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月と星の書架  作者: 沙也
15/15

星を継ぐもの

 梅雨の走りのような、湿り気を帯びた風が吹く五月の終わり。

 路地裏の紫陽花が、雨を待ちわびるように蕾を膨らませていた。

 火曜日。いつもの『月見書店』。私はレジカウンターの横に置かれた丸椅子に座り、膝の上で文庫本を広げていた。

 隣では、嘉月くんが新刊の入荷処理をしている。キーボードを叩く軽快な音と、ページを捲る音が重なる、穏やかな時間。

 私たちは言葉を交わさなくても、そこに互いの存在を感じるだけで満たされていた。

 けれど、今日の嘉月くんは少しだけ様子が違っていた。時折手を止めて、何かを考え込むように宙を見つめたり、私の方をちらりと見ては、言い淀むように視線を逸らしたり。

 何か言いたいことがあるなら、言えばいいのに。

 付き合い始めて数ヶ月。彼の「察してちゃん」な部分にもだいぶ慣れてきた私は、本から目を離さずに声をかけた。

「……何かありました?」

「えっ」

 彼は驚いたように肩を跳ねさせ、それから観念したように息を吐いた。

「……わかりますか」

「わかりますよ。さっきから視線が痛いくらいですから。……デートのお誘いですか? それとも、夕飯の相談?」

 私が茶化すように言うと、彼は「まあ、デートと言えなくもないですが」と歯切れ悪く呟き、エプロンのポケットから一通の封筒を取り出した。

 綺麗な若草色の封筒だ。

「実は、今日……手紙が届きまして」

「手紙?」

「ええ。……祖父からです」

 祖父。

 その単語が出た瞬間、私はページを捲る手を止めた。

 水瀬さんのおじいさん。この『月見書店』の先代店主であり、嘉月くんにとって最も大切な人。そして、彼が星を好きになるきっかけを与えてくれた人。

 彼はいつも、おじいさんの話をするとき、どこか遠くを見るような、切なくも温かい目をする。「祖父が残した本」や、「祖父と見た星」。

 その言葉の端々から、私は勝手に察していた。おじいさんはもう、この世にはいないのだと。

 彼が一人でこの店を守っているのは、亡き祖父への弔いであり、遺志を継ぐためなのだと。

 だから、彼が「手紙が届いた」と言ったとき、私は一瞬、思考が停止した。天国からの手紙? まさか。遺言書か何かが、時間差で届いたということ?

「……手紙って、遺品整理か何かで見つかったんですか?」

 私が恐る恐る尋ねると、嘉月くんはきょとんとして私を見た。

「遺品? いえ、郵送で届きましたが」

「えっ、郵送?」

「はい。伯父の家から」

 彼は封筒を裏返し、差出人の名前を見せてくれた。

 そこには、達筆な文字で『水瀬 宗一郎』と書かれている。

「あの……嘉月くん」

 私はごくりと唾を飲み込んだ。

「おじいさんって……ご存命、なんですか?」

 私の問いかけに、彼はさらに目を丸くし、それからはっとしたように口元を手で覆った。

「あ……。もしかして、亡くなったと思っていましたか?」

「え、はい。だって、『祖父が遺した』とか『受け継いだ』とか言うから……てっきり」

「すみません、言葉足らずでした」

 彼は苦笑いしながら、頭を下げた。

「祖父は生きています。ただ、高齢で足腰が弱ってしまったので、二年前に引退して、郊外に住む伯父の家――祖父の長男ですね。そこに身を寄せているんです」

「えええっ⁉」

 私は思わず大声を上げて立ち上がってしまった。椅子ががたんと音を立てる。

「い、生きてたんですか⁉ なんだ、てっきり私……うわぁ、勝手に殺しちゃってごめんなさい!」

 顔から火が出るほど恥ずかしい。勝手に「孤独な青年が、亡き祖父の店を守る健気な物語」を脳内で作り上げて、勝手にしんみりしていたなんて。

 穴があったら入りたい。いや、むしろ本棚の隙間に挟まりたい。

「ふふ、いえ。そう誤解されるような言い方をしていた僕が悪いです」

 嘉月くんは面白そうに笑いながら、私の手を取って座らせてくれた。

「でも、よかったです。……生きてらっしゃるんですね」

 恥ずかしさが引くと同時に、じわじわと安堵が広がっていく。

 彼は独りぼっちじゃなかった。

 帰る場所も、待っていてくれる人も、ちゃんといたんだ。その事実が、どうしようもなく嬉しかった。

「それで、その手紙の内容というのは?」

 私が気を取り直して聞くと、彼は少し表情を引き締めた。

「……話を聞いたそうです」

「話?」

「ええ。以前、従兄の奥さんである渚さんがここに来たでしょう? そのとき、僕たちが……その、親しくしている様子を見ていたらしく。それを祖父に話したようで」

 ああ、あのときの。私が嫉妬して距離を置くきっかけになった、あの女性だ。

 誤解は既に溶けているし、渚さん本人にも一度合っている。そのときに平謝りされて、こちらの方が申し訳なく思ったくらいだ。

「『嘉月がそんな顔をする相手なら、一度会わせろ』と。……今度の日曜日、伯父の家に来いという呼び出しです」

 彼は困ったように眉を下げたが、その瞳には隠しきれない喜びの色があった。

「星衣さん。……もしよろしければ、一緒に行っていただけませんか?」

 それは、実質的な「家族への紹介」だった。

 緊張が走る。相手は、あの水瀬嘉月を育て上げたおじいさんだ。きっと厳格で、本の知識も豊富で、私のような未熟者が適う相手ではないかもしれない。

 けれど、彼の大切な人に、会ってみたい。彼がどんなふうに育ち、どんな人に愛されてきたのかを知りたい。その好奇心と愛情が、恐怖を上回った。

「……はい。私でよければ、喜んで」

 私が答えると、彼は心底ほっとしたように、私の手を握り返してくれた。


 

  ◇◇◇


 

 日曜日。天気は快晴。絶好のドライブ日和だ。

 私は朝からクローゼットの前で一時間も悩み抜き、最終的に清楚さを重視した淡いブルーのワンピースを選んだ。

 手土産には、昨日一日がかりで焼いたマドレーヌとフィナンシェの詰め合わせ。そして、おじいさんが好きだという老舗の煎餅も用意した。

 午前十時。マンションの前に、シルバーのセダンが停まった。運転席から降りてきたのは、嘉月くんだ。

 今日の彼は、白のオックスフォードシャツにベージュのチノパンという、清潔感溢れる装いである。

「おはようございます、星衣さん」

「おはようございます。……車、珍しいですね」

「レンタカーです。伯父の家は電車だと不便な場所にあるので」

 彼はスマートに助手席のドアを開けてくれた。エスコート慣れしていない私は、ぎこちなく礼を言って乗り込む。

 車内には、微かにシトラス系の芳香剤の香りがした。運転席に座った彼が、シートベルトを締めながらこちらを見る。

「……似合っていますね、その服」

「あ、ありがとうございます。……嘉月くんも、かっこいいです」

 素直に伝えると、彼は耳を赤くして「安全運転で行きます」と誤魔化すようにハンドルを握った。

 車は都心を抜け、郊外へと走る。車窓の景色が、ビル群から緑豊かな住宅街、そして田園風景へと変わっていく。

 車内という密室。

 いつもはカウンター越しか、横並びで本を読んでいる私たちにとって、この「肩が触れそうな距離で、正面を向いて話す」という状況は新鮮だった。

「おじいさんって、どんな方なんですか?」

 緊張を紛らわせるために聞くと、彼は少し遠くを見る目をした。

「……厳格ですが、愛情深い人です。僕が両親を早くに亡くした後、男手一つで育ててくれましたから」

 さらりと語られた事実に、私は息を呑む。

 両親を早くに。そうだったんだ。だから彼は、あんなにも「孤独」の匂いを纏っていたのか。

「本のこと、星のこと、人との付き合い方……すべて祖父から教わりました。……ただ、僕があまりに感情を出さない子供だったので、随分と心配をかけたと思います」

「感情を出さない……」

「ええ。『お前は月のように静かだが、自ら光ることを忘れている』と、よく言われました」

 月は、太陽の光を受けて輝く。自ら熱を発することはない。

 幼い頃の彼は、きっと痛みや悲しみから身を守るために、心を閉ざして静かな月になったのだろう。

「でも、今の嘉月くんは違いますよ」

 私は彼の横顔に言った。

「私には見えます。嘉月くんの中に、ちゃんと温かい光があること」

 彼は一瞬驚いたようにこちらを見て、それからふわりと微笑んだ。

「……あなたのおかげです。あなたが照らしてくれたから、僕も光を返せているのかもしれません」

 なんてキザな台詞。でも、彼が言うとすとんと胸に落ちるから不思議だ。

 一時間半ほど走ったところで、車は緑に囲まれた大きな日本家屋の前で停まった。立派な門構え。

 手入れされた庭木。歴史を感じさせる佇まいに、私の緊張はピークに達した。

「……大丈夫ですよ。祖父は、あなたのことを楽しみにしていますから」

 彼が私の震える手に触れ、安心させるように微笑む。その温かさに勇気をもらい、私は車を降りた。

 玄関で出迎えてくれたのは、嘉月くんの伯父さん夫婦だった。二人とも朗らかで優しそうな人たちで、私を歓迎してくれた。

 そして、通された奥の和室。縁側の障子が開け放たれ、初夏の風が吹き抜けるその部屋に、一人の老人が座っていた。

 白髪の上品な老紳士。背筋はピンと伸び、膝の上に置かれた手は、嘉月くんと同じように節が高く、そして大きかった。

「……おじいさん。ご無沙汰しています」

 嘉月くんが畳に座り、深く頭を下げる。私も慌てて隣に座り、三つ指をついた。

「は、初めまして。結月星衣と申します。……本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 心臓が口から飛び出しそうだ。おじいさんはゆっくりと私たちを見比べ、そして視線を私に固定した。

 その瞳の色。墨のような黒。

 嘉月くんと全く同じ瞳が、私を射抜くように見つめている。怖い、と思ったのは一瞬だった。その瞳の奥が、くしゃりと和やかに細められたからだ。

「……よく来たね、お嬢さん」

 声は低く、枯れているけれど、深い響きがあった。

「話は聞いているよ。あの堅物の嘉月が、店をほっぽり出してでも会いたがる人ができたとな」

「お、おじいさん。人聞きが悪いです。店はちゃんと定休日に……」

「ふん、屁理屈を言うようになったか。昔は『はい』としか言わん可愛げのない子供だったのにな」

 おじいさんは愉快そうに笑うと、私に向き直った。

「結月星衣さん、と言ったね」

「は、はい」

「……結ぶ、月。に、星に衣、か」

 その言葉に、私ははっとした。

 あの日。私が店で初めて名前を書いた日、嘉月くんが呟いた言葉と全く同じだったからだ。

 やはり、この二人は親子なのだ。

「いい名前だ。……月見の店に、星が降りてきたか」

 おじいさんは感慨深げに呟いた。

「嘉月はな、昔から月ばかり見ていた。冷たくて、静かで、手の届かないものばかりを好んでいた。……だが、星は違う。星は自ら熱を発し、命を燃やして輝くものだ」

 彼は私の目を真っ直ぐに見て言った。

「あんたが、その熱をあいつに教えてくれたんだな」

 その言葉は、感謝のように聞こえた。私は胸が熱くなり、言葉に詰まる。

「……私の方こそ、嘉月くんに救われているんです。彼のいる場所が、私にとっての道標ですから」

「そうか、そうか」

 おじいさんは満足そうに頷き、嘉月くんを見た。

「いい顔をするようになったな、嘉月。……赤ん坊の頃以来じゃないか? お前がそんなに穏やかな目をするのは」

「……買いかぶりすぎですよ」

 嘉月くんは照れくさそうに顔を背けたけれど、その耳は真っ赤だった。

 それからは、和やかな時間が流れた。

 おじいさんは、嘉月くんの子供時代の話(星を見るために屋根に登って降りられなくなり、消防車を呼ぶ騒ぎになった話など)を暴露し、嘉月くんが必死に止めるのを私が笑って聞く。

 手土産のお菓子も、「これはうまい。店の売り物にしてもいいくらいだ」と絶賛してくれた。

 


 帰り際。

 おじいさんは、嘉月くんに一冊の古いノートを手渡した。

「……店の屋上にある、観測ドーム。あれの整備記録だ」

「おじいさん……」

「もうわしは階段を上れん。あそこは、お前にやる。……錆びつかせとらんか?」

「……時々、手入れはしています」

「ならいい。……今夜は晴れるそうだ。久しぶりに、開けてみたらどうだ?」

 おじいさんは、悪戯っぽく私にウインクをした。

「隣に、星がいるんだ。きっと、昔とは違って見えるはずだぞ」


 

 

 帰りの車内は、行きよりもずっとリラックスした空気が流れていた。夕焼けが空を茜色に染め、長い影を落としている。

「……いいおじいさんですね」

 私が言うと、嘉月くんはハンドルを握りながら穏やかに微笑んだ。

「ええ。……僕にはもったいないくらいです」

「星衣さん」

「はい?」

「……このまま、店に戻ってもいいですか?」

 彼の意図を察して、私は胸を高鳴らせた。

「もちろんです。……見せてくれるんでしょう? 嘉月くんの、秘密基地」

「秘密基地、ですか。ふふ、そうかもしれませんね」

 彼はアクセルを踏み込んだ。

 目指すは『月見書店』。私たちの帰る場所。


 


 店に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。夜空には、雲ひとつない満天の星が広がっている。

 私たちは裏口から入り、普段は使わない狭い螺旋階段を上った。

 カツ、カツ、と足音が反響する。

 まるで塔の上に幽閉されたお姫様を助けに行くような、あるいは魔女の隠れ家に向かうような、不思議な高揚感。

 階段を上りきった先には、重厚な鉄の扉があった。ギギィ、と少し錆びついた音を立てて、それが開かれる。

 その先は、別世界だった。

 半球状の天井。部屋の中央に鎮座する、巨大な天体望遠鏡。真鍮のボディが、差し込んだ月明かりを受けて鈍く輝いている。

 空気はひんやりとしていて、古い機械油と、冬の夜のような澄んだ匂いがした。

「……すごい」

 私は思わず息を呑んだ。もっと小さなものを想像していたけれど、これは本格的な観測機材だ。

「ここが、観測ドーム……」

「子供の頃は、ここが僕のすべてでした」

 嘉月くんが愛おしそうに望遠鏡の筒を撫でる。

「学校で嫌なことがあっても、ここに来て星を見ていると、自分がちっぽけな存在に思えて、救われたんです」

 彼は手際よくドームのスリットを開けるハンドルを回した。

 ゴゴゴ……という重低音と共に、天井の一部が開き、そこから切り取られた夜空が顔を覗かせる。

 満天の星。街明かりがあるはずなのに、ここから見ると、まるで手が届きそうに近く感じる。

「……見てみますか?」

 彼が接眼レンズを調整し、私を招いた。ドキドキしながら、望遠鏡を覗き込めば、視界いっぱいに広がる、光の粒。

 宝石箱をひっくり返したような、眩い輝き。

「わあ……! 綺麗……!」

「今は、土星が見えますよ。ほら、環があるでしょう」

 彼の声が、すぐ耳元でする。はっとして顔を上げると、彼が私の背後から覆いかぶさるようにして、望遠鏡を操作していた。

 近い。背中に彼の体温を感じる。彼の手が、私の手に重なり、微調整をしてくれる。星の美しさと、彼の近さに、頭がくらくらする。

「……綺麗ですね」

 彼が囁いた。それは星のことなのか、それとも。私は振り返り、彼を見上げた。薄暗いドームの中で、彼の瞳が星の光を反射して輝いている。

「……嘉月くん」

「はい」

「私、嬉しいです。……嘉月くんの大切な場所に、入れてもらえて」

「……僕の方こそ」

 彼はそっと私の頬に触れた。

「以前は、一人で見ることが平穏だと思っていました。でも今は……あなたが隣にいないと、どんなに綺麗な星も物足りない」

 おじいさんの言葉が蘇る。

 『隣に星がいるんだ。きっと、昔とは違って見えるはずだぞ』

 彼は今、私という星の光を通して、世界を見ているのだ。

「星衣さん」

 彼が顔を寄せてくる。私は目を閉じた。触れ合う唇。それは甘く、優しく、そして永遠を誓うような口付けだった。

 頭上には満天の星。静寂なドームの中、二人の鼓動だけが重なり合う。

 月は、星の光を受けて輝くのではない。

 月と星が並ぶからこそ、夜空は美しいのだ。

 私は彼の首に腕を回しながら、心の中でそっと呟いた。


 ――おじいさん、ありがとうございます。


 この素敵な月を、私に見つけさせてくれて。

 夜風がドームの中に吹き込み、私たちの髪を揺らした。春の終わりの、甘い夜。

 私たちの物語は、この星空の下で、また新しく紡がれていくのだ。

 

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