月と星の物語
師走に入り、街はどこか浮き足立った空気に包まれている。
イルミネーションが輝き、クリスマスソングが流れ、恋人たちが身を寄せ合って歩く季節。
そんな華やかな喧騒とは無縁の場所で、私は今日も残業に追われていた。
年末の繁忙期は容赦がない。山積みの書類と格闘し、オフィスを出たのは時計の針が十時を回った頃だった。
疲れ切った体を引きずるようにしてビルを出ると、冷たく澄んだ夜気が全身を打ち据える。
思わず身震いをして、コートの前をきつく合わせた。
マフラーに顔を埋め、凍える指先をポケットに突っ込む。
そのポケットの奥には、いつか渡しそびれたブラウニーの包み紙が、まだくしゃくしゃのまま入っているような気がして、私は慌てて手を離した。
あの日から、もう一ヶ月近くが経とうとしていた。
火曜日と金曜日が来る度に、胸が締めつけられるような苦しさを味わい、それを無理矢理仕事で麻痺させる。
そんな日々の繰り返し。
今日も、金曜日だ。本来なら、一週間のご褒美としてあの店に行き、彼と言葉を交わして癒やされるはずの時間。
けれど今の私には、ただの平日の終わりでしかない。
「……帰ろう」
独り言のように呟いて、駅へと歩き出す。
ふと、ビルの谷間から夜空を見上げた。そこには、驚くほど明るく、真ん丸な月が浮かんでいた。
「……今日、満月なんだ」
冬の透き通った空気に磨かれたように、その輝きは鋭く、そして冷たい。
月。その光を見た瞬間、封じ込めていた磁石が作動したかのように、私の足は勝手に向きを変えていた。
駄目だ、と思っていても、体は正直だ。月を見れば、どうしても『月見書店』を思い出してしまう。
彼を、思い出してしまう。
見るだけ。もう店は閉まっている時間だ。会うことはない。ただ、あの場所の空気を確認するだけだから。
そんな言い訳を心の中で唱えながら、私は人気のない路地裏へと吸い込まれていった。
静寂に包まれた路地は、大通りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。カツ、カツと響く自分のヒールの音が、やけに大きく聞こえる。
角を曲がった先、そこにあるはずのオレンジ色の明かりは、当然のように消えていた。
真っ暗な『月見書店』。看板も出ていないし、硝子戸の向こうも闇に沈んでいる。当然だ。もう十時を過ぎているのだから。
わかっていたはずなのに、胸の奥がひゅっと冷たくなる。私は建物の前で立ち止まり、暗い硝子戸に映る自分の姿を見つめた。
疲れた顔をした、独りぼっちの女。何をしているんだろう、私は。
彼が他の誰かと笑い合っている現実を見て、勝手に傷ついて、勝手に避けて。
それなのに、こうして未練がましく店の前まで来てしまうなんて。
「……馬鹿みたい」
口元から、自嘲めいた笑みが零れた。
もう、終わりにしよう。この満月を見たら、きっぱりと忘れよう。
そう決めて、踵を返そうとした、そのときだった。
カチャリ。
背後で、小さな金属音が響いた。
え、と思って振り返るのと同時。目の前の硝子戸が、内側からゆっくりと開いたのだ。
暗闇の中から現れたのは、見慣れたシルエット。濃いグレーのカーディガンに、身を包んだ彼――水瀬さんだった。
「あ……」
声にならない声が漏れる。
どうして。もう閉店時間をとっくに過ぎているのに。
彼は少し乱れた髪のまま、驚いたように目を見開き、私を凝視していた。その瞳が、月明かりを反射して揺れている。
幻覚だろうか。私が彼を想うあまりに作り出した、都合のいい夢なのだろうか。
呆然と立ち尽くす私に、彼が一歩踏み出した。
「……来て、くれたんですか」
その声は震えていて、掠れていた。まるで、迷子が親を見つけたときのような、切実な響き。
え、と思ったときには、私の腕は彼の手によって掴まれていた。
熱い。コート越しなのに、彼の手のひらの熱が火傷しそうなほど伝わってくる。
「ちょ、水瀬さ……」
抗議する間もなく、私は強い力で店内へと引き込まれた。
ばたん、と背後で扉が閉まる音。外の世界が遮断され、私は彼と同じ、暗闇の中に閉じ込められた。
店内は、しんと静まり返っていた。暖房が切れているのか、ひんやりとした空気が漂っている。けれど、完全な闇ではなかった。
入り口の硝子戸と、奥の明かり窓から、青白い月光が差し込んでいる。その光の帯の中に、彼が立っていた。
月明かりに照らされた水瀬さん。その顔色は蒼白く、けれど瞳だけが異様なほどの熱を帯びて輝いている。
彼は私の腕を掴んだまま、はっとしたように我に返り手を離した。
「す、すみません……! つい」
彼は慌てて後ずさり、自分の手を見つめた。私もまた、掴まれた腕の感触が消えないまま、心臓を早鐘のように打ち鳴らしていた。
今の、何?
強引に引き入れられたことへの驚きと、彼に触れられたことへの高揚感で、頭が真っ白になる。
彼は気まずそうに視線を泳がせ、それから「待っていてください」と短く告げて、店の奥へと引っ込んだ。
暗い店内に取り残された私。本棚の影が長く伸び、まるで異世界に迷い込んだようだ。
帰るべきだろうか。いや、足が動かない。彼が何をしようとしているのか、知りたいという欲求が恐怖を上回っていた。
すぐに彼は戻ってきた。
手には、一冊の大きな本を持っている。彼は私の前まで来ると、その本を差し出した。
月明かりの下で見るその表紙は、深い群青色をしていて、金の箔押しで星図が描かれていた。以前、私が買った写真集とは違う、もっと古くて、重厚な天文書だ。
「……これ」
彼が、ぽつりと口を開く。
「祖父が、大切にしていた本です」
おじいさんの本。彼がこの店を継ぐきっかけになった、大好きだったおじいさん。
どうして今、それを私に?
彼は本を胸に抱き直すと、窓の外の満月に視線を移した。その横顔は、彫刻のように美しく、そして痛々しいほどに寂しげだった。
「……僕は、星を見るのが好きでした。祖父の影響で」
静かな告白。私は息を潜めて、彼の言葉を待つ。
「でも、祖父がいなくなってからは……一人で見ると、星も月も冷たくて綺麗すぎるんです」
冷たくて、綺麗すぎる。その言葉が、私の胸にすとんと落ちた。
そうか。彼が纏っていたあの孤独な空気は、美しすぎるものを一人で受け止めきれない寂しさだったのかもしれない。
彼はゆっくりと視線を私に戻した。その瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「だけど、その……あなたと見ると、少し違って見える気がして」
え。
心臓が、大きく跳ねた。
私と見ると、違う?
彼は一歩、私に近づいた。月光の中で、彼の手が微かに震えているのがわかる。
「あの日。駅からの帰り道、あなたと一緒に月を見た時。……冷たくない、と思いました」
彼の声が、静寂に溶けていく。
「ただ綺麗だと思えました。隣に、あなたがいてくれたから」
涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。そんなふうに思ってくれていたなんて。
ただの客だと思っていた私との時間を、そんなふうに大切にしてくれていたなんて。
彼はさらに言葉を続けた。まるで、ずっと堰き止めていた感情が決壊したかのように。
「……それに、あなたが来ない火曜日と金曜日は、星が見えない夜みたいで、調子が狂うんです」
星が見えない夜みたい。彼なりの、精一杯の比喩。
それは、「あなたがいないと寂しい」という言葉よりも、ずっと深く、私の心に突き刺さった。
彼にとって、私は星だったのだ。暗い夜道を照らす、ささやかな光だったのだ。
その事実に、胸がいっぱいになって、言葉が出てこない。彼は私の沈黙をどう受け取ったのか、不安げに眉を寄せた。
「……迷惑、でしたか。こんな、本屋風情が」
その自嘲気味な響きに、私は激しく首を振った。
「違います! そんなこと、ない……!」
声が震える。違う。迷惑なわけがない。
嬉しくて、信じられなくて、どうしていいかわからないだけだ。
でも――。
私の脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。
レジカウンターで、あんなにも無防備に笑い合っていた二人。
その棘が、まだ私の心に深く刺さったままだ。
このまま流されてはいけない。ちゃんと、聞かなきゃ。私は勇気を振り絞って、彼を見上げた。
「……でも、わたしでいいんですか?」
彼が怪訝そうに目を瞬かせる。
「この間、見ました。……水瀬さんが、女性と親し気に笑い合ってるのを」
口に出すと、惨めさが込み上げてくる。
「あんな顔、私には一度も見せてくれなかったのに。見たことないのに……っ」
涙が零れて止まらなかった。嫉妬と、羨望と、悲しみと。
彼が驚いたように息を呑むのがわかった。
「あ……」
彼は何かを思い出すように視線を彷徨わせ、それからはっとして私を見た。
「え? ……ああ、もしかして従兄の奥さんですか」
従兄の、奥さん?
予想外の単語に、私は涙目で彼を見返した。
「生まれたときからの付き合いで、姉みたいなものです。……先日、子供の写真を持ってきてくれて」
姉みたいなもの。家族。
じゃあ、あの親密な空気は、恋人同士のそれではなく、身内としての安心感だったの?
拍子抜けして、ポカンと口を開けてしまう。彼は、困ったように、でもどこか安堵したように眉尻を下げた。
「――あなたが来なくなったのは、それが理由ですか?」
図星を指されて、私は顔を真っ赤にして俯いた。
恥ずかしい。勝手に勘違いして、勝手に嫉妬して、勝手に避けて。なんて子供っぽいんだろう。
「……だって、すごく楽しそうだったから。私には、あんな顔してくれないから……てっきり、大切な人なんだって」
ぼそぼそと言い訳をする私に、彼が近づいてくる気配がした。顔を上げると、すぐ目の前に彼の顔があった。
月明かりに照らされたその瞳は、今まで見たことがないほど優しく、そして熱を孕んでいた。
「……大切な人なら、ここにいます」
え。
時が止まる。彼は、持っていた本をカウンターに置き、空いた手で、恐る恐る私の頬に触れた。
冷たい指先。けれど、そこから伝わる体温は温かい。
「僕が、感情を表に出すのが苦手なのは知っていますよね」
彼は苦笑いをした。
「身内以外に、あんなふうに笑うことは滅多にありません。……でも」
彼の親指が、私の涙を拭う。
「あなたを見ていると、心が揺れるんです。嬉しくなったり、不安になったり、寂しくなったり。……そんなふうに、僕の感情を動かすのは、あなただけです」
それは、彼にとって最大の告白だった。
「面倒事」を嫌う彼が、感情が揺れ動くことを受け入れている。私という存在がもたらす波紋を、彼が愛おしいと思ってくれている。
涙が、また溢れた。今度は、嬉し涙だった。
「……水瀬さん」
「嘉月です」
彼が遮った。
「名前で、呼んでくれませんか。……あなたの名前が星衣なら、僕は嘉月でありたい」
月と星。その繋がりを、彼もまた感じていてくれたのだ。
「……嘉月、さん」
初めて呼ぶその名前は、甘く、切なく、胸に響いた。
彼がふわりと微笑んだ。あの日、女性に見せていた笑顔よりも、もっと不器用で、でもずっと温かい、私だけの笑顔。
「星衣さん」
彼が私の名前を呼ぶ。
その瞬間、私たちは「店員と客」という境界線を、完全に踏み越えた。
暗い店内に、月明かりだけが降り注ぎ、まるでスポットライトのように、二人を包み込んでいる。
彼はそっと私の肩を引き寄せ、抱き締めた。紺色のエプロンから、古紙と珈琲の匂いがする。
その腕の中で、私はようやく知った。
一人で見上げる満月も綺麗だけれど、こうして誰かの温もりの中で見る月は、泣きたくなるほど優しいのだと。
長い冬の夜。
閉ざされていた書店の扉は、二人のために開かれた。これからは、火曜日も金曜日も、それ以外の日も。
星が見えない夜だって、私たちは互いを照らし合える。月と星が、同じ空にある限り。
◇◇◇
古びた木枠の窓から、柔らかな春の陽射しが降り注いでいる。
舞い込んだ風が、読みかけのページを悪戯に捲り、ふわりとインクと沈丁花の香りを運んできた。
私は膝の上の文庫本を押さえ、顔を上げる。視線の先には、いつものレジカウンターと、いつもの背中があった。
紺色のエプロン。白いシャツの袖を捲り上げた腕。少し猫背気味に伝票を整理する、愛おしいシルエット。
季節は巡り、また春が来た。けれど、私の目に映る景色は、一年前とはまるで違っていた。
かつて私は、本棚の陰から盗み見るだけの「不審な客」だった。
週に二回、火曜日と金曜日だけの逢瀬に胸を焦がし、言葉を交わすことさえ躊躇っていた臆病な片想い。
それが今はどうだろう。
私は客としてではなく、当然のようにカウンターのすぐ横に置かれた丸椅子――かつて雨宿りをした、あの席に腰掛け、彼と同じ時間を共有している。
「……飽きませんか?」
不意に、彼がこちらを向かずに声をかけてきた。ページを捲る手は止めず、淡々とした口調で。
「え?」
「さっきから、全然ページが進んでいないようですけど」
彼は視線を伝票に落としたまま、口元だけで微かに笑った。
バレていた。私は慌てて本に視線を戻すが、もう遅い。活字など、ここ数十分一文字も頭に入ってきていなかったのだから。
「……見てたんですか?」
「気配でわかりますよ。……視線が熱いので」
彼がようやく顔を上げ、こちらを見た。墨色の瞳が、春の光を透かして穏やかに細められる。
「……星衣さん」
名前を呼ばれた瞬間、心臓がとくんと跳ねた。何度呼ばれても、まだ慣れない。
「お客様」でも「結月様」でもなく、下の名前で呼ばれる甘やかな響き。
私は照れ隠しに本で口元を隠し、上目遣いで彼を見返した。
「……なんですか、嘉月くん」
私もまた、彼の名前を呼ぶ。以前なら考えられなかった、年下の彼への「くん」付け。
最初は恥ずかしくて舌を噛みそうだったけれど、今ではこの呼び方が一番しっくりくるようになった。
彼は満足そうに頷くと、カウンターから出て、私の前へと歩み寄ってきた。
「少し、休憩にしましょうか。……いいお茶が入ったんです」
「あ、私が淹れますよ」
立ち上がろうとした私を、彼の手が優しく制した。
「いいえ。あなたは座っていてください。……僕が、淹れたいので」
そう言うと、彼は私の頭にポンと手を置き、奥の給湯室へと消えていった。残された手のひらの温もり。
私は椅子に深く座り直し、ほう、と熱い息を吐いた。
幸せだなぁ、と思う。こんなにも穏やかで、静かで、満ち足りた時間があるなんて。一年前の私が見たら、腰を抜かすかもしれない。
あの「感情を出さない」「面倒事を嫌う」水瀬さんが、こんなふうに私を甘やかしてくれるなんて。
恋人同士になったからといって、劇的に何かが変わったわけではない。
私たちは相変わらず敬語で話すし、デートらしいデートもあまりしていない。
休日に私がここへ来て、彼が仕事をしている横で本を読んだり、たまに一緒にお茶を飲んだり。そんな、他愛のない過ごし方だ。
けれど、その静かな時間の中に、確かな変化はあった。
例えば、目が合った時に交わされる微笑みの温度。たとえば、ふとした瞬間に触れ合う指先の距離。
そして、互いの名前を呼び合う時の、くすぐったいような幸福感。
彼――嘉月くんは、以前言っていた通り、感情の起伏が激しいタイプではない。
けれど、私に対してだけは、時折驚くほど素直な表情を見せてくれるようになった。
私が焼いてきたクッキーを食べて「美味しい」と綻ぶ顔。仕事で疲れた私を気遣って、眉を下げる顔。
そして、帰り際に「まだ帰らないでほしい」と言いたげに、袖を掴んでくる時の寂しげな顔。
そのすべてが、私だけの宝物だ。カチャリ、と音がして、彼がお盆を持って戻ってきた。
湯気を立てるマグカップが二つ。桜の香りがするフレーバーティーだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼は私の隣に腰掛けると、自分のカップを両手で包み込んだ。
長い指。節の高い、美しい指。
以前は本を包む動作に見惚れていたけれど、今はその手が私に触れることを知っている。
その事実に、頬が熱くなる。
「……何ですか、ニヤニヤして」
「してませんよ。……ただ、幸せだなって思っただけです」
素直に伝えると、彼は不意を突かれたように目を丸くし、それから咳払いをして顔を背けた。
耳が赤い。こういう不器用なところは、相変わらずだ。
「……僕も、です」
ぼそりと聞こえた声に、私は胸がきゅんとなる。
「星衣さんがここにいてくれると、店の中が明るくなる気がします。……本たちも、喜んでいるみたいだ」
「ふふ、本が喜ぶなんて、嘉月くんらしい表現ですね」
「本当ですよ。……それに、僕も調子がいい」
彼は視線を戻し、真剣な眼差しで私を見た。
「あなたがいないと、やっぱり調子が狂うんです。……だから、責任を取ってくださいね」
それは、遠回しなプロポーズのようにも、ただの甘えのようにも聞こえた。
責任。それは本来、重くて面倒なものだ。誰かの人生に関わり、感情を共有し、支え合うこと。
以前の彼なら、一番に避けて通りたかった「面倒事」だろう。
けれど、彼はそれを受け入れた。私という「面倒」を、愛おしいものとして抱き締めてくれた。
「はい。……覚悟しておきます」
私が答えると、彼は嬉しそうに目を細め、そっと私の手に自分の手を重ねた。春の陽だまりの中で、二つの体温が溶け合う。
カラン、コロン。
入り口のベルが鳴った。お客様だ。彼ははっとして手を離し、瞬時に「店主」の顔に戻る。
「いらっしゃいませ」
凛とした声で立ち上がり、カウンターへと向かう彼。私は再び本を開き、「客」の顔をしてその背中を見守る。
少しだけ寂しいけれど、大丈夫。
今夜、店が閉まった後、二人で夜桜を見に行く約束をしているのは、私だけ。
物語は続いていく。
静かで、もどかしくて、けれど最高に幸せな、月と星の物語。




