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月と星の書架  作者: 沙也
13/15

星のない夜

水瀬視点。

 その違和感は、一滴の墨汁を真水に垂らしたように、静かに、けれど確実に水瀬嘉月の日常を侵食していった。

 最初のきっかけは、火曜日だった。午後七時。

 外はすでに冬の闇に覆われ、北風が硝子戸をガタガタと揺らしている。嘉月はレジカウンターの中で、伝票の整理をしていた。

 手元の作業に集中しているつもりだった。けれど、ふとした瞬間に視線が入り口の方へと彷徨うのを、自分でも止められずにいた。

 カウベルは鳴らない。訪れるのは静寂と、時折通り過ぎる車のヘッドライトの残像だけ。

 来ない。時計の針は七時半を回ろうとしている。いつもなら、とっくに彼女が現れている時間だ。

 「こんばんは」と、少し遠慮がちに、けれど期待を含んだ声で入ってきて、いつもの定位置――彼が密かに彼女のために空けている、レジ横のスペース――に立つはずの時間。

 残業だろうか。師走に入り、街全体が慌ただしい空気に包まれている。会社員の彼女も忙しいのかもしれない。

 あるいは、風邪でも引いただろうか。急に冷え込んできたから、体調を崩したのかもしれない。

 嘉月は無意識のうちに、彼女が来ない理由を列挙し、自分を納得させようとしていた。

 ただの客だ。毎週必ず来るという契約を交わしたわけでもない。来ない週があったとしても、何ら不思議ではない。

 頭ではそう理解している。けれど、胸の奥に澱のように溜まるこのざらついた感覚は、理屈では説明がつかなかった。

 八時。閉店の時間。

 嘉月は小さく息を吐き、カウンターの下に置いていた「あるもの」に目を落とした。

 それは、小さな紙袋に入った、ドライフラワーの栞だ。先週、彼女がくれたブラウニーのお礼に渡そうと思って用意していたもの。

 彼女の好きな青い花を選んで、自分で作った。

 渡せなかった。その事実が、思った以上に嘉月の心を重くした。

「……まあ、金曜日には来るだろう」

 独り言のように呟いて、彼は店の明かりを消した。そのときはまだ、楽観視していたのだ。

 これが、長く出口の見えないトンネルの入り口だとは知らずに。

 


 

 金曜日。

 彼女は来なかった。その次の火曜日も。そして、金曜日も。

 二週間。たった十四日間。日数にしてしまえばそれだけのことだ。

 けれど、嘉月にとってその期間は、世界の色が彩度を失ってしまったかのように、味気なく長く感じられた。

 調子が狂う。

 その一言に尽きた。朝、起きてコーヒーを淹れる。店を開ける。本の埃を払う。レジを打つ。

 やることは変わらない。日常は淡々と過ぎていく。けれど、ふとした瞬間に「欠落」を感じるのだ。

 

 ある日の昼下がり。嘉月はバックヤードで休憩を取ろうとしていた。やかんで湯を沸かし、ドリッパーにペーパーフィルターをセットする。

 コーヒー豆を挽く香ばしい匂いが、狭い給湯室に広がっていく。

 この香りも、彼女が好きだと言っていたな。そんなことをぼんやりと思い出しながら、彼は棚からマグカップを取り出した。

 自分用の、紺色のマグカップ。そして、その隣にある、白いマグカップにも手を伸ばしかけて――ぴたりと、動きを止めた。

 その白いカップは、客用のものではない。以前、彼女にコーヒーを出したとき使ったものだ。

 それ以来、なんとなく「彼女用」として、棚の奥ではなく手前に置くようになっていた。

 今日も、来るかもしれない。外は寒いから、温かいコーヒーを出せば喜ぶかもしれない。

 無意識のうちに、そんな思考回路が働いていたことに気づき、嘉月は愕然とした。

「……何をしているんだ、僕は」

 自嘲気味な声が漏れる。

 彼女は来ない。ここ数回の「実績」が、それを証明している。それなのに、二人分のコーヒーを淹れようとしているなんて。

 嘉月は白いカップから手を離し、自分用のカップだけを置いた。

「……一人分で、いいんだった」

 沸騰したお湯を注ぐ。ぽた、ぽた、と落ちる黒い液体。

 立ち昇る湯気を見つめながら、嘉月は胸の奥が締めつけられるような痛みを感じていた。

 寂しい。

 認めたくない感情が、湯気と共に溢れ出してくる。

 ただの客に、ここまで心を乱されるなんて。祖父がいなくなってから、一人でいることには慣れていたはずだった。

 静寂は友であり、孤独は平穏の代償だと思っていた。けれど、彼女が現れてからの数ヶ月で、嘉月の「平穏」の定義は書き換えられてしまっていたらしい。

 彼女がページをめくる音。お菓子を渡すときの、少し照れたような顔。「美味しいですか?」と聞いてくる、期待に満ちた瞳。

 それらがある時間こそが、彼にとっての新しい「平穏」になっていたのだ。それを失って初めて、嘉月はその温もりの心地よさを痛感していた。

 なぜ、来なくなったのだろう。その問いが、頭の中をぐるぐると回り続ける。

 何か、気に障ることを言っただろうか。

 『次の金曜日は雨が降るそうです』

 そう声をかけた自分に、彼女は『折り畳み傘を買ったから大丈夫です』と笑顔で返した。

 あのとき、自分が一瞬言葉に詰まったのを、彼女は不審に思っただろうか。

 本当は、「雨宿りしていきませんか」と言いたかった。

 けれど、そんな馴れ馴れしい言葉を口にする勇気がなくて、天気の話にすり替えてしまった。その臆病さが、彼女を遠ざけたのだろうか。

 それとも、もっと別の理由?

 例えば、彼女が最後に店に来た日。……いつだ?

 記憶を辿る。従兄の妻である女性が子供の誕生日を祝ったときの写真を持ってきてくれた日。

 いや、あの日彼女は来ていないはずだ。

 でも、もし来ていたとしたら? 自分が気づかないうちに店に来て、そして帰ってしまったとしたら?

 話しているところを見られた? 遠慮したのだろうか。それとも、誤解をした?

 思考は悪い方へと転がっていく。

 彼女は繊細だ。いつも気を使い、迷惑にならないようにと距離を測っている。

 そんな彼女が、もし自分と親しげな女性を見て「邪魔をしてはいけない」と身を引いたのだとしたら。

 あるいは、「恋人がいるんだ」と勘違いをして、離れていったのだとしたら。

「……まさか」

 嘉月は首を振って、その考えを打ち消そうとした。

 自意識過剰だ。

 彼女にとって、自分はただの「書店の店主」に過ぎない。彼女が通ってくれていたのは、単に店が会社から近くて、好みの本があったからだ。

 それ以上の理由――例えば、自分への好意などを期待するのは、傲慢というものだ。

 けれど。

 彼女がくれた数々のお菓子。その一つ一つに込められた手間と、渡す時の表情を思い出すと、どうしても期待してしまう自分がいる。

 あれは、ただの親切だったのか?

 それとも、僕と同じように、彼女も少しは「特別」を感じてくれていたのか?

 答えは出ない。

 彼女が来ない限り、確かめる術はない。嘉月は冷めたコーヒーを一口飲み、苦い顔をした。

 味がしない。彼女のお菓子がないコーヒーは、ただ黒くて苦いだけの液体だった。


 


 三回目の火曜日がやってきた。この日も、彼女は現れなかった。

 嘉月は閉店作業を終え、重い足取りで上の観測ドームへと上がる。電気をつける気にもなれず、暗い部屋の中を歩いていく。

 窓から、冷たい月明かりが差し込んでいて、彼は吸い寄せられるように窓辺に立ち、空を見上げた。

 冬の夜空は澄んでいて、星がよく見える。

 オリオン座。シリウス。冬の大三角。

 子供の頃から、祖父に教えられて見上げてきた星々。変わらない配置。変わらない輝き。

 それらを見ると、いつもなら心が落ち着くはずだった。

 人間関係の煩わしさや、将来への不安といった「地上の些事」を忘れさせてくれる、圧倒的な静寂と秩序。

 けれど、今夜は違った。星が、冷たい。その輝きが、鋭い針のように目に刺さる。

 綺麗すぎて、遠すぎる。

「……はぁ」

 白い溜息が、窓硝子を曇らせる。嘉月は窓枠に手をつき、額を押しつけた。

 脳裏に浮かぶのは、星空ではなく、彼女の顔だった。本棚の陰から、こっそりとこちらを盗み見ていた視線。

 「美味しい」と言った時に見せた、花が咲くような笑顔。駅までの帰り道、歩幅を合わせようとしていた不器用な足取り。

 彼女の名前。

 結月、星衣。

 月と、星。

 その名を知った時、嘉月は運命めいたものを感じずにはいられなかった。

 自分の名前は嘉月。

 月同士で、そして彼女は星を纏っている。まるで、この店の名前『月見書店』に導かれるように現れた人。

 祖父が愛した星空のように、嘉月にとって彼女は、暗い日常を照らす光になっていたのだ。

「……星が見えないと、寂しいな」

 ぽつりと、言葉が漏れた。

 それは空の星のことなのか。それとも、「星衣」という名の彼女のことなのか。自分でも区別がつかなかった。

 ただ、切実に、どうしようもなく寂しかった。

 面倒事を嫌い、感情の揺らぎを避けて生きてきた自分が、こんなにも誰かを求めている。

 その事実が、嘉月を打ちのめしていた。

 もし、もう二度と彼女が来なかったら?

 このまま、他人同士に戻ってしまったら?

 想像するだけで、心臓が凍りつきそうになる。

 嫌だ。それだけは、耐えられない。店主と客という一線を超えてでも、彼女を引き留めたい。

 「また来てください」と、笑顔で言いたい。いや、もっと踏み込んで、「あなたに会いたい」と伝えたい。

 嘉月は顔を上げ、夜空の月を睨みつけた。満月にはまだ少し遠い、欠けた月。

 まるで今の自分のようだと思った。半端で、何かが足りなくて、一人では完全になれない。

 次の金曜日。天気予報は晴れだ。満月になるらしい。

 もし彼女が来たら、そのときは、もう迷わない。

 「いらっしゃいませ」という店主の仮面を外して、一人の男として彼女に向き合おう。

 この寂しさを、彼女に伝えよう。

 例えそれが、「面倒事」の始まりだとしても。彼女がいない静寂よりも、彼女がいる喧騒の方が、今の自分には何倍も価値があるのだから。

 嘉月は窓から離れ、部屋の明かりをつけた。デスクの上に置いてある、一冊の古い本が目に入る。

 祖父がくれた天文書。表紙の金箔が、部屋の明かりを受けて鈍く光った。彼はその本を手に取り、埃を払うように優しく撫でた。

「……おじいさん。星を見るのは、一人だと少し寒いですね」

 誰に聞かせるわけでもなく呟く。

 金曜日。彼女が来てくれたら、この本を見せよう。

 そして、星の話をしよう。僕が一番大切にしているものの話を、僕が一番大切に想っている人に。

 祈るような気持ちで、嘉月は本を抱き締めた。

 外では風が吹き荒れている。長く、寒い冬の夜。けれど、夜が深ければ深いほど、星は輝くのだと信じて。

 彼は静かに、そのときを待つことにした。

 

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