見間違いかと思った。
街路樹の葉が落ち尽くし、乾いた北風がアスファルトを吹き抜ける季節になった。
コートの襟を合わせ、マフラーに顔を埋めるようにして歩く。
吐く息は白い。けれど、私の足取りは決して重くはなかった。
火曜日。週に二回、あの場所へ帰れる日。
秋の夜に交わした「また」という約束は、あれから一度も破られることなく続いていた。
劇的な進展はない。相変わらず彼は敬語で、私は客で、カウンター越しに言葉を交わすだけ。
それでも、私がお菓子を持っていくと彼は「いただきます」と受け取ってくれるし、お釣りを渡す時に一瞬だけ目が合う回数も増えた気がする。
そんなささやかな変化を糧に、私は冬の寒さを凌いでいた。
今日も、新作のブラウニーを焼いてきている。濃厚なチョコレートに、少しだけオレンジピールを効かせた大人な味。
甘いものが脳の疲労回復にいいと言っていた彼なら、きっと喜んでくれるはずだ。
そんな期待を胸に、私はいつもの路地裏へと角を曲がった。
『月見書店』のオレンジ色の明かりが見える。その温かな光を見るだけで、強張っていた肩の力が抜けていくようだ。
はやる気持ちを抑えきれず、少しだけ早足になる。硝子戸の向こう。いつもの定位置に、彼の姿があるはずだ。
私はドアノブに手をかけようとして――ふと、その動きを止めた。
先客がいた。
珍しいことではない。夕方の時間帯には、学校帰りの学生や、仕事帰りのサラリーマンがいることもある。
けれど、その客は本棚の前ではなく、レジカウンターのすぐ横に立っていた。
小柄な女性だ。背中を向けているので顔は見えないけれど、ミルクティー色の柔らかなニットに、ふわりとしたロングスカートを合わせている。
私とは違う、華やかで、守りたくなるような雰囲気の人。
彼女はカウンターに身を乗り出すようにして、水瀬さんと何かを話していた。
距離が、近い。店員と客の距離ではない。カウンターの厚みを飛び越えて、パーソナルスペースに踏み込んでいる。
私は反射的に、扉の陰に身を隠した。見てはいけないものを見ているような、嫌な予感が胸をざわつかせる。
硝子越しに、店内の様子が無音の映画のように映し出される。
女性が、楽しそうに肩を揺らした。何かを鞄から取り出し、彼に差し出す。それは、カラフルなパッケージのお菓子か、あるいは写真のようなものに見えた。
水瀬さんは、作業の手を止めてそれを受け取る。いつもなら、「ありがとうございます」と淡々と頭を下げる場面だ。あるいは、「困ります」と眉を寄せる場面だ。
けれど彼は、笑った。
私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。見間違いかと思った。
だって、あの水瀬さんだ。いつも感情を凪いだ湖面のように静まらせ、業務的な微笑み以外を見せない彼だ。
その彼が、今。眉尻を下げ、目元をくしゃりと歪ませて、口元から白い歯を覗かせていた。
困ったような、呆れたような。けれど、その奥に隠しきれない親愛と、許容が滲んでいる表情。
――ああ、もう。しょうがないなぁ。
硝子越しで声は聞こえないはずなのに、そんな甘い声音が脳内に響いた気がした。見たことのない顔だった。
私がどれだけ言葉を尽くしても、勇気を出して話しかけても。
何ヶ月もかけて毎週通っても。雨の日に二人きりで雨宿りをしても。心を込めてお菓子を焼いて、感想をねだっても。
決して、一度だって引き出せなかった、「人間らしい温度」のある表情。
それが、あんなにも簡単に、私の知らない誰かへ向けられている。女性がまた何かを言い、彼が肩を竦めて、また笑う。
その空気感には、私が入り込む隙間なんて一ミリもなかった。
長い時間をかけて積み上げられた信頼と、遠慮のない関係性だけが持つ、特有の安らぎ。
「面倒事を嫌う」彼が、その女性との会話を少しも「面倒」だと思っていないことが、痛いほど伝わってくる。
ああ、そうか。
私は、勘違いをしていたんだ。
彼は、感情を出さないクールな人なんかじゃなかった。感情を見せてもいい相手の中に、私が、いなかっただけだった。
店主と客。その分厚くて透明な境界線。
私は毎週そこに通い、言葉を交わし、少しずつその壁を薄くしてきたつもりでいた。
名前を呼ばれ、好みを共有し、駅まで並んで歩くことで、いつかその壁の向こう側へ行けると信じていた。
でも、現実は違った。
壁は最初から、絶望的なまでに分厚く、そして透明だったのだ。
私が必死に爪を立てていたその壁の向こう側には、最初から「選ばれた人」だけが入れる場所があって、彼はそこで、あんなにも無防備に笑うのだ。
手の中の紙袋が、かさりと音を立てた。中には、彼のために焼いたブラウニーが入っている。
滑稽だった。これを渡して、また「美味しい」と言ってもらえれば、少し近づけたような気になれると思っていた自分が。
試食係? 食べる係? そんな言葉に一喜一憂して、特別な関係になれたような気でいたなんて。
あの女性が差し出したものを見て笑う彼を見れば、私のお菓子に向けられた「いただきます」が、いかに余所行きで、他人行儀なものだったかがわかってしまう。
私は、一歩後ずさった。これ以上、見ていられなかった。
硝子の向こうの光景が、涙で滲みそうになるのを必死に堪える。
入ってはいけない。今、あの扉を開けて、「こんばんは」なんて笑顔を作ることはできない。
そんなことをすれば、私は惨めさで押し潰されてしまうだろう。それに、彼にあんな顔をさせる女性の隣で、私は「ただの客」として振る舞う自信がなかった。
逃げよう。
私は踵を返した。ブラウニーの入った紙袋を、コートのポケットに押し込む。
せっかく来たのに。火曜日なのに。
頭の中で様々な言葉が渦巻くけれど、足はもつれるように駅の方へと向かっていた。
冷たい北風が、熱を持った頬を容赦なく叩く。涙なんて流さない。泣く資格なんて、私にはないのだから。
勝手に好きになって、勝手に通いつめて、勝手に期待して、勝手に傷ついているだけ。
彼は何も悪くない。ただ、私が「自分はただの客」だという事実を、痛感させられただけだ。
駅までの道のりが、いつもより長く、暗く感じられた。
もう、あの店には行けないかもしれない。あんな笑顔を知ってしまったら、いつもの「いらっしゃいませ」じゃ満足できなくなってしまう。
そして、その渇望が彼を困らせる「面倒事」になるのは、目に見えている。
距離を置こう。
熱くなりすぎた頭を冷やして、身の程を知るために。
私はポケットの中で、潰れてしまったかもしれないブラウニーを強く握り締めた。




