、バッグを肩にかける。

「あ、はい。もちろん」

 彼が扉を開け、外の空気を入れた。雨上がりの夜風はひんやりとしていて、少しだけ寂しい匂いがする。借りたビニール傘を手に、私は彼に向き直った。

 彼は戸締りの準備をしながらも、こちらを待っていてくれている。

「あの、傘、大切に使わせていただきます」

 心を込めてそう伝えると、彼は短く頷いた。

「はい」

 それ以上の言葉はない。けれど、その素っ気なさがもう怖くはなかった。

 おじいさんと同じカテゴリだとしても、彼が私に親切にしてくれた事実は変わらないのだから。

 私は深く頭を下げ、店を出た。

 濡れた路面が街灯を反射してきらきらと光っている。手の中にあるビニール傘の柄を、ぎゅっと握り締めた。

 誰かが忘れていった傘。

 持ち主はもう現れないだろう傘。

 この傘を忘れてくれた何処かの誰かに、私は心の中で盛大にお礼を言った。

 おかげで、彼との雨宿りという奇跡のような時間を過ごすことができました、と。

 一歩踏み出す足取りは、来たときよりもずっと軽かった。まだ完全に止んでいない小雨の中、私は彼の貸してくれた傘を広げる。

 ビニール越しに見える夜空は、滲んでいて星など見えなかったけれど、今の私にはどんな星空よりも輝いて見えた。


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