星を継ぐもの
梅雨の走りのような、湿り気を帯びた風が吹く五月の終わり。
路地裏の紫陽花が、雨を待ちわびるように蕾を膨らませていた。
火曜日。いつもの『月見書店』。私はレジカウンターの横に置かれた丸椅子に座り、膝の上で文庫本を広げていた。
隣では、嘉月くんが新刊の入荷処理をしている。キーボードを叩く軽快な音と、ページを捲る音が重なる、穏やかな時間。
私たちは言葉を交わさなくても、そこに互いの存在を感じるだけで満たされていた。
けれど、今日の嘉月くんは少しだけ様子が違っていた。時折手を止めて、何かを考え込むように宙を見つめたり、私の方をちらりと見ては、言い淀むように視線を逸らしたり。
何か言いたいことがあるなら、言えばいいのに。
付き合い始めて数ヶ月。彼の「察してちゃん」な部分にもだいぶ慣れてきた私は、本から目を離さずに声をかけた。
「……何かありました?」
「えっ」
彼は驚いたように肩を跳ねさせ、それから観念したように息を吐いた。
「……わかりますか」
「わかりますよ。さっきから視線が痛いくらいですから。……デートのお誘いですか? それとも、夕飯の相談?」
私が茶化すように言うと、彼は「まあ、デートと言えなくもないですが」と歯切れ悪く呟き、エプロンのポケットから一通の封筒を取り出した。
綺麗な若草色の封筒だ。
「実は、今日……手紙が届きまして」
「手紙?」
「ええ。……祖父からです」
祖父。
その単語が出た瞬間、私はページを捲る手を止めた。
水瀬さんのおじいさん。この『月見書店』の先代店主であり、嘉月くんにとって最も大切な人。そして、彼が星を好きになるきっかけを与えてくれた人。
彼はいつも、おじいさんの話をするとき、どこか遠くを見るような、切なくも温かい目をする。「祖父が残した本」や、「祖父と見た星」。
その言葉の端々から、私は勝手に察していた。おじいさんはもう、この世にはいないのだと。
彼が一人でこの店を守っているのは、亡き祖父への弔いであり、遺志を継ぐためなのだと。
だから、彼が「手紙が届いた」と言ったとき、私は一瞬、思考が停止した。天国からの手紙? まさか。遺言書か何かが、時間差で届いたということ?
「……手紙って、遺品整理か何かで見つかったんですか?」
私が恐る恐る尋ねると、嘉月くんはきょとんとして私を見た。
「遺品? いえ、郵送で届きましたが」
「えっ、郵送?」
「はい。伯父の家から」
彼は封筒を裏返し、差出人の名前を見せてくれた。
そこには、達筆な文字で『水瀬 宗一郎』と書かれている。
「あの……嘉月くん」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「おじいさんって……ご存命、なんですか?」
私の問いかけに、彼はさらに目を丸くし、それからはっとしたように口元を手で覆った。
「あ……。もしかして、亡くなったと思っていましたか?」
「え、はい。だって、『祖父が遺した』とか『受け継いだ』とか言うから……てっきり」
「すみません、言葉足らずでした」
彼は苦笑いしながら、頭を下げた。
「祖父は生きています。ただ、高齢で足腰が弱ってしまったので、二年前に引退して、郊外に住む伯父の家――祖父の長男ですね。そこに身を寄せているんです」
「えええっ⁉」
私は思わず大声を上げて立ち上がってしまった。椅子ががたんと音を立てる。
「い、生きてたんですか⁉ なんだ、てっきり私……うわぁ、勝手に殺しちゃってごめんなさい!」
顔から火が出るほど恥ずかしい。勝手に「孤独な青年が、亡き祖父の店を守る健気な物語」を脳内で作り上げて、勝手にしんみりしていたなんて。
穴があったら入りたい。いや、むしろ本棚の隙間に挟まりたい。
「ふふ、いえ。そう誤解されるような言い方をしていた僕が悪いです」
嘉月くんは面白そうに笑いながら、私の手を取って座らせてくれた。
「でも、よかったです。……生きてらっしゃるんですね」
恥ずかしさが引くと同時に、じわじわと安堵が広がっていく。
彼は独りぼっちじゃなかった。
帰る場所も、待っていてくれる人も、ちゃんといたんだ。その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
「それで、その手紙の内容というのは?」
私が気を取り直して聞くと、彼は少し表情を引き締めた。
「……話を聞いたそうです」
「話?」
「ええ。以前、従兄の奥さんである渚さんがここに来たでしょう? そのとき、僕たちが……その、親しくしている様子を見ていたらしく。それを祖父に話したようで」
ああ、あのときの。私が嫉妬して距離を置くきっかけになった、あの女性だ。
誤解は既に溶けているし、渚さん本人にも一度合っている。そのときに平謝りされて、こちらの方が申し訳なく思ったくらいだ。
「『嘉月がそんな顔をする相手なら、一度会わせろ』と。……今度の日曜日、伯父の家に来いという呼び出しです」
彼は困ったように眉を下げたが、その瞳には隠しきれない喜びの色があった。
「星衣さん。……もしよろしければ、一緒に行っていただけませんか?」
それは、実質的な「家族への紹介」だった。
緊張が走る。相手は、あの水瀬嘉月を育て上げたおじいさんだ。きっと厳格で、本の知識も豊富で、私のような未熟者が適う相手ではないかもしれない。
けれど、彼の大切な人に、会ってみたい。彼がどんなふうに育ち、どんな人に愛されてきたのかを知りたい。その好奇心と愛情が、恐怖を上回った。
「……はい。私でよければ、喜んで」
私が答えると、彼は心底ほっとしたように、私の手を握り返してくれた。
◇◇◇
日曜日。天気は快晴。絶好のドライブ日和だ。
私は朝からクローゼットの前で一時間も悩み抜き、最終的に清楚さを重視した淡いブルーのワンピースを選んだ。
手土産には、昨日一日がかりで焼いたマドレーヌとフィナンシェの詰め合わせ。そして、おじいさんが好きだという老舗の煎餅も用意した。
午前十時。マンションの前に、シルバーのセダンが停まった。運転席から降りてきたのは、嘉月くんだ。
今日の彼は、白のオックスフォードシャツにベージュのチノパンという、清潔感溢れる装いである。
「おはようございます、星衣さん」
「おはようございます。……車、珍しいですね」
「レンタカーです。伯父の家は電車だと不便な場所にあるので」
彼はスマートに助手席のドアを開けてくれた。エスコート慣れしていない私は、ぎこちなく礼を言って乗り込む。
車内には、微かにシトラス系の芳香剤の香りがした。運転席に座った彼が、シートベルトを締めながらこちらを見る。
「……似合っていますね、その服」
「あ、ありがとうございます。……嘉月くんも、かっこいいです」
素直に伝えると、彼は耳を赤くして「安全運転で行きます」と誤魔化すようにハンドルを握った。
車は都心を抜け、郊外へと走る。車窓の景色が、ビル群から緑豊かな住宅街、そして田園風景へと変わっていく。
車内という密室。
いつもはカウンター越しか、横並びで本を読んでいる私たちにとって、この「肩が触れそうな距離で、正面を向いて話す」という状況は新鮮だった。
「おじいさんって、どんな方なんですか?」
緊張を紛らわせるために聞くと、彼は少し遠くを見る目をした。
「……厳格ですが、愛情深い人です。僕が両親を早くに亡くした後、男手一つで育ててくれましたから」
さらりと語られた事実に、私は息を呑む。
両親を早くに。そうだったんだ。だから彼は、あんなにも「孤独」の匂いを纏っていたのか。
「本のこと、星のこと、人との付き合い方……すべて祖父から教わりました。……ただ、僕があまりに感情を出さない子供だったので、随分と心配をかけたと思います」
「感情を出さない……」
「ええ。『お前は月のように静かだが、自ら光ることを忘れている』と、よく言われました」
月は、太陽の光を受けて輝く。自ら熱を発することはない。
幼い頃の彼は、きっと痛みや悲しみから身を守るために、心を閉ざして静かな月になったのだろう。
「でも、今の嘉月くんは違いますよ」
私は彼の横顔に言った。
「私には見えます。嘉月くんの中に、ちゃんと温かい光があること」
彼は一瞬驚いたようにこちらを見て、それからふわりと微笑んだ。
「……あなたのおかげです。あなたが照らしてくれたから、僕も光を返せているのかもしれません」
なんてキザな台詞。でも、彼が言うとすとんと胸に落ちるから不思議だ。
一時間半ほど走ったところで、車は緑に囲まれた大きな日本家屋の前で停まった。立派な門構え。
手入れされた庭木。歴史を感じさせる佇まいに、私の緊張はピークに達した。
「……大丈夫ですよ。祖父は、あなたのことを楽しみにしていますから」
彼が私の震える手に触れ、安心させるように微笑む。その温かさに勇気をもらい、私は車を降りた。
玄関で出迎えてくれたのは、嘉月くんの伯父さん夫婦だった。二人とも朗らかで優しそうな人たちで、私を歓迎してくれた。
そして、通された奥の和室。縁側の障子が開け放たれ、初夏の風が吹き抜けるその部屋に、一人の老人が座っていた。
白髪の上品な老紳士。背筋はピンと伸び、膝の上に置かれた手は、嘉月くんと同じように節が高く、そして大きかった。
「……おじいさん。ご無沙汰しています」
嘉月くんが畳に座り、深く頭を下げる。私も慌てて隣に座り、三つ指をついた。
「は、初めまして。結月星衣と申します。……本日はお招きいただき、ありがとうございます」
心臓が口から飛び出しそうだ。おじいさんはゆっくりと私たちを見比べ、そして視線を私に固定した。
その瞳の色。墨のような黒。
嘉月くんと全く同じ瞳が、私を射抜くように見つめている。怖い、と思ったのは一瞬だった。その瞳の奥が、くしゃりと和やかに細められたからだ。
「……よく来たね、お嬢さん」
声は低く、枯れているけれど、深い響きがあった。
「話は聞いているよ。あの堅物の嘉月が、店をほっぽり出してでも会いたがる人ができたとな」
「お、おじいさん。人聞きが悪いです。店はちゃんと定休日に……」
「ふん、屁理屈を言うようになったか。昔は『はい』としか言わん可愛げのない子供だったのにな」
おじいさんは愉快そうに笑うと、私に向き直った。
「結月星衣さん、と言ったね」
「は、はい」
「……結ぶ、月。に、星に衣、か」
その言葉に、私ははっとした。
あの日。私が店で初めて名前を書いた日、嘉月くんが呟いた言葉と全く同じだったからだ。
やはり、この二人は親子なのだ。
「いい名前だ。……月見の店に、星が降りてきたか」
おじいさんは感慨深げに呟いた。
「嘉月はな、昔から月ばかり見ていた。冷たくて、静かで、手の届かないものばかりを好んでいた。……だが、星は違う。星は自ら熱を発し、命を燃やして輝くものだ」
彼は私の目を真っ直ぐに見て言った。
「あんたが、その熱をあいつに教えてくれたんだな」
その言葉は、感謝のように聞こえた。私は胸が熱くなり、言葉に詰まる。
「……私の方こそ、嘉月くんに救われているんです。彼のいる場所が、私にとっての道標ですから」
「そうか、そうか」
おじいさんは満足そうに頷き、嘉月くんを見た。
「いい顔をするようになったな、嘉月。……赤ん坊の頃以来じゃないか? お前がそんなに穏やかな目をするのは」
「……買いかぶりすぎですよ」
嘉月くんは照れくさそうに顔を背けたけれど、その耳は真っ赤だった。
それからは、和やかな時間が流れた。
おじいさんは、嘉月くんの子供時代の話(星を見るために屋根に登って降りられなくなり、消防車を呼ぶ騒ぎになった話など)を暴露し、嘉月くんが必死に止めるのを私が笑って聞く。
手土産のお菓子も、「これはうまい。店の売り物にしてもいいくらいだ」と絶賛してくれた。
帰り際。
おじいさんは、嘉月くんに一冊の古いノートを手渡した。
「……店の屋上にある、観測ドーム。あれの整備記録だ」
「おじいさん……」
「もうわしは階段を上れん。あそこは、お前にやる。……錆びつかせとらんか?」
「……時々、手入れはしています」
「ならいい。……今夜は晴れるそうだ。久しぶりに、開けてみたらどうだ?」
おじいさんは、悪戯っぽく私にウインクをした。
「隣に、星がいるんだ。きっと、昔とは違って見えるはずだぞ」
帰りの車内は、行きよりもずっとリラックスした空気が流れていた。夕焼けが空を茜色に染め、長い影を落としている。
「……いいおじいさんですね」
私が言うと、嘉月くんはハンドルを握りながら穏やかに微笑んだ。
「ええ。……僕にはもったいないくらいです」
「星衣さん」
「はい?」
「……このまま、店に戻ってもいいですか?」
彼の意図を察して、私は胸を高鳴らせた。
「もちろんです。……見せてくれるんでしょう? 嘉月くんの、秘密基地」
「秘密基地、ですか。ふふ、そうかもしれませんね」
彼はアクセルを踏み込んだ。
目指すは『月見書店』。私たちの帰る場所。
店に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。夜空には、雲ひとつない満天の星が広がっている。
私たちは裏口から入り、普段は使わない狭い螺旋階段を上った。
カツ、カツ、と足音が反響する。
まるで塔の上に幽閉されたお姫様を助けに行くような、あるいは魔女の隠れ家に向かうような、不思議な高揚感。
階段を上りきった先には、重厚な鉄の扉があった。ギギィ、と少し錆びついた音を立てて、それが開かれる。
その先は、別世界だった。
半球状の天井。部屋の中央に鎮座する、巨大な天体望遠鏡。真鍮のボディが、差し込んだ月明かりを受けて鈍く輝いている。
空気はひんやりとしていて、古い機械油と、冬の夜のような澄んだ匂いがした。
「……すごい」
私は思わず息を呑んだ。もっと小さなものを想像していたけれど、これは本格的な観測機材だ。
「ここが、観測ドーム……」
「子供の頃は、ここが僕のすべてでした」
嘉月くんが愛おしそうに望遠鏡の筒を撫でる。
「学校で嫌なことがあっても、ここに来て星を見ていると、自分がちっぽけな存在に思えて、救われたんです」
彼は手際よくドームのスリットを開けるハンドルを回した。
ゴゴゴ……という重低音と共に、天井の一部が開き、そこから切り取られた夜空が顔を覗かせる。
満天の星。街明かりがあるはずなのに、ここから見ると、まるで手が届きそうに近く感じる。
「……見てみますか?」
彼が接眼レンズを調整し、私を招いた。ドキドキしながら、望遠鏡を覗き込めば、視界いっぱいに広がる、光の粒。
宝石箱をひっくり返したような、眩い輝き。
「わあ……! 綺麗……!」
「今は、土星が見えますよ。ほら、環があるでしょう」
彼の声が、すぐ耳元でする。はっとして顔を上げると、彼が私の背後から覆いかぶさるようにして、望遠鏡を操作していた。
近い。背中に彼の体温を感じる。彼の手が、私の手に重なり、微調整をしてくれる。星の美しさと、彼の近さに、頭がくらくらする。
「……綺麗ですね」
彼が囁いた。それは星のことなのか、それとも。私は振り返り、彼を見上げた。薄暗いドームの中で、彼の瞳が星の光を反射して輝いている。
「……嘉月くん」
「はい」
「私、嬉しいです。……嘉月くんの大切な場所に、入れてもらえて」
「……僕の方こそ」
彼はそっと私の頬に触れた。
「以前は、一人で見ることが平穏だと思っていました。でも今は……あなたが隣にいないと、どんなに綺麗な星も物足りない」
おじいさんの言葉が蘇る。
『隣に星がいるんだ。きっと、昔とは違って見えるはずだぞ』
彼は今、私という星の光を通して、世界を見ているのだ。
「星衣さん」
彼が顔を寄せてくる。私は目を閉じた。触れ合う唇。それは甘く、優しく、そして永遠を誓うような口付けだった。
頭上には満天の星。静寂なドームの中、二人の鼓動だけが重なり合う。
月は、星の光を受けて輝くのではない。
月と星が並ぶからこそ、夜空は美しいのだ。
私は彼の首に腕を回しながら、心の中でそっと呟いた。
――おじいさん、ありがとうございます。
この素敵な月を、私に見つけさせてくれて。
夜風がドームの中に吹き込み、私たちの髪を揺らした。春の終わりの、甘い夜。
私たちの物語は、この星空の下で、また新しく紡がれていくのだ。




