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月と星の書架  作者: 沙也
11/15

見間違いかと思った。

 街路樹の葉が落ち尽くし、乾いた北風がアスファルトを吹き抜ける季節になった。

 コートの襟を合わせ、マフラーに顔を埋めるようにして歩く。

 吐く息は白い。けれど、私の足取りは決して重くはなかった。

 火曜日。週に二回、あの場所へ帰れる日。

 秋の夜に交わした「また」という約束は、あれから一度も破られることなく続いていた。

 劇的な進展はない。相変わらず彼は敬語で、私は客で、カウンター越しに言葉を交わすだけ。

 それでも、私がお菓子を持っていくと彼は「いただきます」と受け取ってくれるし、お釣りを渡す時に一瞬だけ目が合う回数も増えた気がする。

 そんなささやかな変化を糧に、私は冬の寒さを凌いでいた。

 今日も、新作のブラウニーを焼いてきている。濃厚なチョコレートに、少しだけオレンジピールを効かせた大人な味。

 甘いものが脳の疲労回復にいいと言っていた彼なら、きっと喜んでくれるはずだ。

 そんな期待を胸に、私はいつもの路地裏へと角を曲がった。

 『月見書店』のオレンジ色の明かりが見える。その温かな光を見るだけで、強張っていた肩の力が抜けていくようだ。

 はやる気持ちを抑えきれず、少しだけ早足になる。硝子戸の向こう。いつもの定位置に、彼の姿があるはずだ。

 私はドアノブに手をかけようとして――ふと、その動きを止めた。

 先客がいた。

 珍しいことではない。夕方の時間帯には、学校帰りの学生や、仕事帰りのサラリーマンがいることもある。

 けれど、その客は本棚の前ではなく、レジカウンターのすぐ横に立っていた。

 小柄な女性だ。背中を向けているので顔は見えないけれど、ミルクティー色の柔らかなニットに、ふわりとしたロングスカートを合わせている。

 私とは違う、華やかで、守りたくなるような雰囲気の人。

 彼女はカウンターに身を乗り出すようにして、水瀬さんと何かを話していた。

 距離が、近い。店員と客の距離ではない。カウンターの厚みを飛び越えて、パーソナルスペースに踏み込んでいる。

 私は反射的に、扉の陰に身を隠した。見てはいけないものを見ているような、嫌な予感が胸をざわつかせる。

 硝子越しに、店内の様子が無音の映画のように映し出される。

 女性が、楽しそうに肩を揺らした。何かを鞄から取り出し、彼に差し出す。それは、カラフルなパッケージのお菓子か、あるいは写真のようなものに見えた。

 水瀬さんは、作業の手を止めてそれを受け取る。いつもなら、「ありがとうございます」と淡々と頭を下げる場面だ。あるいは、「困ります」と眉を寄せる場面だ。

 けれど彼は、笑った。

 私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。見間違いかと思った。

 だって、あの水瀬さんだ。いつも感情を凪いだ湖面のように静まらせ、業務的な微笑み以外を見せない彼だ。

 その彼が、今。眉尻を下げ、目元をくしゃりと歪ませて、口元から白い歯を覗かせていた。

 困ったような、呆れたような。けれど、その奥に隠しきれない親愛と、許容が滲んでいる表情。

 ――ああ、もう。しょうがないなぁ。

 硝子越しで声は聞こえないはずなのに、そんな甘い声音が脳内に響いた気がした。見たことのない顔だった。

 私がどれだけ言葉を尽くしても、勇気を出して話しかけても。

 何ヶ月もかけて毎週通っても。雨の日に二人きりで雨宿りをしても。心を込めてお菓子を焼いて、感想をねだっても。

 決して、一度だって引き出せなかった、「人間らしい温度」のある表情。

 それが、あんなにも簡単に、私の知らない誰かへ向けられている。女性がまた何かを言い、彼が肩を竦めて、また笑う。

 その空気感には、私が入り込む隙間なんて一ミリもなかった。

 長い時間をかけて積み上げられた信頼と、遠慮のない関係性だけが持つ、特有の安らぎ。

 「面倒事を嫌う」彼が、その女性との会話を少しも「面倒」だと思っていないことが、痛いほど伝わってくる。

 ああ、そうか。

 私は、勘違いをしていたんだ。

 彼は、感情を出さないクールな人なんかじゃなかった。感情を見せてもいい相手の中に、私が、いなかっただけだった。

 店主と客。その分厚くて透明な境界線。

 私は毎週そこに通い、言葉を交わし、少しずつその壁を薄くしてきたつもりでいた。

 名前を呼ばれ、好みを共有し、駅まで並んで歩くことで、いつかその壁の向こう側へ行けると信じていた。

 でも、現実は違った。

 壁は最初から、絶望的なまでに分厚く、そして透明だったのだ。

 私が必死に爪を立てていたその壁の向こう側には、最初から「選ばれた人」だけが入れる場所があって、彼はそこで、あんなにも無防備に笑うのだ。

 手の中の紙袋が、かさりと音を立てた。中には、彼のために焼いたブラウニーが入っている。

 滑稽だった。これを渡して、また「美味しい」と言ってもらえれば、少し近づけたような気になれると思っていた自分が。

 試食係? 食べる係? そんな言葉に一喜一憂して、特別な関係になれたような気でいたなんて。

 あの女性が差し出したものを見て笑う彼を見れば、私のお菓子に向けられた「いただきます」が、いかに余所行きで、他人行儀なものだったかがわかってしまう。

 私は、一歩後ずさった。これ以上、見ていられなかった。

 硝子の向こうの光景が、涙で滲みそうになるのを必死に堪える。

 入ってはいけない。今、あの扉を開けて、「こんばんは」なんて笑顔を作ることはできない。

 そんなことをすれば、私は惨めさで押し潰されてしまうだろう。それに、彼にあんな顔をさせる女性の隣で、私は「ただの客」として振る舞う自信がなかった。

 逃げよう。

 私は踵を返した。ブラウニーの入った紙袋を、コートのポケットに押し込む。

 せっかく来たのに。火曜日なのに。

 頭の中で様々な言葉が渦巻くけれど、足はもつれるように駅の方へと向かっていた。

 冷たい北風が、熱を持った頬を容赦なく叩く。涙なんて流さない。泣く資格なんて、私にはないのだから。

 勝手に好きになって、勝手に通いつめて、勝手に期待して、勝手に傷ついているだけ。

 彼は何も悪くない。ただ、私が「自分はただの客」だという事実を、痛感させられただけだ。

 駅までの道のりが、いつもより長く、暗く感じられた。

 もう、あの店には行けないかもしれない。あんな笑顔を知ってしまったら、いつもの「いらっしゃいませ」じゃ満足できなくなってしまう。

 そして、その渇望が彼を困らせる「面倒事」になるのは、目に見えている。

 距離を置こう。

 熱くなりすぎた頭を冷やして、身の程を知るために。

 私はポケットの中で、潰れてしまったかもしれないブラウニーを強く握り締めた。

 


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