「……次の金曜日は、雨が降るそうです」
駅までの帰り道、彼と肩を並べて歩いた夢のような夜から、数日が経っていた。
火曜日の約束。
その言葉の響きを、私はまるで溶けない飴玉のように、口の中で転がし続けていた。
仕事中にふと思い出してはニヤけそうになり、慌てて咳払いで誤魔化す。そんな不審な挙動を繰り返しながら、ようやく待ちに待った火曜日がやってきた。
天気予報では、夜から下り坂だと言っていたけれど、退社時間の空はまだ持ち堪えているようだった。
厚い雲が月を隠している。
けれど、今の私には足取りを重くする理由にはならなかった。むしろ、少し湿った風が、火照った頬に心地いいくらいだ。
いつもの路地裏。いつもの扉。
カラン、コロン。
ベルの音と共に店内に入ると、今日も変わらない静寂とインクの匂いが出迎えてくれた。
レジカウンターの奥。水瀬さんの姿を見つけた瞬間、私の心臓はパブロフの犬のように反応して高鳴り始める。
「いらっしゃいませ」
彼が顔を上げる。その視線が私を捉え、ほんの一瞬、ふわりと柔らかく緩んだ気がした。
金曜日の夜、「また」と言ってくれた彼の表情が脳裏に蘇る。
自意識過剰かもしれないけれど、彼も私が来るのを待っていてくれたのではないか。
そんな期待が、胸の奥で小さな泡のように弾けた。私は軽く会釈をして、本棚の間を巡った。
今日選んだのは、装丁が美しい海外文学の短編集だ。鮮やかなブルーの表紙は、雨の日の読書に似合いそうだった。
本を手に取り、レジへと向かう。この数メートルの移動だけで、緊張と幸福が入り混じった奇妙な高揚感に包まれてしまう。
カウンターに本を置くと、彼は手際よく会計を始めた。
バーコードを読み取る電子音。カバーを掛ける紙擦れの音。そのすべてが、私にとっては心地よいBGMだ。
綺麗な指先に見惚れていると、不意に彼の手が止まった。カバーを掛け終えた本に手を添えたまま、彼はふと視線を上げ、私を見た。
「……あの」
「はい?」
改まって声をかけられ、私は背筋を伸ばす。
彼は少し言い淀むように視線を僅かに逸らし、それから窓の外の暗い空へと目を向けた。
「……次の金曜日は、雨が降るそうです」
低く、静かな声だった。私は瞬きをして、その言葉を反芻する。
次の金曜日。雨。天気の話だ。
書店員さんが、お客様にする世間話としては、ごくありふれたものだろう。けれど、どうして今、わざわざ天気の話を?
私は首を傾げそうになるのを堪え、彼の意図を探ろうとした。
彼なりの気遣いだろうか?
「雨で足元が悪いから気をつけて」という、業務的なアナウンス?
いや、彼に限ってそんなマニュアル通りの接客をするとは思えない。
あるいは、ただの沈黙埋め?
彼の表情を読み取ろうとするけれど、いつもの涼しい顔からは何も読み取れない。視線を泳がせているのが、少し気になるけれど。
……まあ、普通に考えればただの親切だ。
以前、私が雨の日に傘を持たずに来て、ずぶ濡れになりかけたことがあった。彼はそれを覚えていて、「次は気をつけてくださいね」と忠告してくれているのだろう。
なんて優しい人なんだろう。先の私のことまで気にかけてくれるなんて。
私は胸の奥が温かくなるのを感じながら、素直にその言葉を受け取ることにした。
「教えていただいて、ありがとうございます」
私は感謝を込めて微笑んだ。そして、彼を安心させるために、少し誇らしげに続けた。
「でも、大丈夫です。この間のことがあってから、折り畳み傘を持ち歩くようにしたんです」
そう、あの雨宿りの日以来、私は学習したのだ。常にバッグの底には、軽量の折り畳み傘を忍ばせている。
これで、いつ雨が降っても平気だ。
彼に迷惑をかけることもないし、借りた傘を返しに来る手間もかけさせない。私は完璧な対策をアピールするように、バッグをぽんと叩いた。
「……本が濡れてしまったら、哀しいですから。だから、今度は雨が降っても大丈夫です」
どうだ、と言わんばかりの私。彼の忠告を真摯に受け止め、改善した優良な客としての振る舞いだ。
これで彼も「それは良かった」と安心してくれるはず。
そう思っていたのだが。
予想に反して、彼の反応は鈍かった。安心するどころか、すっと目を細め、どこか冷ややかな、それでいて拗ねたような色が瞳に浮かんだのだ。
彼はゆっくりと視線を私から外し、カウンターの上の本へと落とした。
「……そうですか」
短い一言。その声の温度が、さっきよりも明らかに一度下がっている。
え?
私は心の中で狼狽えた。何か、変なことを言っただろうか。
折り畳み傘を持っていると言っただけなのに。彼の纏う空気が、どこかトゲトゲしくなった気がする。
まるで、せっかく用意したプレゼントを「あ、それ持ってるから要らない」と言われた子供のような……いや、そんな幼稚な例えは彼には失礼だ。
でも、明らかに機嫌を損ねている。表情は変わらない。
眉一つ動かしていないけれど、長く通っている私にはわかる。今の彼は、拗ねている。
「あ、あの……?」
恐る恐る声をかけると、彼はふいっと顔を背け、レジの引き出しを整理し始めた。
「いえ。……雨に濡れずに済むなら、何よりです。本も、無事ですし」
言葉尻に、妙な棘がある。本「も」、という強調が、なんだか皮肉めいて聞こえるのは気のせいだろうか。
私はひたすら疑問符を浮かべるしかなかった。
どうして?
雨が降るから気をつけろと言ってくれた。だから、大丈夫ですと答えた。
会話として、何も間違っていないはずだ。それなのに、どうして彼はこんなに不満げなのだろう。
もしかして、「次の金曜日は店を休むから来ないでくれ」という遠回しな宣告だったとか?
いや、それならそう言うはずだ。私の脳内会議は紛糾したが、答えは出ない。彼はもう、完全に「業務モード」の鉄壁を築いてしまっていた。
「ありがとうございました」
差し出された本を受け取る。その手つきは丁寧だったけれど、どこか余所余しい。
「あ、ありがとうございました……」
釈然としないまま、私は店を後にする。外に出ると、雲が重く空を覆っていた。
私は、学習したのだ。
あの雨の日、無防備に飛び込んで彼を困らせた自分から、ちゃんと準備のできる「良識ある客」へと成長したはずだった。
それなのに、どうしてだろう。
完璧な対策をして店を出たはずなのに、胸の奥に小さな穴が開いたように、スースーと冷たい風が通り抜けていく。
路地裏を歩きながら、私は一度だけ振り返った。書店の窓から漏れる明かりは、いつも通り温かい。なのに……。
――そうですか。
最後に彼が零した、あの短く、温度のない言葉が耳に残っている。
安堵してくれたはずだ。客が濡れずに済むのだから、店員としてこれ以上のことはないはずだ。
それなのに、あのときの彼は、まるで期待していた答えを貰えなかった子供のように、ふいっと視線を逸らしてしまった。
機嫌が悪かったのだろうか。それとも、私の「準備万端」な態度が、どこか可愛げがなくて気に障ったのだろうか。
わからない。私には、彼の沈黙の意味を解く鍵がない。
あの雨の日、二人で過ごした静謐な時間。借りた傘の重み。
そんな、あやふやで特別な「雨宿り」の理由を、私自身がこの傘も存在で遮断してしまったことになど、気づくはずもなかった。
風が冷たい。私はただ首を傾げながら、夜の道を一人歩いていくのだった。




