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月と星の書架  作者: 沙也
12/15

距離を置く。

 カレンダーの日付が変わるたび、私の心には鉛のような重りが一つずつ増えていくようだった。

 火曜日。

 金曜日。

 また、火曜日。

 その文字を目にするだけで、胸の奥がずきりと痛む。

 あの日、逃げるように路地裏を走り去ってから、二週間が経とうとしていた。

 私は、あの『月見書店』に行かなくなった。正確には、行けなくなったのだ。

 仕事は変わらず忙しい。年末に向けての繁忙期で、残業続きなのはむしろ好都合だった。

 余計なことを考える時間を、仕事が塗り潰してくれるから。

 けれど、ふとした瞬間に空白は訪れる。

 コピー機の印刷を待っているとき。昼休みにコンビニのおにぎりを食べているとき。帰りの電車で、窓の外の流れる街明かりを見ているとき。

 気づけば、意識はあの場所へと飛んでいる。

 今頃、彼はどうしているだろう。いつもの紺色のエプロンをつけて、静かに本を包んでいるのだろうか。

 あのとき笑い合っていた彼が「特別」に想う女性と、また楽しく話しているのだろうか。

 それを想像するだけで、呼吸が浅くなる。

 私が店に行かなくなって、彼は何か思うだろうか。「最近、あの客が来ないな」くらいは思うかもしれない。

 でも、それだけだ。

 せいぜい「売上が少し減ったな」とか、「お菓子がなくて口寂しいな」とか、その程度のことだろう。

 私が抱えているような、身を切り裂かれるような喪失感を、彼が感じているはずがない。だって、私はただの客で、彼は店主なのだから。

 その事実を、私はこの二週間で嫌というほど自分に言い聞かせてきた。

 距離を置く。

 それは正しい選択だったはずだ。これ以上傷つかないための、そして彼に迷惑をかけないための、唯一の防衛策。

 それなのに、私の生活はまるで彩度を失ったモノクロ映画のように、味気ないものになってしまっていた。

 本を読む気にもなれない。あれほど好きだったお菓子作りも、道具を見るだけで胸が苦しくなって、キッチンに立つことさえできなくなっていた。

 私の日常の彩りは、すべてあの小さな書店の中にあったのだと思い知らされる。

 火曜日。

 定時で会社を出た私は、冷たい北風の中を歩いていた。

 いつもなら、足取り軽く路地裏へ向かう時間だ。けれど今の私は、駅へと続く大通りを、俯き加減で歩いている。

 真っ直ぐ帰ろう。帰って、熱いシャワーを浴びて、泥のように眠ってしまおう。

 そう決めていたはずなのに、交差点の赤信号で立ち止まったとき、ふと視線が横道へと吸い寄せられた。

 この道を曲がって、二つ目の角を左に行けば、あの店がある。

 距離にして数百メートル。その距離が、今の私には何万光年も離れた宇宙の彼方のように遠く、そして磁石のように抗いがたい引力を持っていた。

 ――ひと目だけ。

 悪魔の囁きのような声が、頭の中で響く。会わなくていい。話さなくていい。

 ただ、遠くから店の明かりを見るだけなら。彼が元気でいるか、確認するだけなら。

 それは未練がましいストーカーの思考だとわかっていたけれど、一度生まれた欲求は、渇いた喉が水を求めるように抑えきれなかった。

 信号が青に変わる。

 私は、人の波に逆らうようにして、横道へと足を踏み入れた。

 路地裏は、大通りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。冬の夜気は鋭く、頬を刺す。自分の足音だけが、カツ、カツと響く。

 角を曲がるたびに、心臓の鼓動が早くなる。見えてきた。闇の中に浮かぶ、温かなオレンジ色の光。『月見書店』の看板だ。その光を見た瞬間、涙が出そうになった。

 ああ、変わらない。

 私が来なくても、あの店は変わらずそこに在り、静かな光を放っている。それが安堵でもあり、同時に残酷な事実でもあった。

 私は建物の陰に身を潜め、コートの襟を立てて、硝子戸の向こうを覗き込んだ。店内には、客の姿はなかった。

 静寂が満ちているのが、硝子越しでもわかる。

 そして、レジカウンターの奥。いつもの定位置に、彼の姿があった。

 水瀬さん。

 二週間ぶりに見る彼は頬杖をつき、手元の伝票か何かをぼんやりと眺めていた。

 その表情は、いつもの「淡々とした」ものというよりは、どこか精彩を欠いているように見える。

 アンニュイな、と言えば聞こえはいいけれど、まるで電池が切れかけた人形のような、生気のない佇まい。

 彼も、疲れているのだろうか。年末だし、忙しいのかもしれない。

 あるいは、あの女性と喧嘩でもした? そんな勝手な憶測を巡らせていると、彼がふいに顔を上げた。

 そして、ゆっくりと視線を巡らせる。

 本棚へ。児童書のコーナーへ。そして、私がいつも立ち読みをしていた、文芸書の棚の陰へ。

 彼の視線が、誰もいない空間を彷徨う。何かを探しているような。誰かが来るのを待っているような。

 その瞳の色は、以前、私が雨の日に見たときのような――寂しげな色をしていた。

 ずきん、と胸が痛む。

 どうして、そんな顔をするの? 誰を待っているの? あの女性?

 それとも……もしかして――。

 彼が、ふっと入り口の扉の方へ視線をやった。私が隠れている場所からは、彼と目が合うことはない。けれど、彼が扉を見つめるその眼差しの強さに、私は息を呑んだ。

 彼はドアを見つめたまま、作業の手を止めていた。

 一秒、二秒、三秒。時が止まったような静寂。彼の中で、何かが期待されているような。カウベルが鳴るのを、今か今かと待ち望んでいるような、そんな張り詰めた空気。

 ――もしかして、待ってる?

 ありえない妄想が、脳裏を過る。今日は火曜日だ。私がいつも来ていた日だ。

 彼は、私が来るのを待っているのではないか。いつものように「こんばんは」と入ってきて、本を選んで、お菓子を渡す私を。

 もし、そうだとして、私が今、あの扉を開けたら彼はどんな顔をするだろう。

 「遅かったですね」と、あの日のように少し拗ねた顔をしてくれるだろうか。それとも、安堵して微笑んでくれるだろうか。

 ドアノブまで、あと数メートル。駆け寄って、扉を開けたい衝動に駆られる。

 けれど、 次の瞬間、彼が小さく首を振り、再び視線を落とした。その仕草が、私の淡い期待を粉々に砕く。

 諦め。そう、それは諦めの動作に見えた。「来るわけがない」と、自分に言い聞かせるような。あるいは、「どうでもいい」と切り替えるような。

 ――自意識過剰だ。

 私は唇を噛み締めた。馬鹿みたいだ。

 彼がドアを見たのは、単に風の音がしたからかもしれないし、配達業者を待っているだけかもしれない。それを勝手に自分への期待だと変換して、舞い上がって。

 あの笑顔の女性の存在を知っておきながら、まだ自分が特別かもしれないなんて夢を見ている。

 そんな自分が、どうしようもなく惨めで、恥ずかしかった。

 こんなに苦しいのは、私だけなんだ。あの硝子の向こう側は、平穏な日常が続いている。

 私が勝手に消えて、勝手に苦しんでいるだけで、彼にとっては何の痛みもない出来事なのだ。

 その事実を突きつけられた気がして、私は逃げるようにその場を離れた。

 もう、振り返らなかった。

 冷たい風が、涙で濡れた頬を容赦なく凍らせていく。

 さようなら。

 心の中で呟いたその言葉が、白い息となって夜空に消えていった。



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