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月と星の書架  作者: 沙也
10/15

「……次の金曜日は、雨が降るそうです」

 駅までの帰り道、彼と肩を並べて歩いた夢のような夜から、数日が経っていた。

 火曜日の約束。

 その言葉の響きを、私はまるで溶けない飴玉のように、口の中で転がし続けていた。

 仕事中にふと思い出してはニヤけそうになり、慌てて咳払いで誤魔化す。そんな不審な挙動を繰り返しながら、ようやく待ちに待った火曜日がやってきた。

 天気予報では、夜から下り坂だと言っていたけれど、退社時間の空はまだ持ち堪えているようだった。

 厚い雲が月を隠している。

 けれど、今の私には足取りを重くする理由にはならなかった。むしろ、少し湿った風が、火照った頬に心地いいくらいだ。

 いつもの路地裏。いつもの扉。

 カラン、コロン。

 ベルの音と共に店内に入ると、今日も変わらない静寂とインクの匂いが出迎えてくれた。

 レジカウンターの奥。水瀬さんの姿を見つけた瞬間、私の心臓はパブロフの犬のように反応して高鳴り始める。

「いらっしゃいませ」

 彼が顔を上げる。その視線が私を捉え、ほんの一瞬、ふわりと柔らかく緩んだ気がした。

 金曜日の夜、「また」と言ってくれた彼の表情が脳裏に蘇る。

 自意識過剰かもしれないけれど、彼も私が来るのを待っていてくれたのではないか。

 そんな期待が、胸の奥で小さな泡のように弾けた。私は軽く会釈をして、本棚の間を巡った。

 今日選んだのは、装丁が美しい海外文学の短編集だ。鮮やかなブルーの表紙は、雨の日の読書に似合いそうだった。

 本を手に取り、レジへと向かう。この数メートルの移動だけで、緊張と幸福が入り混じった奇妙な高揚感に包まれてしまう。

 カウンターに本を置くと、彼は手際よく会計を始めた。

 バーコードを読み取る電子音。カバーを掛ける紙擦れの音。そのすべてが、私にとっては心地よいBGMだ。

 綺麗な指先に見惚れていると、不意に彼の手が止まった。カバーを掛け終えた本に手を添えたまま、彼はふと視線を上げ、私を見た。

「……あの」

「はい?」

 改まって声をかけられ、私は背筋を伸ばす。

 彼は少し言い淀むように視線を僅かに逸らし、それから窓の外の暗い空へと目を向けた。

「……次の金曜日は、雨が降るそうです」

 低く、静かな声だった。私は瞬きをして、その言葉を反芻する。

 次の金曜日。雨。天気の話だ。

 書店員さんが、お客様にする世間話としては、ごくありふれたものだろう。けれど、どうして今、わざわざ天気の話を?

 私は首を傾げそうになるのを堪え、彼の意図を探ろうとした。

 彼なりの気遣いだろうか?

 「雨で足元が悪いから気をつけて」という、業務的なアナウンス?

 いや、彼に限ってそんなマニュアル通りの接客をするとは思えない。

 あるいは、ただの沈黙埋め?

 彼の表情を読み取ろうとするけれど、いつもの涼しい顔からは何も読み取れない。視線を泳がせているのが、少し気になるけれど。

 ……まあ、普通に考えればただの親切だ。

 以前、私が雨の日に傘を持たずに来て、ずぶ濡れになりかけたことがあった。彼はそれを覚えていて、「次は気をつけてくださいね」と忠告してくれているのだろう。

 なんて優しい人なんだろう。先の私のことまで気にかけてくれるなんて。

 私は胸の奥が温かくなるのを感じながら、素直にその言葉を受け取ることにした。

「教えていただいて、ありがとうございます」

 私は感謝を込めて微笑んだ。そして、彼を安心させるために、少し誇らしげに続けた。

「でも、大丈夫です。この間のことがあってから、折り畳み傘を持ち歩くようにしたんです」

 そう、あの雨宿りの日以来、私は学習したのだ。常にバッグの底には、軽量の折り畳み傘を忍ばせている。

 これで、いつ雨が降っても平気だ。

 彼に迷惑をかけることもないし、借りた傘を返しに来る手間もかけさせない。私は完璧な対策をアピールするように、バッグをぽんと叩いた。

「……本が濡れてしまったら、哀しいですから。だから、今度は雨が降っても大丈夫です」

 どうだ、と言わんばかりの私。彼の忠告を真摯に受け止め、改善した優良な客としての振る舞いだ。

 これで彼も「それは良かった」と安心してくれるはず。

 そう思っていたのだが。

 予想に反して、彼の反応は鈍かった。安心するどころか、すっと目を細め、どこか冷ややかな、それでいて拗ねたような色が瞳に浮かんだのだ。

 彼はゆっくりと視線を私から外し、カウンターの上の本へと落とした。

「……そうですか」

 短い一言。その声の温度が、さっきよりも明らかに一度下がっている。

 え?

 私は心の中で狼狽えた。何か、変なことを言っただろうか。

 折り畳み傘を持っていると言っただけなのに。彼の纏う空気が、どこかトゲトゲしくなった気がする。

 まるで、せっかく用意したプレゼントを「あ、それ持ってるから要らない」と言われた子供のような……いや、そんな幼稚な例えは彼には失礼だ。

 でも、明らかに機嫌を損ねている。表情は変わらない。

 眉一つ動かしていないけれど、長く通っている私にはわかる。今の彼は、拗ねている。

「あ、あの……?」

 恐る恐る声をかけると、彼はふいっと顔を背け、レジの引き出しを整理し始めた。

「いえ。……雨に濡れずに済むなら、何よりです。本も、無事ですし」

 言葉尻に、妙な棘がある。本「も」、という強調が、なんだか皮肉めいて聞こえるのは気のせいだろうか。

 私はひたすら疑問符を浮かべるしかなかった。

 どうして?

 雨が降るから気をつけろと言ってくれた。だから、大丈夫ですと答えた。

 会話として、何も間違っていないはずだ。それなのに、どうして彼はこんなに不満げなのだろう。

 もしかして、「次の金曜日は店を休むから来ないでくれ」という遠回しな宣告だったとか?

 いや、それならそう言うはずだ。私の脳内会議は紛糾したが、答えは出ない。彼はもう、完全に「業務モード」の鉄壁を築いてしまっていた。

「ありがとうございました」

 差し出された本を受け取る。その手つきは丁寧だったけれど、どこか余所余しい。

「あ、ありがとうございました……」

 釈然としないまま、私は店を後にする。外に出ると、雲が重く空を覆っていた。

 私は、学習したのだ。

 あの雨の日、無防備に飛び込んで彼を困らせた自分から、ちゃんと準備のできる「良識ある客」へと成長したはずだった。

 それなのに、どうしてだろう。

 完璧な対策をして店を出たはずなのに、胸の奥に小さな穴が開いたように、スースーと冷たい風が通り抜けていく。

 路地裏を歩きながら、私は一度だけ振り返った。書店の窓から漏れる明かりは、いつも通り温かい。なのに……。

 ――そうですか。

 最後に彼が零した、あの短く、温度のない言葉が耳に残っている。

 安堵してくれたはずだ。客が濡れずに済むのだから、店員としてこれ以上のことはないはずだ。

 それなのに、あのときの彼は、まるで期待していた答えを貰えなかった子供のように、ふいっと視線を逸らしてしまった。

 機嫌が悪かったのだろうか。それとも、私の「準備万端」な態度が、どこか可愛げがなくて気に障ったのだろうか。

 わからない。私には、彼の沈黙の意味を解く鍵がない。

 あの雨の日、二人で過ごした静謐な時間。借りた傘の重み。

 そんな、あやふやで特別な「雨宿り」の理由を、私自身がこの傘も存在で遮断してしまったことになど、気づくはずもなかった。

 風が冷たい。私はただ首を傾げながら、夜の道を一人歩いていくのだった。


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